全呉将紹介
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毛甘(もうかん)

208年に一万戸を配下に収めて鳥聊山に立て篭もったが賀斉に討ち取られたと思われる。

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孟仁(もうじん)

孟仁は元々は孟宗といい、字は共武(きょうぶ)で江夏郡の人。呉主孫皓の字なの元宗を避けて、後に名を仁に改めた。若いとき南陽の李粛に従って学問を修めた。

母は孟宗のために、厚い敷布団と大きな掛布団を作ってやった。人が理由を聞くと母親は、息子には他人様を惹きつける様な徳はありません。学問をやる人の多くは貧しい方です。大きな掛布団があれば、その方たちと仲良く過ごせると思いまして、と答えた。孟宗は昼夜驕らずに勉強したので、師の李粛は非凡だと思い、そなたは宰相足るべき器を具えている、と評した。

初め、孟宗は志を得ないまま、驃騎将軍の朱拠の軍営で小役人をやっていた。ある夜、雨漏りがあった。目を覚ました孟宗は、こんな古屋に母を住まわせる不幸を詫びると、母は、お勤め第一に考えればいいのです。何で泣くことがありましょうか、と慰めた。

朱拠もやがて孟宗の才能を認め、監池司馬とした。孟宗は網を編んで魚を捕り、鮨を作って母親に贈った。母親は受け取ろうとせず、お前は魚の管理をする役目なのに、鮨を届けてきました。他人の嫌疑を受ける行いですよ、と注意した。

後に呉県の令に昇進した。当時の規定では、官吏は赴任先に家族を連れて行くことを禁じられていたので、孟宗は旬の物が手に入るとまず母に送り、自分が先に食べようとはしなかった。

また、親が亡くなった場合、勝手に任地を離れることも禁じられており、これを犯す者は死罪と定められていた。しかし、孟宗は母の死を聞くと、官職を投げ打って葬儀に駆けつけた。その後で自首し、いかなる刑でも甘受致します、と言った。陸遜は彼が親思いだったことを上陳して、命乞いした。そこで孫権は死一等を減じたが、これは特別であって、以後はこれを例として刑を緩めはしない、と釘を刺した。この後、官吏が服喪のために職務を放棄する風は跡を断った。

孟宗の母は筍が好きだったが、初冬のこととてまだ生えてこなかった。孟宗は母を思いやって、竹林に入って嘆き悲しんだ。すると筍が頭を出した。孟宗は掘り取って母親に早速食べさせた。これを知った人々は孟宗の厚い孝心に天が感応したのだと語り合った。

この話に因んで、筍を採るために広く栽培されている竹を孟宗竹と名づけた。

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