陸氏

陸遜、字は伯言である。

実はこの陸遜という名前であるが、どうも、夷陵の戦いの後に名前を変えたのではないかとされている。彼のもともとの名前は実は陸議といい、陸氏は呉郡四姓と呼ばれる江東の地の有力豪族であった。

陸遜の父親である陸駿は九江郡の都尉であったが、若くして死去したようで、陸遜は父親の死後は従祖父にあたる慮江太守の陸康のもとに身を寄せた。この陸康であるが、孫策伝でも登場しており、当時は袁術と対立していた勢力であった。

その陸康は当時、袁術の配下にいた孫策に攻められ、敗北し降伏する。その敗北が原因で後に病死する。つまり、陸遜に取って孫家とは従祖父の仇という存在になる。因みに、陸康が孫策に攻められていたとき、陸遜は呉郡に戻っており、陸康の息子の陸績よりも年長者であったことから、陸一族の取り纏めにあたっていた。



孫呉政権への参加

陸遜が孫呉軍に属したのは、彼が齢二十一のときである。陸遜は183年生まれであるので、204年のことで、このときには既に孫策は死去しており、孫権が第一次黄祖討伐戦を起こした次の年である。陸遜のこの遅い、孫呉政権への参加は、やはり孫策が従祖父の仇だからだったのだろうか?

そうとも考えられるが、陸康の息子の陸績は陸遜より若く、孫策政権の時にすでに孫呉軍に属していたので、必ずしも孫策が従祖父の仇だからという理由だけで孫呉政権に参加しなかった訳でも無さそうである。

もしかしたら、陸遜は陸康が死んだ後、陸家を纏めることに専念しなければならず、その為に孫策政権に参加できなかったのではないだろうか?そうしている内に、孫策は死去してしまい、その跡を継いだ孫権が果たして大成できる器かどうか見定めた上で孫呉政権に参加したのではないだろうか。

陸遜はまず、令史を歴任したあと、その手腕を買われて、海昌の屯田都尉となり、同時に海昌県の統治にもあたる。当時、海昌県は連年によるひどい旱魃に見舞われており、陸遜は官倉を開いて穀物を貧しい民衆たちに分かち与える一方、農耕と養桑を奨励し、その効果のお陰で民はつつがなく過ごすことが出来た。



国内平定のエキスパート

その後、陸遜は呉郡、会稽、丹楊には山越の不服住民達が多く隠れ住んでいることが多かったことから、そうした者達の中から兵士を募りたいと上表した。

会稽の不服住民の中に潘臨という者がおり、至るところで暴虐を働いていたが、長年に渡って捕まえることが出来なかったため、陸遜は配下の志願兵でもって、奥深い険阻の地を討ち平らげ、歯向かう勢力は全て降伏させた。そして、陸遜はそれらの勢力を着実に部曲に組み入れていった。その後、鄱楊にて尤突が反乱を起こすと、陸遜は再び軍を動かしそれを討伐して、その戦功により定威校尉に任ぜられる。

陸遜は孫権から孫策の娘を妻として与えられる。そして、陸家と孫家は親戚となる。孫権は、しばしば当時の政治的な課題について陸遜の意見を求めた。陸遜は孫権に対して、現在は、英雄たちが各地に割拠しており、こうした勢力に打ち勝つには、まずは山越のような反対勢力を平定した上で、その中から精鋭の兵を選び、軍勢をしっかりと集める必要があるでしょう、と述べている。孫権はその献策を容れ、陸遜を帳下右部督に任じる。

さて、孫権が孫策の娘を陸遜に与えているのは、陸遜の才能を買っていることもあるのだろうが、間違いなく地元の豪族である陸家との関係を構築することにあろう。このとき、陸家から誰も孫呉政権にて重要なポストについてないにもかかわらず、それでも陸家と関係を構築したかったのは陸家のネームバリューは相当高かったのかもしれない。因みに、孫策の娘は三人ほど正史三国志で登場しており、朱治の息子、雇雍の息子に嫁いでいる。これも朱家、顧家との関係を作るための政治的な思惑からである。

孫権が陸遜の献策を用いたのは、陸遜の外交能力よりも内政能力を買っていたのかもしれない。陸遜が孫策の娘を何時ごろ娶ったのは定かではないが、恐らく江陵の戦いの辺りから濡須の戦いの前のことであろう。そうなると、その頃の孫呉政権において外の勢力に対していたのは周瑜、もしくは魯粛である。そして、彼等の配下として戦う武官の数も充実している。つまり、孫権の構想では、陸遜は賀斉や呂岱のような国内平定のエキスパートになる予定だったのではないだろうか?


それを裏付けるわけではないが、陸遜伝では、陸遜が孫策の娘を娶った頃、丹楊の不服住民の首領である費桟が曹操の印綬を受けて、山越達を扇動して魏への内応を促していたので、孫権は陸遜に命じて費桟の討伐に向かわせている。

陸遜は費桟と対峙すると、味方の勢力に比べて、敵の数のほうが多かったため、まずは牙旗を方々に押し立て自軍の勢力が多いように見せかけた。そして、太鼓と角笛とを各所に配置すると、夜間を待って一気に太鼓を鳴らし喊声を上げつつ攻め込んだ。すると、大軍に攻められたと勘違いした費桟軍は混乱し、瞬く間に蹴散らされた。

その後、陸遜は東方の丹楊、新都、会稽で部隊編成を行うと、強健なものは兵士として、体力の劣るものは民戸に編入して、数千人もの精鋭を手に入れた。陸遜が赴くところは全て無事に平定され、平和がもたらされたという。陸遜はその後、軍を還して蕪湖に駐屯した。

このように、陸遜が内政に見事な手腕を発揮していると、それを面白くないと思う人物も出てきた。その一人が当時の会稽太守の淳于式で、陸遜は不法に民衆を徴用して自軍に編入しており、それにより民衆が苦しんでいると上表をしている。

それに対し、陸遜は孫権の前で決して淳于式を非難することなく、逆に淳于式は立派な官吏であると称賛している。孫権が、告げ口をしている淳于式を何故称賛するのか尋ねると、陸遜は淳于式には民衆を思う心があるゆえに告げ口をしているのであって、ここで言い合いをしても国にとって得は無く、話を断ち切るべきなのです、と答えている。陸遜がいかに人格者であるかが分かるかと思う。



転機

さて、内政のエキスパートの道を歩んでいた陸遜であるが、呂蒙が病気を理由に建業に戻った際に面会をしている。そして、この呂蒙との面会が大きく陸遜の人生を変える。

陸遜は建業に向かう途中の呂蒙を尋ねると、呂蒙に何故、関羽と隣り合う大事な任地にいたにも関わらず、このように遠くまで長江を下ってこられたのでしょうか?と聞いた。呂蒙は陸遜に、大事な任地であることは承知ではあるが、私の病気が重くなってしったため仕方が無いのである、と答えた。

すると陸遜は、なるほど、呂蒙様が病気だということを知れば、関羽の向かい気の強い性格を考えれば後方に憂いが無いということで更に手柄を立てようと北に軍を進めることになりますな、そうなると荊州は無防備となり、その不意をつけば、安易にそこを手中に収めることが出来そうですな、と言った。



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