全呉将紹介
は行
バチュウ
馬忠
バフ
馬普
バボウ
馬茂
バイイ
梅頤
ハイキン
裴欽
ハイゲン
裴玄
ハイセイ
裴生
ハイセン
裴潜
バンイク
万彧
バンヘイ
万秉
ハンシン
范慎
ハンセン
范旃
ハンヨウ
范耀
バンキン
番歆
バンビョウ
番苗
ハンセイ
樊正
ハンチュウ
樊伷
ハンノウ
樊能
ハンシュン
潘濬
ハンショ
潘翥
ハンショウ
潘璋
ハンヒ
潘秘
ハンフジン
潘夫人
ハンヘイ
潘平
ハンリン
潘臨
ヒヨウ
費楊
ビホウ
糜芳
ビュウイ
繆禕
フゲン
扶厳
フエイ
傅嬰
フジョウ
傅常
フウキ
馮煕
フウジュン
馮純
フウソク
馮則
フウチョウ
馮朝
フウヒ
馮斐
フッセン
費桟
ブンキン
文欽
ブンフ
文布
ブンジンビン
聞人敏
ヘンコウ
辺鴻
ホキ
歩璣
ホキョウ
歩協
ホシツ
歩隲
ホセン
歩璿
ホセン
歩闡
ホフジン
歩夫人
ホウフ
封俌
ボウセキ
紡績
ホウキ
彭綺
ホウコ
彭虎
ホウザイ
彭材
ホウシキ
彭式
ホウタン
彭旦
ボクセイ
ト静
ボクヨウイツ
濮陽逸
ボクヨウカイ
濮陽闓
ボクヨウコウ
濮陽興





戻る










馬普(ばふ)

済陰出身で学問に深く通じ古い時代に傾倒していた。

孫瑜は馬普を丁重に礼遇して、配下の二つの役所の部将や官吏の子弟たち数百人に命じて馬普のもとで学問を受けさせ、やがては学官を設置して、孫瑜自らも講義に臨席した。

リストに戻る



馬茂(ばぼう)

馬茂は淮南の鍾離県の県長であったが、王凌が馬茂の機嫌を損ねたために魏を寝返って呉に帰順した。すると孫権は馬茂を征西将軍、九江太守、外部督に任じて侯に封じて千名の兵を率いさせた。

しかし、245年、馬茂は朱貞、虞欽、朱志らと謀をめぐらせて、孫権が御苑に出て射に興じている間に兵を率いて苑内に入って孫権を暗殺し、そのあと宮中と石頭の砦に分かれて立てこもり人をやって魏に通報する計画を立てたが、事が発覚して関係者はすべて一族皆殺しとなった。

リストに戻る



梅頤(ばいい)

異民族の首領で配下を引き連れて陸遜のもとに身を寄せている。

リストに戻る



裴欽(はいきん)

裴玄の息子でいつも太子孫登のお供をし、孫登は彼の文章の美しさを高く評価していた。

孫登の遺言の中にも裴欽は博聞強記であって、その文才はきわめて有用であると書かれている。

リストに戻る



裴玄(はいげん)

字を彦黄(げんこう)といい、下邳の人で学問を修め行いも正しく、太中大夫の官にまで昇進した。

厳畯や張承とともに、管仲や季路について論じた議論はそれぞれに広く世間に伝えられた。

リストに戻る



裴生(はいせい)

弋陽を守備していた武将で配下を引き連れて陸遜に帰順した。

リストに戻る



裴潜(はいせん)

呉の校尉で232年に海路を取って遼東に使者として向かったが、魏の武将の田豫に討ち取られる。

リストに戻る



万彧(ばんいく)

孫休が死去すると左典軍であった万彧が孫皓と親密であったことから孫皓には才智と見識とがあって孫策にも劣らず、加えて学問を好み、法度を遵守していると称賛しその事を濮陽興と張布の耳に入れた。すると濮陽興と張布は孫皓を迎え入れて帝位に即けた。孫皓が帝位につくと、万彧は散騎中常侍に任じられた。

266年、常侍であった万彧は右丞相に昇進する。だが、この万彧のことに関して、左丞相であった陸凱は万彧は、ちっぽけな才能と凡庸な資質とでもって、かつては召使であったのものが、大昇進して殿上に交わる身分となっております。こうした身分は万彧にとって身に余るものであり、その器量からいっても過分なものでございます、と評されている。

272年、孫皓が華里まで御幸したとき、万彧は丁奉や留平に密かに、今回の御幸は不急のことゆえ、もし華里まで行って帰還されない場合は都を長く開けることにもなり国家の安危にかかわることゆえ、我々だけでも帰らなければならないであろうと相談した。

すると、この言葉が孫皓の耳に入ってしまい、孫皓は万彧が古くからの臣下ということで何もせずにいたが心中では執念深く復讐する機会を狙っていた。すると、ある宴会で毒酒を万彧に飲ませようとしたが給事のものが密かに毒の量を減らし万彧は死ぬことを逃れたがこの件で自殺をしてしまう。

リストに戻る



万秉(ばんへい)

黄巾党の残党で朱治に討伐されている。

リストに戻る



范慎(はんしん)

字を考敬(こうけい)といい、広陵の人。

自分を認めてくれた主君に忠義を尽くす人で知られ、優れた友人達と厚い交わりを結んでいたため、当時の人々は范慎と付き合うことは光栄だとした。

范慎は二十偏の論を表し、それを纏めて矯非(きょうひ)と名づけられた。孫登が皇太子になると、范慎は賓客に任ぜられている。

やがて侍中となり、さらには地方に出て武昌の左部督にあてられると、その配下の軍を立派に治めた。孫権が武昌に都を移すと范慎の存在をひどく気にかけ詔を出して、范慎は勲功、徳行ともに盛んであって、朕も敬い心強く思っているところである。彼を上公の位に登らせて、人々の期待にもそうべきであろう、と言い太尉(三公の一人)に任じようとした。

しかし、范慎は自分が長く武将のまま放って置かれたことに不満をつのらせていたので、突然思い立ったように三公に任じられたことに嫌気をさして年をとって体が衰えたことを理由にして引退を申し出た。彼の兵士達は彼を慕い、配下の者達は軍営を挙げて彼の引退に涙を流した。

274年、范慎は死去した。

陸機の弁亡論の中でもその威信の重さで人々に知られたと紹介されている。

リストに戻る



范旃(はんせん)

呉主伝第二にて扶南王と紹介されている。南方の異民族の王か?

リストに戻る



范耀(はんよう)

范慎の息子。

リストに戻る



番歆(ばんきん)

九真太守の儋萌の配下で功曹であった。

儋萌が妻の父である周京のために宴を設けた際、酒が酣となり音楽がならされると番歆は立ち上がり舞を始め、周京をしつこく誘った。あまりのしつこさに儋萌の怒りを買い、棒打ちにされて殺されてしまった。

リストに戻る



番苗(ばんびょう)

番歆の弟で、兄が儋萌に殺されると手勢を引き連れて役所に攻撃をかけ、毒矢を儋萌に射当て殺害した。

後に交趾太守の士燮が討伐兵を送ってきたが打ち負けなかった。

リストに戻る



樊正(はんせい)

上虞出身で父親に代わって死罪になっている。

リストに戻る



樊伷(はんちゅう)

武陵の部従事で、異民族に誘いをかけて武陵郡を挙げて劉備に帰属しようとした。

この情報を知り、孫権は潘濬に相談すると、潘濬は樊伷は器のある人物ではなく、5千の兵もあれば討ち取れると言い、実際に5千の兵を率いて樊伷を斬り謀反を平定した。

リストに戻る



樊能(はんのう)

劉繇配下の武将で于麋と共に東方の横江津に駐屯し袁術の勢力拡大を阻止していた。

しかし、孫策が牛渚に攻めて来ると敗北して逃走し、再び牛渚を奪い取るも、再び軍を引き返した孫策に敗北した。

リストに戻る



潘濬(はんしゅん)

字を承明(しょうめい)といい、二十歳前後の時、荊州の学会の重鎮である宗仲子に古文径学を学び、三十歳前に荊州の牧である劉表に召されて江夏郡の従事に任じられた。

潘濬には果断なところがあった。沙羡の県長が収賄を重ねていたので潘濬は法に照らして処刑した。これを知って一郡の人たちは彼の処分の厳しさに震撼し気持ちを引き締めた。後に湘郷の県令となり治績をあげて勇名になった。

208年、孫権、劉備連合軍が赤壁で曹操を破ると、劉備は荊州の武陵、長沙、零陵を手に入れ潘濬を中従事とした。211年、劉備が益州に入ると、潘濬は荊州に留まって事務の処理を担当した。

219年、呂蒙は関羽を樊城攻撃の虚をついて荊州を奪った。呉書の潘濬伝には孫権は関羽を殺して荊州を併合し、潘濬を輔軍中郎将に任じ、兵を授け、後に奮威将軍に遷り常遷侯に封じたと記されているだけである。

しかし、蜀書の陽儀伝の李漢輔臣賛には、潘濬は関羽と不仲で孫権が関羽を襲うと呉に入ったと記されており、関羽への反感からの降伏という印象を持つ。

229年、孫権が帝位に即くと潘濬は少府に任じられ、劉陽侯に爵位が進み、やがて太常に昇進した。231年、潘濬は諸軍の兵五万を統率して呉渓蛮の反乱を鎮定、斬獲の数は数万にも及んだ。以来、この地域は平穏になった。

239年潘濬は死去する。潘濬の活躍、正義感と孫権からの信頼は絶大なものであった。彼はまさしく呉の精神的支柱でもあった。

リストに戻る



潘翥(はんしょ)

字を文龍(ぶんりょう)といい、潘濬の息子で騎都尉の官を授かり後に父親が死去するとその爵位を継いだ。しかし若くして死去した。

リストに戻る



潘璋(はんしょう)

字を文珪(ぶんけい)といい、東郡発干の人。孫権が陽羨県の県長だった時、その部下となった。若い頃は気随気ままで酒を好み、いつもつけで酒を買い、掛取りがくると将来金持ちになったら払うと言っていた。そんな潘璋を見所があると思った孫権は彼に兵士を募集させ百余人が集まるとその隊長とした。のちに潘璋が呉の大市場の取締官になると荒くれものたちによる盗難事件が無くなった。

このことで名を知られ、豫章郡の西安の県長となった。西安県は荊州と境を接していたので、しばしば劉表軍に侵入されていたが、潘璋がここを治めるようになってからは被害がなくなった。その実績を買われて住民たちの叛乱が頻発する建昌の統治を任された。ここでも潘璋は腕を揮い一ヶ月ほどの間にすべて平定した。

215年、孫権は十万の兵を率いて合肥を囲んだ。張遼、李典、楽進は協力して孫権にあたり、一歩も引かなかった。埒があかないとみた孫権は撤退にかかり、そこを張遼に急襲された。宋謙や徐盛の兵士が我先に逃げ出すと後方にいた潘璋は急いで駆けつけ馬を横様に乗り入れ、逃げる兵士二人を斬り捨てる。これを見た兵士は取って返して反撃に出た。孫権は高い丘の上に上って難を避けた。孫権は戦後、この時の潘璋の働きをとりわけ高く評価し偏将軍に任じた。

潘璋といえば、関羽を討ち取った武将で有名であろう。関羽は根拠地の江陵を呂蒙に奪われたため、襄陽の包囲を解いて南下し麦城に達した。ここから漳水を下って長江に出て蜀に戻ろうとしたがその退路を断ったのが潘璋と朱然である。潘璋は退路を断つために臨沮まで進み、夾石に駐屯した。やがて彼の部下馬忠が関羽とその子関平、都督の趙累を捕らえた。孫権は喜んですぐさま潘璋を固陵太守に任じ、振威将軍とした。

222年、劉備は関羽の仇を討つために、夷陵まで兵を進めてきた。潘璋は陸遜と協力してこれに当たり、多くの敵兵を殺傷し、潘璋の部下は劉備の武将馮習らを斬った。この功績により平北将軍、襄陽太守に任じられた。この年、曹丕は曹真、夏侯尚に命じて南郡を攻撃させた。呉では諸葛瑾と楊粲が救援に駆けつけたが魏軍は浮き橋を作り中洲へ次々に兵を渡していた。

諸葛瑾が対応に苦しんでいるのを見た潘璋は、部下を連れて魏軍の上流五十里の地点に行くと、葦を束ねて大きな筏を作り、それに火を放って浮き橋を焼こうとした。筏が流れるくらいに長江の水量が増すのを見計らっている時、曹真らは潘璋の意図を察知して退却した。

潘璋は贅沢を好み、晩年にはそれがさらに募った。その上、役人や兵士の中に豊かな者がいれば殺害して財布を奪うなど、しばしば不法を犯したが、孫権はそれまでの功績を惜しんで、あえて罪に問わなかった。兎に角、潘璋は強かった。率いる兵卒は数千に過ぎないのに、優に一万人分の働きをした。234年、潘璋は死去した。

リストに戻る



潘秘(はんひ)

潘濬の息子で孫権からその姉の陳氏の娘を妻に与えられ、湘郷県の令に任ぜられた。

リストに戻る



潘夫人(はんふじん)

潘夫人は会稽郡句章の人で、その父は役人だったが法に触れて処刑された。潘氏は織室、すなわち罪人の娘がそこに入れられて機織をする部屋に姉と共に送り込まれた。孫権は潘氏を見て、並みの女性ではないと思い後宮に入れた。やがて孫亮を生み、孫亮が太子に立てられると潘夫人は孫権に請うて姉を織室から解放して嫁がせてもらった。その翌年、潘夫人は皇后に立てられた。

潘氏は性格がとげとげしく、孫権が親愛する女性を妬み、袁夫人を初め讒言して多くの女性を殺させた。252年、孫権が危篤に陥ると、中書令孫弘に命じて漢の高祖の妻呂后が高祖の死後、政治を専らにした故事を調べさせた。つまり、自分が幼い孫亮に代わって実験を握ろうと考えたのである。

しかし、潘夫人に恨みを持つものも多く、看病疲れから病気になり、ぐっすり寝込んでいるのを窺って、宮女たちは潘氏を絞殺し、悪い病気にかかって死んだことにした。後に事件の真相がもれて6、7人が共犯として処刑された。間もなく孫権も死去し、蒋陵に合葬された。

リストに戻る



潘平(はんぺい)

潘璋の息子で品行が良くないということで、会稽郡に強制移住させられた。

リストに戻る



潘臨(はんりん)

会稽郡の山越の不服住民たちの頭領で、いたる所で暴虐を働いて捕まらずにいたが、陸遜に討たれた。

リストに戻る



費楊(ひよう)

廖式が叛乱を起したとき従った武将で、呂岱に斬られている。

リストに戻る



糜芳(びほう)

糜芳は兄糜竺とともに徐州時代から劉備に仕えていた。

214年、劉備は益州に入り、糜芳は南郡太守として関羽と共に事に当たった。しかし互いにそりが合わず、219年、関羽が樊城を攻撃している隙を衝いて呂蒙が江陵を襲うと一戦も交えずに降伏した。それを知った兄糜竺は恥じ且つ憤って発病、一年あまりで死去した。

呉書呂蒙伝に引く韋昭の呉書には、かつて南郡城内に失火があって武器を焼いた。それを関羽に難詰されて、糜芳は不安を抱いていた。この噂を知って孫権は呉に付くように誘いをかけ、糜芳もその気になる。呂蒙が南郡に攻め寄るや糜芳は牛肉と酒を用意して投降した、と記されている。

劉備が東征の軍を進めると、当初、呉の旗色が悪かった。そこで糜芳は同じく呉に降伏した士仁と相談して、関羽を捕らえた呉将馬忠の首を斬り、蜀軍の陣営に投じた。しかし劉備は許さず二人は殺されたと三国志演義には書かれている。しかしこれは完全に創作である。

糜芳はその後も生きており、223年には呉将賀斉に率いられて蘄春城を攻撃した記録が呉書の呉主伝にあり、また虞翻からその背信行為を辱められた記述が虞翻伝にある。

リストに戻る



繆禕(びゅうい)

選曹尚書で自分の意見を頑強に主張して曲げなかったことから、つまらぬ連中の怨みを買い、衡陽太守に左遷されることになった。その後、昔の職務上のことで問責を受けると、上表文をたてまつって陳謝をした。

陳謝のついでに薛瑩のもとを訪れたが、そのとき繆禕は自らの罪を恐れずに多くの賓客を連れて薛瑩を訪れたと讒言され、獄に降され桂陽に強制移住させられた。

リストに戻る



扶厳(ふげん)

虞汜に討伐された人物。

リストに戻る



傅嬰(ふえい)

孫翊の旗本で、孫翊が嬀覧と戴員に殺害されると徐氏の相談を受け、孫高らと暗殺を計画する。

嬀覧が徐氏に言い寄ってきた際に、帳の後ろに隠れて、徐氏の合図と共に飛び出し見事に嬀覧を斬り落とした。この功績により傅嬰は牙門将に抜擢された。

リストに戻る



傅常(ふじょう)

使持節、守太常で陸遜が丞相になった際、孫権に命令され陸遜に印綬を授けた。

リストに戻る



馮煕(ふうき)

字を子柔(しじゅう)といい、穎川郡の人。彼の祖先の馮異は前漢末、王モウに従って漢に背いたが、後に光武帝の佐命の功臣となった。自分の戦功を誇らず、諸将が自分の武功を論じるときは、いつもその場を離れて大樹の下に座っていたので当時の人々は彼を大樹将軍と呼んで、その謙虚さを讃えたという。以後、子孫は代々穎川郡に住んできた。

馮煕は孫権が車騎将軍だったころ、東曹掾として官吏の登用の任に当たった。223年4月、永安宮において劉備が亡くなると、孫権は立信都尉に昇進していた馮煕を公式の弔問の使者として派遣し、帰国後は中大夫とした。

224年だと思われるが、馮煕は使者として魏に赴いた。

曹丕は、呉王がもしも永く友好関係を保ちたいと思うならば、精兵を江関に向かわせ巴蜀に軍旗を押し立てるべきである。それなのに、蜀に再び修好の使者を送ったと聞いた。必ずや企むことがあるのだろう、と問うた。

馮煕は、臣が聞き及んでおりますのは、西方への使者は答礼のためのものに過ぎず、かつ蜀の弱点を窺っただけで、謀議などありませんでした、と答えた。

曹丕はまた、聞けば呉国では連年災早があり、有能な人材も少なくなったそうだ。大夫の明察ではこれをどう見るか、と訊いた。

馮煕は、呉王は生まれつき聡明で、人才の任用に長けておられ、政治や軍役についていつも彼らに諮問され、賓客や他国の者をよく養い、賢人や士を親愛されております。また忠と義を果たそうとしております。帯甲百万、穀帛は山の如く積まれ、稲田と沃野が広がり、人が飢えに苦しむ年はありません。これこそ所謂、金城湯池、富強の国と申せます。臣が見るところでは両国の軽重はどちらとも決められません、とはっきり言った。

曹丕はこの返答を喜ばなかった。重用する陳羣が馮煕と同じ穎川郡の人だったので、彼に命じて魏に付くように誘いをかけ、厚い恩賞を約束して口説き落とそうとした。

しかし馮煕に節を曲げる気は全くない。そこで曹丕は彼を摩陂に移して呉に帰さなかった。後に再び召還したが、魏に付けと迫られてこれを拒否すれば、自分の命が危うくなるのはもとより、君命を辱めることになると、都に着く前に馮煕は刃に伏した。

これに気づいた御者がすぐに手当てしたため、彼は死ねなかった。この事が孫権に伝わると、彼は涙を流して、匈奴に捕らえられてもついに節を屈しなかった蘇武と何ら異らない、と言った。馮煕はそのまま魏に抑留され、異境の空の下で亡くなった。

リストに戻る



馮純(ふうじゅん)

張布の娘と結婚していたが、孫皓に奪われた。

リストに戻る



馮則(ふうそく)

騎士で黄祖の首を挙げる功績を立てた。

リストに戻る



馮朝(ふうちょう)

衛尉で広陵に城を築いている。馮純の父親でもある。

リストに戻る



馮斐(ふうひ)

李勖配下の武将で、建安経由の道程が難渋したことから、道案内をしていたために責任を取らされ殺された。

リストに戻る



費桟(ふつせん)

丹楊郡の不服住民たちの首領で曹操から印綬を与えられ、山越たちを扇動して魏のために内応しようとした。そのため、孫権は陸遜に討伐の命を出すと、陸遜は寡勢であったにも関わらず見事に討破った。

リストに戻る



文欽(ぶんきん)

字を仲若(ちゅうじゃく)といい、曹氏と同じ譙郡の人である。219年、西曹掾の魏諷が曹操の不在の間に鄴都を襲おうとして失敗、曹丕に殺された。文欽は魏諷に同調するような言辞を吐いたため、あわや処刑されるところだったが、父、文稷が騎兵隊長として活躍した点を考慮され、鞭打ちの刑で済まされた。

太和年間に牙門将となる。文欽は粗暴で礼儀をわきまえず、どの官に就いても弾劾されたが、曹叡はそれを握りつぶした。廬江太守、鷹揚将軍に昇進すると、王凌は彼は辺境に守る器に非ず、と上奏、このため召還された。しかし曹爽は文欽と同郷だったので手厚く遇し、再び廬江に戻し冠軍将軍に昇進させ、いっそう貴寵を加えた。

文欽はますます驕り、勇壮さを誇り、軍中で虚名を得た。249年、後ろ盾だった曹爽が殺されたが、朝廷では文欽を前将軍に昇進させて、その心を落ち着かせた。251年、王凌討伐に際し、諸葛誕は鎮東将軍、假節都督揚州諸軍事となり、廬江郡の文欽もその統轄下に入った。しかし文欽は諸葛誕とは不仲で、当然ながら結託して兵を起こそうとはしなかった。

252年、東興の敗戦の罪を問われた諸葛誕に替わって、母丘倹が同じ官職に就いた。文欽は親しかった曹爽が殺された上、水増しして上申した戦功が認められず、次第に怨恨の情を深めていた。母丘倹はかねてから淮南で挙兵しようと計画していたので、文欽に近づいて親交を結んだ。そして255年の挙兵となったが、司馬師の軍に敗れて母丘倹は斬られ、彼に味方した文欽とその子、文鴦、文虎は呉に逃れた。

呉に入った文欽は、都護、假節鎮北大将軍、幽州の牧、譙侯となった。しかし、他国に身を置きながら節を屈して人に遜れず、呂拠、朱異等を初め諸将軍から憎まれた。ただ孫峻だけは彼を愛し側近くに置いた。

数奇な運命を文欽は迎える。諸葛誕が魏にて叛乱を起こすと、文欽は嫌っていた諸葛誕ではあるが救援にかけつけて寿春にに立てこもり司馬昭率いる魏軍二十六万と戦う羽目になる。

諸葛誕は淮南の二将王凌と母丘倹が殺されたことや、親しい夏侯玄が殺されたことを不安に感じ、257年に挙兵をしている。その際、末子の諸葛靚を呉に送って救援を求めた。呉は文欽、唐咨、全懌に命じて城に入らせ、諸葛誕を助けさせた。翌年、文欽は諸葛誕と意見が食い違ったために、諸葛誕に殺害された。

リストに戻る



文布(ぶんふ)

秭帰の豪族で鄧凱と共に異民族の兵を数千人指揮下に収め蜀と気脈を通じていた。そのことを知ると、陸遜は謝旌を指揮して文布と鄧凱を打ち破った。

文布等は蜀に逃亡したが、後に陸遜が人を送ると、再び呉へ帰順した。

リストに戻る



聞人敏(ぶんじんびん)

陸瑁と同郷の出身で呉の都でもてはやされ、ちゃんとした教養のある人物たち以上に評価されたが、後に馬脚をあらわした。

リストに戻る



辺鴻(へんこう)

辺洪ともいう。孫翊の部下で嬀覧、戴員らと親しくしていたことを孫翊から責められていたため、反逆の意を抱いていた。

恐らくそれを利用され嬀覧と戴員に孫翊暗殺をするようにけしかけられ、孫翊が宴会をした際に後ろから斬りつけて孫翊を殺害する。

その後、山に隠れるが嬀覧等に捕まり全ての罪を擦り付けられ殺害されてしまう。

リストに戻る



歩璣(ほき)

歩隲の孫で、父の歩協が死去するとその爵位を継いでいる。

しかし、先祖代々西陵にあったにも関わらず中央に召されると、職を奪われるのではないかと考え、弟の歩闡と共に叛乱を起こす。

歩璣は洛陽に向かい投降することを伝えると、監江陵諸軍事、左将軍に任ぜられ、散騎常侍を加官され、廬陵太守の職務にあたり、江陵侯に改封された。

リストに戻る



歩協(ほきょう)

歩隲の息子で、父親が死ぬとその爵位を継ぎ、歩隲の配下の兵たちを父に代わって指揮し撫軍将軍を加官された。

264年、陸抗等と共に蜀の巴東を攻めて羅憲を包囲したが攻め切れなかった。

リストに戻る



歩隲(ほしつ)

字を子山(しざん)といい、友人の衛旌とともに長江を渡って江東に戦乱を避けた。恐らく曹操が徐州の陶謙を攻撃して大虐殺を行った193年のことだと思われる。二人は瓜を植えて生計を立て、昼は畑仕事に精を出し、夜は経書の勉強に励んだ。時に土地の豪族の辱めを受けたこともあったが、歩隲は少しも意に介さなかった。

200年、孫権が立って討虜将軍になると、歩隲は召しだされてその主記となり、209年には東曹掾として官吏の任用に当たった。210年、交州刺史として兵士千人を率いて交州に赴いた。

西隣りの蒼梧太守呉巨は元来劉表に任命された者だが、表面は孫権に服従したふりをしながら、ひそかに異心を抱いていた。歩隲は彼を丁重に招き寄せて会見し、その席上で斬り捨てた。

これによって威望は大いに高まり、長く交州で勢力を揮ってきた交趾太守士燮兄弟も歩隲の命令に従うようになった。南方の地域が孫氏政権と誼を通じるようになったのは、この時に始まる。

益州郡の豪族雍?らは、223年、蜀が任命した益州太守正昴を殺し、士燮に連絡して呉につきたいと求めてきた。朝廷に伝えた上で、歩隲はその申し出を承認した。この功により歩隲は平戎将軍に任じられ広信侯に封じられた。

220年、呂岱が歩隲に変わって交州刺史となった。歩隲は彼と行動を共にしたいと願う、交州の者一万人を率いて長沙に出た。翌年、劉備が征呉の兵を起こし、武陵蛮もこれに呼応、劉備の敗北後もなお叛乱を繰り返した。

歩隲は零陵、桂陽諸郡を転戦してこれを平定、右将軍、左護軍に遷り、臨湘侯に改封された。

229年、孫権が帝位に即くと驃騎将軍に昇進し、西陵の都督となった。

孫権の太子孫登にも信頼され、その求めに応じて歩隲は荊州で手腕を顕している陸遜、諸葛瑾、朱然ら十一人の名を挙げ、彼等を信任するように書き送った。

246年、歩隲は陸遜の後を継いで丞相となったが翌年死去した。西陵に在ること十八年、敵側もその威信に敬服しており、性格は寛弘で人々の心を得、喜怒を顔色に出さなかったが、家の外も内もよく治まった。しかし、自分の服装や住居はみずぼらしいのに、妻妾の服装が華美だったため、これを誹られた。

リストに戻る



歩璿(ほせん)

歩隲の孫。歩闡等と晋に投降することを決意すると、兄の歩璣と共に洛陽に行き給事中、宣威将軍に任ぜられ、都郷侯に封じられた。

リストに戻る



歩闡(ほせん)

歩隲の息子で兄の歩協が亡くなると軍の統率の任務を継いで西陵の督となり、昭武将軍を加えられ、西亭侯に封じられた。

272年、歩闡は中央に召されて暁帳督に任じられたが、彼は代々西陵に在り、中央に呼び出されて兵を奪われることを恐れた。また孫皓が上にいては、讒言などによってどんな目に遭うかも知れないと考え、晋への投降を決意した。そこで甥の歩璣とその弟の歩璿を洛陽に送って降伏の証とした。

晋は車騎将軍羊祜、荊州刺史楊肇を西陵城に立て篭もる歩闡の救援に差し向けた。孫皓は陸抗を急行させた。西陵が失陥すれば異民族の叛乱を抑えられなくなる、と陸抗は西陵城を堅固な陣で囲み、その陣に拠って晋軍を防いだ。長引く対陣で万策尽きた羊祜が軍を返そうとするのを追って、陸抗は大勝した。晋軍が逃亡すると、陸抗は西陵を攻撃して歩闡を斬った。歩氏一族は全滅し、僅かに歩?が先祖の祭祀を継ぐことが出来た。

リストに戻る



歩夫人(ほふじん)

孫権の歩夫人は臨淮郡淮陰の人で、丞相の歩隲と同族である。漢末、彼女は母親に連れられて廬江、江南を転々としていたが、美貌によって孫権の愛を得た。孫権の寵愛ぶりは後宮第一だった言われる。

歩夫人は二人の娘を生んだ。長女は魯班、字を大虎といい、次女は魯育という。

歩夫人は嫉妬心がなく、孫権に後宮の他の女性たちを推薦したので孫権から長く愛待された。孫権は彼女を皇后にしたいと考えたが、群臣は徐夫人を推した為、そのまま十数年が経った。彼女の死後、臣下は孫権の意を汲んで、正式に皇后の名号を追贈した。

リストに戻る



封傅(ほうふ)

孫和が太子に立てられた際、お相手役を務めることになった。

リストに戻る



紡績(ぼうせき)

王表という神に仕えていた巫女。

リストに戻る



彭綺(ほうき)

鄱陽の賊で、225年、勝手に将軍を名乗り周りの諸県を攻め落とすと一味に加わる者が数万人に上った。しかし、227年に周魴、胡琮等に生け捕りにされ武昌に送られた。

リストに戻る



彭虎(ほうこ)

鄱陽の不服住民の頭領で数万人の仲間を集めていた。しかし董襲軍に破れた。

リストに戻る



彭材(ほうざい)

豫章東部の平民で213年に李玉、王海らと立ち上がって反乱を起こし、一万人以上の人がその配下に集まったが、賀斉に討伐された。

リストに戻る



彭式(ほうしき)

銭唐一帯に勢力を張る大頭目で多数の人数を集めて略奪を働いていたが周魴に討ち取られた。

リストに戻る



彭旦(ほうたん)

鄱陽の賊徒で236年に反乱を起こしたが翌年、陸遜の討伐された。

リストに戻る



ト静(ぼくせい)

字を玄風といい、呉郡の人である。会稽郡の剡県の令の官で終わっている。

しかし、彼は顧雍伝や吾粲伝などでは陸遜と名声を並べている人物のような紹介をされており、死去、遺族が与えられた待遇も悪くなかったことから、その才能を期待されながらも早世したのではないかと考える。

リストに戻る



濮陽逸(ぼくよういつ)

陳留出身で後ろ盾もなく貧しかったが志しだけはしっかりと守り陸瑁の援助を受けていた。

濮陽興の父親で、漢の末年に戦乱を避けて江東に移住し、官位は長沙太守にまで昇っている。

リストに戻る



濮陽闓(ぼくようかい)

張紘に韓詩、礼記、左氏春秋を教えている。陳留出身の人間らしいが、濮陽逸と縁戚関係なのだろうか?

リストに戻る



濮陽興(ぼくようこう)

字を子元(しげん)といい、若いときから士人の間で名声が高く、孫権の時代に上虞県の令となり、五官中郎将に任じられて蜀に使者として赴いたこともある。帰国後、会稽太守になっている。

この事が濮陽興にとって幸運であり不幸になる。

幸運であったのは、孫権の六男孫休が252年に瑯邪王となって会稽にいたことであり、濮陽興は彼と親交を結べたことだ。孫休が即位すると僕陽興は呼び寄せられ太常、衛将軍を拝命し、内廷、軍事の双方に関与するようになり、その上、外黄侯に封じられた。

孫権の死から孫休在位の7年間の間に、権臣諸葛恪、孫峻、孫?らは、あるいは謀殺され、あるいは急死していた。濮陽興は彼等と同じく国柄を自由に操れる立場となった。それだけに身を慎んで危難を防ぐ必要があったのだが、彼はこの点の配慮を欠いていた。

260年、施工しても用地開拓の可能性が低い干拓用の築堤工事を、彼は百官の反対を押し切ってやり始めた。兵士や人民が工事に従事したが、その経費は莫大だった。過酷な労役に士卒を死亡し、自ら命を断つものも出て、人々の恨みは彼に集中した。

しかし、孫休は、濮陽興とは旧知の間柄だということで、262年に彼を丞相に任じて軍事、行政一切を委ね、左将軍張布に宮中の諸事を取り仕切らせた。二人は共謀して好き勝手な政治をやり、人々を失望させた。

濮陽興の不運は孫休の早すぎる死であった。

264年、孫休の病をにわかに重くなり、口がきけなくなった。そこで手書きで濮陽興を呼び寄せ、彼の手を取って我が子の孫湾*を指して後事を託し、孫湾に拝礼させた。

しかし、左典軍の万彧は孫和の息子の孫皓と親しい間柄であり、国内情勢を見た万彧は、孫皓の才識明断は孫策にも劣らず、これに加えて学を好み、法律をよく遵守していると語って、僕陽興や張布に擁立を勧めた。

二人は孫休の嫡子孫湾を廃して孫皓を迎え入れることにする。

孫皓は即位後、濮陽興に侍中を加官し、青州牧を兼ねさせた。ところが万彧が、濮陽興と張布は陛下を即位させたことを悔いております、と讒言したため、孫皓は彼等が入朝したときに捕縛して広州に配流した。その途上、使者を送って二人を殺害し、併せて三族を皆殺しにしてしまった。

リストに戻る



inserted by FC2 system