西暦 |
記事 |
生 |
没 |
一五五 |
秋、南匈奴が反乱、張奐が鎮定
司州、冀州に飢饉 |
孫堅 |
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一五六 |
秋、段熲が泰山の賊公孫擧を殺す |
張昭 |
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一六一 |
正月、疫病が流行
八月、財政困難打開のため、売官が始まる |
呂岱 |
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一六四 |
荊州刺史度尚が豫章・桂陽・ト陽の叛乱を鎮定 |
虞翻 |
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一七二 |
六月、鮮卑、南匈奴、鳥丸が寒内に侵入、張奐が鎮定 |
太史慈 |
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一七二 |
五月、熹平と改元。 |
魯粛 |
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一七四 |
孫堅は州郡の兵とともに許生を討ち、八月、これを斬る |
諸葛瑾 |
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一七五 |
四月、鮮卑が幽州に進攻 |
孫策
周瑜 |
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一七七 |
四月、大日照りがあり、蝗が異常発生 |
孫瑜 |
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一七八 |
正月、合浦・交趾の鳥滸蛮の反乱は九真・日南まで広がる
三月、光和と改元 |
呂蒙
陳武
朱桓 |
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一八二 |
二月、疫病が大流行
七月、板循蛮の蜂起が鎮定される。 |
孫権
朱然 |
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一八三 |
夏、大日照りとなる
太平道は中国八州に広まり、十数年間の間に、数十万人を擁する集団となり、一八四年甲子の歳を期して蜂起を豫定する。 |
陸遜
留贊
胡綜 |
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一八四 |
二月、張角ら太平道の一味が黄巾をつけて各地で一斉に蜂起
七月、五斗米道の張脩が挙兵 |
孫翊 |
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一八七 |
孫堅が長沙の區星の叛乱を平定 |
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一八八 |
二月、黄巾の残党の郭太らが白波谷で蜂起
八月、西園八校尉を設置、曹操、袁紹も校尉に命じられた |
孫韶
陸績 |
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一八九 |
何進が宦官に殺される
董卓は少帝を廃して劉協を帝にする。
曹操・袁紹・袁術らは董卓に反対して、各々の根拠地に戻る |
凌統 |
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一九〇 |
孫堅は荊州刺史王叡・南陽太守張咨を殺害 |
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一九一 |
孫堅は董卓・呂布を破り、洛陽に入る。
この年、孫堅は黄祖を追う間に戦死する。 |
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孫堅 |
一九三 |
曹操は徐州に侵攻して大虐殺を行う
孫策は袁術から父の軍を返してもらう |
駱統
張温 |
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一九四 |
孫策は揚州刺史劉繇を破り江東に地盤を築く |
朱據 |
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一九五 |
正月、曹操は定陶で呂布を破り、後に兗州の牧に命じられる |
孫奐 |
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一九六 |
孫策は会稽太守王朗を討ち、会稽を手中にして会稽太守と称する。 |
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一九七 |
孫策は袁術に絶縁状を送る |
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一九八 |
孫策は朝廷から討逆将軍・呉候に任じられる |
陸凱
孫桓 |
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一九九 |
孫策は劉勲を打ち破り、黄祖を撃破する |
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二〇〇 |
孫策は後事を孫権に託し死去 |
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孫策 |
二〇三 |
孫権は黄祖を討伐、帰途に豫章郡を平定 |
諸葛恪 |
凌操 |
二〇四 |
八月、曹操は鄴を陥して冀州を平定
九月、曹操は冀州の牧になる |
韋昭 |
孫翊
孫河 |
二〇六 |
二度目の黄祖討伐 |
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太史慈 |
二〇七 |
三度目の黄祖討伐で黄祖を斬る |
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二〇八 |
十一月、赤壁の戦い。その後、周瑜は江陵に攻め入り、孫権は合肥に侵攻。 |
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二〇九 |
周瑜に包囲されていた曹仁は撤退。
劉備は孫権の妹を娶る。 |
孫登 |
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二一〇 |
劉備は孫権に荊州借用を申し入れる。
周瑜は益州侵攻を図ったが、その準備中に急死。
交州七郡に勢力を揮っていた交趾太守士燮が孫権に帰服。
歩隲が交州刺史になる。 |
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周瑜 |
二一一 |
曹操は自ら西征して馬超らを大敗させ、関中を平定。 |
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張鉱 |
二一二 |
孫権は治所を秣陵に移し、建業と名を変える
十月、曹操は濡須に兵を進めて孫権を撃つ。 |
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二一三 |
曹操は濡須から兵を返す。 |
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二一四 |
四月、孫権は皖を攻破し、呂蒙を廬江太守に。
七月、曹操は再度孫権討伐戦を起す。 |
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二一五 |
八月、孫権は合肥を囲むが撤退。張遼の急襲であわやの危機に襲われる。
孫権は劉備に荊州返還を要求、湘水を境に分割領有することになる。 |
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孫瑜
陳武
黄蓋 |
二一六 |
十月、曹操は孫権征討に赴く。 |
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二一七 |
二月、曹操は濡須まで進出、孫権が臣下の礼を取る。 |
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魯粛
董襲
凌統 |
二一八 |
七月、曹操は劉備を撃とうと進発。
九月、劉備は夏侯淵・張郃と陽平関で対峙・ |
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孫賁 |
二一九 |
九月、呂蒙は江陵を占拠し関羽と対峙する。
十二月、関羽親子は捕らえられ首を斬られる。孫権は領荊州の牧になる。孫権は上書して臣を称する。 |
孫峻 |
呂蒙
孫皎
蒋欽
陸績 |
二二〇 |
正月、曹操死去 |
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二二一 |
七月、劉備は征呉の軍を起す。
八月、孫権は魏に使者を送って臣を称し于禁等を送還。魏は邢貞を派遣、孫権を大将軍・呉王とし、九錫を加える。呉は卾を武昌と改称、武昌城を築く。 |
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二二二 |
六月、劉備は呉軍に大敗
九月、魏は孫権が長子を人質として送らないのを怒り、三方面から呉を攻撃。
十月、呉は独自に黄武の元号を建てる。
十一月、呉と蜀は関係を修復 |
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二二三 |
三月、前年濡須を囲んだ曹仁は朱桓に破れる。
四月、永安宮で劉備は病死。
十月、蜀は呉に使者を派遣し、友好関係を深める。 |
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孫桓 |
二二四 |
夏、呉の張温は蜀に使者として赴く。
曹丕は再び征呉の兵を発し、九月、広陵に至ったが、徐盛の擬城の計に欺かれて撤退。 |
孫和 |
朱治 |
二二五 |
六月、呉は孫卲に変わって顧雍が丞相に。
曹丕は再び征呉の兵を発し、十月に広陵に到着したが、長江は凍結して船を入れられなかったため空しく帰還。 |
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孫卲 |
二二六 |
五月、曹丕死去。
八月、孫権は江夏郡を攻撃したが、文聘に退けられた。 |
陸抗 |
呉範
士燮
韓当 |
二二七 |
春、諸葛亮は漢中に進出、北征の準備を整える。 |
賀卲 |
賀斎 |
二二八 |
五月、呉の周魴の偽降の計に誘き寄せられた曹休は、八月、石亭で壊滅的な大敗を喫する。 |
王蕃 |
王朗
呂範
駱統 |
二二九 |
四月、孫権は群臣に勧められて帝位に即き、黄龍と改元、名実とともに県立となる。
六月、蜀は陳震を呉に送り、天下を分割保有する約定を交わす。
九月、孫権は建業に遷都、太子孫登が武昌に留まる。 |
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二三〇 |
春、孫権は衛温、諸葛直に命じて夷州、亶州を探索させたが、夷州は発見しても亶州は発見できず。 |
張温 |
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二三一 |
二月、呉の潘濬は武陵蛮を討伐。 |
孫綝 |
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二三二 |
正月、孫権の子の孫慮が死去、孫登は建業に移る。 |
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孫慮 |
二三三 |
三月、孫権は張彌、許晏、賀達らに一万の兵を与え、公孫淵に王号とともに九錫の恩典を授けた。公孫淵は彼等の首を斬って魏に送った。 |
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張彌
虞翻
許晏 |
二三四 |
五月、孫権は合肥新城を陸遜、諸葛瑾は夏口を、孫韶、張承は広陵方面をそれぞれ攻撃したが、曹叡が救援に向かうと知って、ただちに引き上げてしまった。
十一月、呉の潘濬は武陵蛮の平定を終了。 |
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潘璋
孫奐
孫泰 |
二三五 |
正月、魏は司馬懿を大尉に。 |
孫休 |
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二三六 |
春、呉は吏民から銅を供出させ、一枚が五百銭に相当する大銭を鑄た。
七月、高句麗王の位宮が孫権の使者の首を斬り、幽州に届ける。 |
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張昭 |
二三七 |
呉の朱然は江夏を囲んだが、胡質らに退けられる。 |
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二三八 |
呉は赤鳥と改元。呂壹の奸悪が発覚、孫権は彼を誅して群臣に謝す。 |
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呂壹 |
二三九 |
元旦に曹叡が死去。
呉の廖式が挙兵、数万人を一味に加え、乱は交州諸郡に波及。呂岱、唐咨が一年余りをかけて鎮圧。 |
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陸瑁
潘濬
周胤
朱桓 |
二四一 |
四月、呉は魏に攻撃をかける。全琮は芍陂を諸葛恪は六安を、朱然は樊を、諸葛瑾は柤中を撃つ。
五月、司馬懿が軍を率いて樊に進出して来たため、兵を引く。 |
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諸葛瑾
孫登
孫韶 |
二四二 |
七月、呉の陸凱らは三万の兵を率いて珠崖、儋耳を討伐。八月、呉は孫覇を魯王に。 |
孫皓 |
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二四三 |
十二月、倭の女王卑弥呼の使者が魏に来貢。 |
孫亮 |
顧雍
闞沢
薛綜
胡綜 |
二四四 |
正月、呉の陸遜が丞相に。 |
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二四五 |
二宮の変に心を痛めて孫権を切諌した陸遜は問責されて憂悶の裡に死去。
七月、魏の降将馬茂は孫権暗殺に失敗して一族皆殺しに。 |
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陸遜
呉太后 |
二四六 |
二月、呉の車騎将軍朱然が柤中に入り、勝利を得る。
九月、呉は歩隲を丞相に、朱然を左大司馬に、全琮を右大司馬に、呂岱を上大将軍に、諸葛恪を大将軍に任じた。 |
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二四七 |
姜維は魏の郭淮、夏侯覇と争う。 |
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歩隲 |
二四八 |
三月、呉の建業宮完成。
朱然は江陵に築城。
陸胤は交趾、九真の諸夷の蜂起を平定。 |
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二四九 |
突如、司馬懿親子がクーデターを起して、曹爽一族を皆殺しにする。 |
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朱然
全琮 |
二五〇 |
孫権は孫和を廃して庶人とし、孫亮を太子とし、孫覇を自殺させ、その与党も殺害 |
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孫覇
呉安
朱據 |
二五一 |
呉は太元と改元。
孫権は病が重くなり、諸葛恪に太子孫亮の後見を託す。 |
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二五二 |
二月、呉は大赦を行い、神鳳と改元。孫権が危篤となり、諸葛恪、孫弘、滕胤、呂據らに後事を託し、四月に死去。
太子孫亮が即位、建興と改元。
十月、諸葛恪は東興に東西二城を築く。
十二月、丁奉は東興で魏軍を破る。 |
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孫権 |
二五三 |
二月に東興から戻った諸葛恪は五月、合肥新城を包囲したが、疫病のため、七月に帰還。
十月、諸葛恪は孫峻に殺害される。孫峻は丞相・大将軍・督中外諸軍事に。 |
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諸葛恪
孫和 |
二五四 |
正月、呉は五鳳と改元。
秋、孫英は孫峻殺害に失敗して自殺。 |
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孫英 |
二五五 |
二月、孫峻が寿春を攻撃、諸葛誕は留賛を斬り撃退。
七月、呉の孫儀、張怡らが孫峻の誅殺を図るが、露見して殺される。 |
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孫儀
留賛 |
二五六 |
八月、呉は文欽、呂據らを淮水流域に侵攻させる。
九月、孫峻が休止、孫綝が実権を握ると撤兵を命じる。滕胤とともに孫綝を討とうした呂據は失敗して自殺。滕胤は殺害される。
十月、呉は太平と改元
十一月、孫綝は大将軍に。孫綝暗殺に失敗した孫憲自殺。 |
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孫峻
呂據
滕胤
呂岱
孫憲 |
二五七 |
四月、呉主孫亮は自ら政治にあたり、孫綝との関係が悪化。
五月、諸葛誕が挙兵、呉に救援を依頼。
七月、孫綝は誕の救援に失敗、九月に撤退し、朱異の責任を問うて誅殺。 |
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朱異 |
二五八 |
九月、孫綝は孫亮を廃して会稽王とし、孫休を迎えて帝位に即ける。
十月、呉は永安と改元。孫綝は丞相となった。
十二月、孫休は丁奉、張布と計って宮中で孫綝を斬る。 |
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全尚
孫綝 |
二五九 |
六月、蜀の皇子劉諶は北地王に。 |
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孫壹 |
二六〇 |
孫亮が再び天子になるという噂が流れ、彼は侯官侯に貶され、任地に赴く途中で自殺。 |
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孫亮 |
二六一 |
蜀は黄皓が宮廷内の実権を握る |
陸機 |
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二六二 |
八月、呉は朱氏が皇后になる |
陸雲 |
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二六三 |
五月、交趾の呂興らが叛乱を起こし、九真、日南も呼応。
十月、蜀の連絡を受けた呉は、丁奉を寿春に向かわせ、南郡の朱績には魏への進攻策を検討させ、孫異らには漢水流域に軍を進めさせた。しかし、蜀の降伏を聞いて彼等は撤退した。 |
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二六四 |
二月、呉の陸抗、留平らは蜀の巴東監軍羅憲を包囲
七月、魏の胡烈の援軍が来ることを知って退却。
七月、呉主孫休死去。濮陽興は孫皓を招いて即位させ、元興と改元。
八月、呉は主績と丁奉を左右の大司馬に。
十一月、孫皓は濮陽興、張布を誅殺。 |
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孫休
濮陽興
張布 |
二六五 |
十二月、司馬炎が帝位に就く。魏は滅亡する。 |
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二六六 |
八月、五は宝鼎と改元、陸凱を左丞相に、萬彧を右丞相に。
十月、永安の賊の施但は孫皓の弟の孫謙を脅して担ぎ出し、建業まで迫ったが諸葛靚らに敗れ、孫謙は自殺させられた。
十二月、孫皓は都を建業に戻す。 |
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孫謙
王蕃 |
二六七 |
六月、孫皓は昭明宮を造営。 |
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二六八 |
呉の丁奉、諸葛靚は合肥を攻撃 |
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二六九 |
正月、呉は孫瑾を皇太子に立てる。
十月、呉は建衡と改元。左丞相陸凱死去。 |
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陸凱 |
二七〇 |
孫皓の従兄弟孫秀が身の危険を感じて晋に投降。
会稽郡で章安侯孫奮が帝になるとうい妖言が行われ、孫皓は孫奮を殺害。 |
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朱績
孫奮 |
二七一 |
正月、孫皓は謡言を信じて西に向かい、華里まで進んだが、兵士の間に不満が拡がったため戻る。
七月、呉の虞汜、陶璜らが交趾を破り、九真、日南を取り戻す。 |
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丁奉
孟宗 |
二七二 |
正月、呉は鳳皇と改元。
九月、呉の歩闡が西陵を挙げて晋に降ろうとしたが、十二月、陸抗によって誅殺。 |
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萬彧
歩闡
留平 |
二七三 |
三月、呉は陸抗を大司馬に。
四月、孫皓は韋昭を誅殺。 |
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丁固
韋昭 |
二七四 |
魏の廃帝曹芳死去 |
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陸抗 |
二七五 |
正月、呉は天冊と改元。 |
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賀卲 |
二七六 |
七月、呉は天璽と改元。
八月、京下督の孫楷が晋に投降。 |
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二七七 |
正月、呉は天紀と改元。
夏、夏口の督孫慎は汝南を攻撃。 |
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二七九 |
八月、呉は張悌を丞相に。
十一月、晋はついに大挙して呉に進攻。 |
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二八〇 |
呉は各地で大敗。
二月、孫皓は皇帝の印綬を司馬伷に送り、降伏の礼を具える。
ここに呉は滅亡した。 |
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張悌
沈瑩
陸晏
陸景 |
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