呉の四姓

朱恩、字は不明である。

 

まず、朱恩を考察するに前に、彼の“朱”という苗字が気になるので、それから考察をしてみたい。

 

朱という姓は孫呉政権においては“呉の四姓”と言われるほど大きな影響力を与えた豪族の一つである。残りの三姓は陸遜の家系で知られる陸家、顧雍の家系で知られる顧家、それと張家。

 

実はこの張家が江東、江南に移住してきてその地位を確立した張昭、張鉱の家系の事を示しているのか、それとも古くから呉に基盤を持っていた張温の家系を示しているのかは定かではない。ただ、“呉の”と表現しているように、基本的には呉地方にいた土着豪族の事を示していたと思われることから、張氏の場合は張温の家系であると考えても間違いないであろう。

 

それでは、朱家であるが、実は孫呉政権においても朱家というのは二系列ある。一つは朱治、朱然の系列。(余談ではあるが、朱然は朱治の実子ではなく養子であり、本当は施家の人間である)もう一つの系列は朱桓、朱拠の系列である。呉の四姓の一つである朱家は朱治の血統を言っているのか、朱桓の血統を言っているのかは定かではないが、どちらの朱家も孫呉政権においては重要な立場にいる。

 

どちらの朱家が呉の四性にあたるかは定かではないが気になることが一つある。それは、正史三国志には孫策の娘が三人ほど登場している。その内の一人は顧雍の息子である顧撃ノ嫁いでおり、もう一人は陸遜に嫁いでいる。そして最後の一人は朱治の息子である朱紀に嫁いでいる。つまり孫策の娘は呉の四姓のうちの三つである顧家、陸家、朱家に嫁いでいる。これは偶然だろうか?

 

私は偶然ではないと断言して良いのではないかと思っている。孫呉政権にとって江東と江南での基盤を更に磐石なものにするには土着豪族と強い関係を持つことが一番手っ取り早い方法であったと思われる。そのことから呉の四姓と言われている朱家とは孫策の娘が嫁いでいる朱治の血統では無いかと私は推測する。それも、朱紀は朱治が死んでから孫策の娘を娶っているところを見ると朱家との繋がりを無くさないための政治的な思惑が背後にあるような気が尚更する。



諸葛家

さて、話は大きく逸れてしまったが朱恩はこの朱家のどちらかの系列に属していたかというと、実は正史三国志には彼の父親の名前が書かれていないためはっきりはしない。もしかしたら、全く別の朱家なのかもしれない。

 

しかし、朱恩は諸葛瑾の息子である諸葛恪の腹心的な立場におり、彼がそういう立場にあった一つの理由には、朱恩が諸葛恪の外甥であったからである。つまり、朱恩は諸葛恪の姉妹の子供であったわけである。そして恐らく諸葛瑾の地位を考えれば、どこの馬の骨か分からない朱家に自分の娘を嫁がせるわけはないと思われる。つまり、朱恩は朱桓もしくは朱治の親族であると考えても間違いでは無いと思われる。

 

では、朱恩がどっちの朱家の血統に属するかと言うと、色々と考えてみたが正直なところさっぱり分からない。だが、嫡子の情報が割りとはっきりとしている、朱桓、朱拠よりは、情報があまりはっきりしていない朱治の血統の可能性が高いのでは?とは思っている。



諸葛恪誅殺

何度も話が脱線してしまったが、朱恩が歴史の表舞台に出てくるのは諸葛恪が暗殺される時である。彼はその時、散騎常侍の地位にあった。諸葛恪は齢五十で誅殺されているので、彼の姉妹(恐らく妹だと思われるが)の息子であれば、当時は20代であったと予想される。

 

諸葛恪の後押しがあったとはいえ、20代にして散騎常侍になるのだから朱恩は才能ある人物であったと考えても大きくは外れていないであろう。

 

その諸葛恪が暗殺される理由であるが、孫権が死んだ後、呉はいきなり魏に攻め込まれるが、諸葛恪が呉軍を率いてその戦いで大きな戦果を挙げた。そして、その勢いに乗るべく諸葛恪は重臣の反対を押し切って、今度は逆に魏に攻め込むのだが大敗北を喫することになる。そこで、この大敗北を理由にして孫峻は諸葛恪を暗殺し、その地位を奪おうと決意する。

 

孫峻は諸葛格の暗殺を宮廷で起こすべく準備をした。諸葛恪が宮廷の到着する前に自分の兵士を帳の後ろに伏せさせた。そして、この孫峻の行動に怪しさを感じたのが朱恩ともう一人の散騎常侍である張約であった。彼等は宮廷に諸葛恪が到着するとすぐに諸葛格のもとに駆け寄り一枚のメモを手渡した。

 

メモには本日の宴会の準備は尋常ではございません。何か企みがあるかと危惧しております、とだけ書かれていた。しかし、諸葛恪は朱恩等の忠告があったにも関わらず、そのまま宴会に出てしまう。そして、その宴会の席上で諸葛恪は惨殺されてしまう。この諸葛恪の誅殺の内容に関しては滕胤伝に多少詳しく書いてあるのでそちらを参照して欲しい。



朱恩の行動

一方、朱恩ではあるが、彼はこの宴会には出なかったと思われる。何故なら、もう一人の散騎常侍であった張約は孫峻に宴会の席上で右腕を斬られたと書かれているが、朱恩の名前は出てきていない。

 

彼の名前が正史三国志で次に登場するのは、諸葛恪の息子である諸葛竦と諸葛建が、父親の殺害の報せを聞くと母親を連れて魏に逃亡しようと試みるのだが、既に孫峻は手を打っていたようで彼等は捕縛され斬られてしまう。そして、諸葛兄弟が殺された後に、諸葛恪の外甥であった朱恩らも皆一族皆殺しにあったと書かれている。

 

恐らくではあるが、張約と朱恩は諸葛恪殺害の最悪のシナリオを想定していたのだと思われる。そして、それに備えて一人は諸葛恪に付き従って宴会に参加して、もう一人は万が一に備えて諸葛恪の息子を連れ出し逃亡する準備をするべく宴会には出なかった。

 

朱恩は諸葛恪とは血縁関係にあるので後者である諸葛格の家族を脱出させる役割を与えられたのだろう。だが、朱恩等が孫峻の企みに気づいたのは不幸にも宴会が行われる当日で、孫峻は既に諸葛家の動きを見張るべく前々に手を打っていたと思われる。そして朱恩は残念ながら追っ手から逃げ切れず捕まってしまい若くしてその人生を終えてしまった。



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