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張承とは |
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張承、字は仲嗣である。
張承は呉の重臣である張昭の長子で、若くしてその才能と学問とで名を知られ、諸葛瑾、歩隲、厳oという面子と親しい交わりを結んでいた。これらの人物は皆、孫呉政権の中では教養人としてしられている人物ばかりで、当然、孫呉政権では重要な役職についている。また、張承の人柄は男らしくて勇敢で真心をもって行動をする人物であったらしく、彼は人物鑑定にも秀でていた。
その友人たちの中でも、厳oとは裴玄と共に、管仲(管子)や季路(孔子の弟子)について議論をし、その議論は広く世間に知られるようになる。厳oは孝経伝と潮水論を著している人物であるが、この人物と儒教について真摯に論じていることから、張承も父親の影響を色濃く受け継ぎ、儒教を重んじる人間であったことが分かる。
孫権が車騎将軍になると、張承は招かれて孫権の西曹掾に任じられた。西曹掾とは恐らく官吏を採用するような役職だと思われ、孫権は張承に人物鑑識の眼があることからこの役職に置いたか、張承はこの役職についている間に人物眼を養ったのかもしれない。
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人物眼 |
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張承の人物を見る眼は確かなようで、彼の人物評には色々なエピソードがあるので以下に紹介したい。
張承は何の後ろ盾の無い彭城出身の蔡款や南陽出身の謝景を年若く不遇な境遇の中から抜擢している。二人とも後に呉にとってなくてはならぬ人物となり、蔡款は衛尉の官でもって中書令の職務にあたり留侯に封ぜられた人物で、謝景は後に豫章太守となる人物である。
また、諸葛格の才能は呉国内では高く評価されていたものの、張承は諸葛家を滅ぼす者は諸葛恪であると言い、張承の言葉どおり、後に諸葛恪は無謀な戦いを魏に挑み、敗退し、それを理由に孫峻のクーデターによりその命を奪われると、一族のものも全て殺された。
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儒教 |
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当時の儒教の影響は凄いものがあり、先に述べたように張承が儒教を重んじる人間であったこと、そして教養人であったことから彼の呉国内における評判は相当高い。
頴川の周昭という人物は後に呉書の編集に携わる人物であるが、彼は書物を著して、顧邵、歩隲、諸葛瑾、厳o、張承は儒教の思想に沿って生きた素晴らしい人物であると評価しており、張承はきっぱりとした態度をとって自らの行動を曖昧なものとはせず、心には道に外れた欲望を持たず、事にあたっては調子に乗りすぎることも無く、朝堂に上るときには常に礼に従って行動し、何にはばかることなく直言をして、全ての行動が忠で貫かれていたと賛辞している。
その例として周昭は、張承は自分の弟である張休が高い位についていたにも関わらず、張休が身を誤るのではないかと心配し、一方では自分と全く血縁関係にないような低い身分の蔡文至(蔡款だと思われる)の有能さを称賛し人々に語り聞かせており、自分の娘が太子に嫁いだときは浮かれることなく逆に弔問を受けるがごとくの態度をとり、意気に感ずれば万難を排しても事に赴き、ひたすら立派な人物を探すことに心を砕き、物事の成否得失は全て彼の言うとおりになったとしている。
このように儒教を重んじる張承の生き様は多分に父親である張昭の影響もあっただろう。そして、当時の人々には張承は君子の見本のような人物であったのだろう。
因みに彼の弟の張休ではあるが、張承が身を案じたとおり、二宮の変に巻き込まれてしまい、孫覇派の讒言により交州に流された上、そこで自殺を命じられ非業の死を遂げている。
そんな張承は当然、儒教の思想に沿って生きている人間を好んだようで、呂岱のように名声がありながらも、質素な生活をして仕事に励んでいる人間には、あなたと陸遜殿に関しては忠勤に励むことで人々の先に立たれ、勲功については人々に譲られ、お手柄はご威声の盛んさによって完全なものとなり、ご教化は正しい道とぴったり合致しており、その徳は人々が称賛するとこにあります。周易で申します、礼と徳を完璧に備えたあなた様は何と素晴らしいことでしょうという内容の手紙を送っている。
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文武両道 |
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張承には文才もあったらしく、孫権が寵愛していた凌統が死去すると、孫権は張承に命じて凌統を称える文章を作らせている。孫権の凌統に対する想いは相当なものであったことから、その銘誄を書かせているということは張承の文才をそれだけかっているということであろう。
その張承は文の部分にだけ秀でているわけではなく武の部分にも才能があった。その点が大きく父親の張昭と違う部分であろう。
張承は西曹掾を歴任した後、長沙西部都尉になり、山住民族中の不穏な勢力を討ち平らげる功績を残している。そして、そこから精鋭兵一万五千人を配下に編入する手腕も見せている。孫呉政権の有名なる武将が全て通る道を張承も見事にこなしている。
234年には孫権が合肥に進軍する際、張承は孫権の命を受け、孫韶と共に広陵から淮陰にまで軍を進めている。だが、この戦いは魏の文帝が孫権の予想に反して呉に向けて兵を送ったので結局取りやめになった。
張承はその武の才能から濡須都督、奮威将軍となり、都郷侯に封ぜられている。濡須は孫呉軍にとって魏の防衛の最前線であり、ここの督には過去に十二の傷を持つ猛将周泰、曹仁を撃退した勇将朱桓がなっており、張承がいかに武にも長けていたかが分かるかと思う。
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張承の評価 |
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そんな張承は齢六十七で244年に死去する。
彼は親友である諸葛瑾の娘を後妻として迎えており、その間に生まれた娘の一人は後の太子となる孫和に嫁いでおり、もう一人の娘は滅びそうになる呉帝国をギリギリまで支えた名将陸抗に嫁いでいる。因みに、張承はその性格から親友の娘を娶ることに反対をしたようであるが、孫権の口添えもあり結婚している。
正史三国志では張承が紹介されている文面は非常に短い。だが、驚くことに、孫呉政権において有能な人物の名前を人が挙げたとき、張承の名前は必ずといっていいほど入っている。
それは、上で述べた周昭の書物にも書かれており、孫登の遺書の中には国家のために真心を尽くし、政治の根本に通じている人物の一人として取り上げられており、陸遜の孫である陸機は呉が滅びると弁亡論を著して、その中で孫呉政権の中で教養の高かった人物として張承の名前を挙げている。
当然、孫登の遺書にしろ、陸機の弁亡論にしろ、張承一人が紹介されているわけではない。だが、必ず呉の君子として紹介されている張承という人物を我々はもっと評価してもいいかと思う。
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