孫策軍参入

陳武、字は子烈である。 

盧江松滋の出身で、孫策が寿春にいたときに、陳武は彼を訪れ拝謁したと書かれている。つまり、孫策が袁術の元に身を寄せていた頃である。

孫策が袁術の元で活躍をするのは実際には程普、韓当、黄蓋を手に入れた後の陸康戦である。その前は不遇の時代を送っており、わざわざそのような人物を訪れるとは考えにくい。もしかしたら、陳武は程普や韓当の下にいた兵士の一人だったかもしれないとも考える。 

陳武が孫策に会ったのは彼が18歳のときである。その時の身の丈が七尺七寸あったと書かれている。今の身長に直すと183CMあったということである。現代ではそんなに驚くほど高い身長ではないが、彼の身長がわざわざ書かれているということは当時、183CMというと相当大柄な人物であったのだろう。 
 



無敵隊

その後、陳武は孫策に付き従って、長江を渡った戦いで武功を挙げる。つまり、劉繇討伐戦をメインとした江東、江南の主要な戦いであろう。この武功を認められた陳武は別部司馬を拝する。 

その後、袁術が死亡すると袁術の軍団は孫策を頼ろうとしたところ劉勲に囚われてしまう。孫策は一計を案じ、劉勲を大いに撃破した。この戦いに関しては孫策伝を参照して欲しい。その時、孫策は袁術のもとにいた盧江の人々を手に入れ、その中でも特に精鋭を選りすぐって部隊を編成し陳武を監督者とした。 

陳武の目を見張る武力もあったのだろうが、この部隊は孫呉軍の中でも向かうところ敵無しと謳われた。その後、孫策が死去し、孫権が跡を継ぐと陳武はその才能を買われて首都防衛隊である督五校に昇進する。 



合肥の戦い

陳武は仁慈に厚く、喜んで人々に施しをするような人物であったため、郷里や遠方から数多くの賓客たちが陳武のもとに身を寄せた。そんな、陳武の性格を孫権はこよなく愛し陳武の家にもしばしば訪れたという。 

その後、陳武は順調に功労を重ねて官位は偏将軍にまで進む。恐らく、黄祖討伐戦や赤壁の戦いでも、無敵の部隊を率いて活躍したものと考えられる。 

そんな陳武は孫呉軍が惨敗した合肥の戦いにおいて命がけで孫権を守り奮闘したすえに戦死してしまう。恐らくではあるが、陳武が戦死したのは張遼の最初の奇襲のときではないかと考える。というのは二度目の奇襲は凌統や呂蒙の奮戦は正史に描かれているが陳武の名前が一切出てきていない。 

蒼天航路にも描かれている通り、最初に不意をつかれ張遼の襲撃を受けた孫呉軍は混乱をきたす。そして高台に孫権を逃がすために陳武は奮戦し戦死したと考える。 

37歳の若さで戦死した英雄の死を孫権は悲しみ、自ら葬儀に臨み、また陳武の愛妾に殉死を命じたと言われている。孫権は結構むごいですね・・・。 



早すぎる死

三国志演義では陳武は「顔は黄色で目が赤い異形の相」と描かれている。当然、そのような事は正史には書かれておらず作り話ではあるが、陳武の迫力ある強さがそのように書かせたのかもしれない。 

孫呉軍は合肥の戦いで屈辱ともいえる大敗を喫した。10万もの軍を率いて揚々と攻め込んだものの、数千の敵兵に蹴散らされ、孫権は命の危機に陥った。 

しかし、この合肥の戦いでの敗戦で何よりも孫呉軍にとって痛かったのは大敗という結果ではなく、陳武という武将を37歳の若さで死なせてしまったことであろう。 



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