全呉将紹介
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リクイ
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リクイン
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リクコウ
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リクコウ
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リュウシュ
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リュウクン
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リュウゲン
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リュウシュン
劉俊
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リュウリャク
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リュウリャク
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ロウキョ
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羅厲(られい)

廬陵の叛徒で234年、李桓と共に反乱をおこした。しかし、翌年、唐咨に捕らえられ斬首されてしまう。

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雷譚(らいたん)

宜都の太守で陸抗が歩闡に対して包囲網を敷いているとき何とか攻撃をかけたいと願い出て説得したが、何の戦果も挙げられなかった。

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頼恭(らいきょう)

交州支配に野心があった劉表は交州刺史の張津が死去すると零陵の頼恭を送って張津の後任にしようとした。

しかし、その時、同時に蒼梧太守として劉表から送られてきた呉巨と仲違いすると、呉巨に追い出され零陵に逃げ帰った。

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駱秀(らくしゅう)

駱統の息子であったが、一族から謗りを受けていたが、謝淵に弁護され無実であることが明らかになると、それ以後、その行動に非難すべきところもなく、ついには名の通った人物となった。

司塩校尉にまでなったが、264年、海賊達に海塩の防備を打ち破られ殺害された。

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駱俊(らくしゅん)

字を考遠(こうえん)と言い、駱統の父親。

文武の才幹があり、郡に仕えて考廉に挙げられ後に陳国の相となる。駱俊は郡内をよく治めていたが、彼が憎む袁術への食料提供を拒否して暗殺されてしまった。

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駱統(らくとう)

字を公緒(こうしょ)といい、会稽郡鳥傷の人。

父の死後、駱統の生母は華歆の側室になった。その時、駱統は八歳だったが、父の食客と一緒に郷里の会稽に帰ることになった。駱統は母に別れの挨拶をして車に乗ると、母親は見送って泣いたが、駱統は前を向いたまま振り返ろうとしない。

御者が、母上はまだ見送っておられます、と告げると、駱統は、母上の思いを募らせないために振り返らないんだよ、と答えた。会稽に帰ってからは父の正夫人だった義母によく仕えた。

当時、飢饉があり、郷里の人も流れてきた人も、窮乏生活を送っていた。その姿に心を痛めて、駱統の食が進まなくなった。彼の義姉は仁愛に富み、行い正しい女性だったが、夫と死別し、子供がいなくて実家に戻っていた。

駱統の様子を見て悲しみ、何度も理由を訊いた。駱統は、士大夫が粗末な食事さえとれないというのに、私一人がお腹一杯に食べる気になりません、と答えた。それならばそれで、どうして私に告げないで一人で苦しんでいたの?と姉は言い、手元にあった自分の粟を駱統に与え、また母にも事情を物語った。母も彼の行動を賢明だと思い、人々に分け与えることを承知した。駱統はこれによって名を顕した。

200年、孫権は討虜将軍として会稽太守を領した。彼は212年、駱統二十歳の時、試みに鳥程国の相に任じた。戸数は一万を越えたが、人々は駱統の恵み深く道理を履んだ統治を称賛した。孫権はこれを喜んで功曹とし、騎都尉の官を与え、従兄弟の孫輔の娘を嫁がせた。

駱統は孫権の施策に過ちがあれば、正すことを心がけ、もしそれについて何か見聞すれば、朝を待たずに夜中でも言上した。また賢者の批判を積極的に受け入れるとともに、努めて臣下が提案しやすい状況を作り出すべしと説いた。孫権はすぐに彼の言葉に従った。

地方に出て建忠中郎将となり、武射吏三千を率いた。これにつづいて本伝には、凌統が死去すると、その配下の兵も託された、とある。

呉も他国と同じように、人々は軍役に苦しみ、その上、伝染病の流行があって、戸口は減少した。駱統は上書して、国の基を固めているのは民衆の力なのだから、国は彼等のためになる統治を行わなければならない、と述べ、それにはどんな施策が必要かを細かく記した。孫権はその言葉に注意を払った。

陸遜の下で蜀軍を破った功で駱統は偏将軍に昇進。翌223年、濡須に曹仁が攻撃を仕掛けた際には、その別将常雕らを破り、新陽亭侯に封じられ、後に濡須の督になった。

しかし惜しいことに228年、齢35歳で病死した。

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李允(りいん)

孫皎から江夏の事務を任せられていた人物。孫皎が死去すると、その弟の孫奐に礼遇された。

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李桓(りかん)

廬陵の叛徒で234年に羅厲らと反乱を起こした。しかし翌年、吾粲に捕らえられてしまう。

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李玉(りぎょく)

豫章東部の平民で彭材らと立ち上がって反乱をおこし一万人以上集めたが賀斉に討ち敗れた。

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李衡(りこう)

字を叔平(しゅくへい)といい、もともと襄陽の兵卒の家の生まれで、漢末に呉に移って武昌の庶民となった。

羊衜に人を見る目があると聞くと李衡は羊衜を訪れて目通りした。羊衜は李衡を見ると、彼には多事多難の世にあって尚書のもとで劇務を担当する才を持っていると見抜き、同時に当時、権力を欲しいままにしていた呂壱を追い詰められる可能性のある人物であると判断する。

そこで羊衜は李衡を郎官に推挙すると、李衡は孫権に引見した際に呂壱の悪事と失策とを数千にわたって口頭で述べた。数ヵ月後、呂壱が誅殺されると李衡は大いに取り立てられた。

孫権死去後、諸葛恪が権力を握ると、諸葛恪の司馬となり諸葛恪の幕府の諸事を取り仕切る。諸葛恪が誅殺されると今度は自ら求めて丹陽の太守となった。

その当時、皇帝である孫亮の兄の孫休が丹陽郡の郡役所にいたのだが、李衡はしばしば法に照らし合わせて孫休の過失を糾問した。そうした事態を李衡の妻の習氏はしばしば諌めていた。

後に、その孫休が帝位に即くと、李衡は魏への逃亡を考えたが、妻が孫休という人物は全を好み、天下の人々の前に自分を良く見せたいと願っているので、決して私的な理由であなたを殺すようなことはせず、逆に自身の過ちを表明して罪を受けたいと衆目の前に請われるのが良いと助言する。

李衡が妻の言うとおりにすると、はたし罰を受けることもなく、さらには威遠将軍を加官された。

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李粛(りしゅく)

字を偉恭(いきょう)といい、南陽出身で孟仁に学問を教えていた人物でもある。

若いときから才能ある人物だと評判は高く、議論をよくして、人物判定は常に的を射ており、非凡な人物を見出し後進のために口をきいて後押しをしてやった。

李粛が人物評論をするときは的確に個々の特徴を題目づけにランクづけて、そのランクには筋が通っていたので人々は彼に敬服した。

孫権は李粛を抜擢して選曹尚書に任じると、李粛はその期待に応えて的確に人材を適用した。その後、みずから地方の役人となりたいと願い出ると、桂陽の太守に任ぜられ桂陽の民衆にも人気があった。中央に再び卿として召し帰されるが突然死去してしまう。彼の死には面識あるものも無いものも、彼の死を惜しみ痛んだ。

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李粛(りしゅく)

呉郡の太守で陸康を考廉に推挙している。

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李術(りじゅつ)

汝南出身で孫策より廬江太守に任じられ兵三千人を授けられ皖を守った。しかし、孫策が死去すると、李術は孫権に従わなくなり始めた。

李術は呉からの亡命者を多数受け入れると、孫権は亡命者を返還するように要求する。しかし、李術はそれを受け入れなかったため、孫権は曹操に李術からの援軍要請が出ても援軍を出さぬようにと手紙を送った上で李術を攻めた。

李術は曹操に援軍を求めたが、曹操は動かず、孫権軍に討ち取られた。

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李仁(りじん)

晋が呉を平定すると呉の最後の皇帝である孫皓の悪行の数々は既に晋に伝わっていた。呉の平定後、晋の侍中である庾峻らは孫皓の侍中であった李仁に“呉主は人の顔の皮を剥ぎ足を斬ったというが本当か?”と問うと、李仁は、“それは言った人が間違っています。君子は人の下流に立つことを憎みます。というのも天下の悪事を皆、自分のせいにされるからです。しかし、実際にそんなことがあったとしても怪しむ足りません。昔、尭・舜の時代には五刑があり、夏・殷・周の三代には七辟があったように、肉体を傷つける刑は残酷とされていません。孫皓は一国の主として生殺の権を握っておりました。罪人を法に当て嵌めて懲罰しても、これを罪悪と言えましょうか。聖士であっても尭に処罰された者は彼を恨むでしょうし、悪逆であっても傑士から賞された者は彼を慕うでありましょう。これが人情というものです。”と答えた。

庾峻らはまた、“孫皓は人が眼を逸らせたり、見返したりすることを嫌って、それをやった者の目を抉り取ったそうだが、そんなことがあったのか?”と問うた。すると李仁はこう答えた。

“これも事実ではありません。これを伝えた者が間違っています。「礼記」曲礼編には「天子に対しては襟より下を見、諸侯に対しては顎より下を見よ。上の者を正面から見やるのは傲慢であり、帯より下を見やるのは憂苦を持つことであり、目を逸らすのは邪心があるからだ」と言っております。礼をもってものを見るとき、視線の上下には特に慎重であるべきです。まして人君に対してはなおさらです。人君を見返すのは礼でいう傲慢に当たります。傲慢であれば礼を缺き、礼を缺けば臣下にあってはならぬ不遜の行動となり、不遜の行動があれば罪を犯し、罪を犯せば不測の刑罰を蒙ります。たとえ目を抉ることがあったとしても、何の非難をすることがありましょうか。”

君主の側近くに侍しながら、その悪行を諌めなかったと、庾峻らは李仁を非難しようとしたらしいが、逆にみごとに凹まされてしまった。惜しいことに李仁の経歴は伝わっておらず、三国志正史の注釈にこの逸話が出てくるだけである。

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李勖(りぼう)

269年12月、交趾を攻めるべく陸路から監軍の虞汜を始めとする軍と、建安から海路で監軍の李勖と徐存らを進軍させ両者が合浦で集結する予定であった。

しかし、李勖は建安経由の道程が難渋することから、道案内に当たった武将の馮斐を殺害し軍を帰還させた。

すると殿中列将の何定は、李勖は勝手に馮斐を殺害したうえ命令もなく軍を帰還させたと上言し、李勖と徐存の一家眷属はすべて誅殺された。

しかし、江表伝によると、この件に関してはどうも何定は自分の息子のために李勖の娘を嫁に迎えたいと言ったところ李勖にはこれを断られており、逆恨みからの讒言であると書かれている。

陸抗の上奏文にも李勖は優れた人物と書かれていることから、何定の逆恨みの可能性は高いと思われる。

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陸晏(りくあん)

陸抗の息子で父親が死去するとその跡を継いで、裨将軍・夷道監となった。

晋が呉に侵攻してきたとき、虞忠らとともに宜都城に立てこもって降服せず最後まで戦うが王濬の別同部隊の手にかかって殺害されてしまう。

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陸禕(りくい)

陸凱の息子で黄門侍朗であったが、地方に出て兵士を預かり偏将軍に任ぜられる。

父親の陸凱が死去すると陸禕は中央に戻って太子庶子となる。その際に右国史であった華覈が上表をして孫皓に陸禕を重く任用するべきだと推薦したが、陸凱はしばしば孫皓を諌めることがありそれを快く思っていなった上に何定が陸凱の讒言をしえ陥れようとしていたこともあり、孫皓は陸禕を重く任用せず、それどころか、陸抗が死去すると陸凱の家族たちを建安に強制移住させた。

さて、真実は分からないが陸凱伝、呉録には陸凱が孫皓に対してクーデター未遂事件を起こしたことが書かれており、その際に留平にその話をしにいったのが陸禕とされている。

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陸胤(りくいん)

字を敬宗(けいそう)といい、陸凱の弟である。

御史・尚書選曹朗であったとき、彼の名声を聞いた孫和は彼に厚い礼遇を加えた。二宮の変の際に孫和派と孫覇派に分かれ対立があると、楊竺らが孫権に対し孫覇を後押しし孫和を陥れようした。孫権が孫覇を太子にすると決めたがこの話が偶然にも孫和に漏れる。孫和は陸胤に引見して彼が武昌に行く時に陸遜に伝えて太子変更を行わないように諫めてくれるように頼んだ。

陸遜が上表して孫権を諌めると孫権は楊竺がこの話を陸遜に漏らしたのではないかと疑い詰問をする。しかし楊竺はそれを否定し、陸胤が武昌に行ったので彼が伝えたのではないかと疑う。孫権が陸遜に使者を送って陸遜にどのようにして知ったのか尋ねると陸遜は陸胤がそう述べたと伝えた。

孫権は陸胤を召し寄せて問いただしたところ、陸胤は孫和に罪が及ぶことを恐れて楊竺が自分に申しましたと孫権に答える。そこで孫権は二人とも捕えて獄に下すと、陸胤は拷問に耐えたが楊竺は取り調べの厳しさに耐え切れず自分が言ったのだと認め斬首される。

陸胤はそののち衡陽の督軍都尉に任ぜられた。248年、交州で反乱が起きると陸胤は交州刺史・安南校尉に任じられ南方の地に入った。彼は武力ではなく説得により帰順の勧誘に勤め、財貨を人々に分け与え反乱を見事に治める。この功により陸胤は安南将軍を加官される。その後も蒼梧や建陵で反乱が起きるが見事に討伐し、反乱軍の中から八千人を選んで兵士とし正式の軍に編入させている。

258年には交州から召し返され西陵の督となり、都亭侯に封じられ、のちに虎林の守備に当たった。

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陸紆(りくう)

字を叔盤(しゅくばん)といい陸遜の祖父。

聡明にして品行方正、自分自身の考えを持ち学問があって、城門校尉の任にあてられた。

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陸鬱生(りくうつせい)

陸績の娘で鬱林で生まれた為、鬱生という名前になったようである。

彼女は張温の弟の張白に嫁いでおり、姚信の文集では彼女のことを、年端もいかぬころから正しい道を歩き、幼いうちから決して自らを曲げることのない節操をもっており、張白に嫁ぎその張白が兄の張温の失脚により配流され死去した後も夫への節操を守ることを明らかにし、有力者たちが再婚を勧めても決して承知することがなかった。

彼女は困難な生活にあっても張白の姉妹たちを大切にし、水火も踏み越え心中には霜雪の如く厳しくも清らかな志を抱き義を守ろうとする心は金石よりも固く、信を行って神々とも通い合い、そのようにして礼の定めたとおり死者への供養をやりとげて立派な男子だちも心を寄せる模範となったと絶賛し鬱生を表彰するために義姑という号を賜って欲しいと上表している。

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陸雲(りくうん)

陸抗の息子で字は士龍(しりょう)。

陸機陸雲別伝に伝を立てられている人物で呉が晋に降伏するとその後に兄と共に二陸と称されるほどの西晋時代きっての文学者となる。

陸雲は兄の陸機と共に洛陽に入ると司空の張華に呉国討伐の戦役の最大の収穫はこの二人の俊才を手に入れたことであると言わせ、張華は二人を有力者たちに推薦した。

陸雲は呉王の朗中令となり、やがて地方官に出て思いやりのある統治を行ったため、役人も民衆も彼に心を寄せ、生きているうちから陸雲は彼の祠が建てられた。その後、兄と共に顕官を歴任し、兄に比べると詩文の清新さでは兄に及ばなかったものの、口頭で意見を述べたり人と論ずることについては兄以上の才能を持っていた。

陸雲は兄と共に親王の一人である成都王の司馬穎と親しい関係を持つと、陸雲は清河の内史となりその後、右司馬に転じて厚い信任を受ける。だが、ほどなくして司馬穎は長沙王と仲違いを起こすと兵を挙げて洛陽に攻撃をかける。陸雲は南征の武をあらわして、この軍事行動を褒めたたえる。しかし兄の陸機は敗戦が続くと司馬穎の寵愛を受けている孟玖に讒言により兄弟共に捕えられ殺害されてしまう。

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陸叡(りくえい)

陸績の二男で長水校尉となった。

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陸延(りくえん)

陸遜の長男で早世している。

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陸凱(りくがい)

陸凱は呉郡の名族陸氏の子で字は敬風(けいふう)。

丞相の陸遜とは同族で、その息子の世代に当たる。とはいっても陸遜より五歳年下に過ぎなかった。陸凱が生まれた198年は呂布が曹操に敗れて殺された年である。

陸凱は黄武年間(222-228)の初め、会稽郡の各県の長を歴任して治績を挙げ、のちに建武都尉として兵を預かった。255年、山越の族、陳毖一味を討伐するなど戦功を重ね、258年、孫休が即位すると征北将軍となり、豫州の牧の職務を兼ねた。264年、孫皓が帝となると鎮西大将軍・巴丘の都督となり、荊州の牧の職務を兼任した。

孫皓が武昌に遷都を決意したとき、陸凱はこの遷都は国力の消費となるだけであると長文を認めて孫皓を諌めようとした。ただ、この文章は孫皓に見せていない可能性がある。

266年、司馬昭の弔問で晋を訪れた丁忠は帰国すると、弋陽の守備が薄く、今、奇襲をかければ落せると孫皓に進言した。これを聞いた孫皓は内心、弋陽を攻めたいと思ったが陸凱は蜀を制覇して意気揚る敵を討つのは得策でないと言い、僥倖をたのんで勝とうと思ってはならぬと諌めた。

この年、陸凱は左丞相になる。

孫皓は他人が自分の目を見つめることを嫌った為、臣下は誰も孫皓の顔を仰ごうとしなかった。陸凱は、君臣が互いの顔を見知っていなかったら、不慮の事態が起きた場合対処しようがないと諌め、陸凱だけは孫皓を見ることは許された。

269年、陸凱は呉の先行きを心配しつつ死去した。

さて、事実は分からないが、陸凱には孫皓を廃帝しようとクーデターを起こそうとした可能性がある。しかし、これは留平という武将の存在で実行されず真実は闇の中に葬られた。

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陸喜(りくき)

字を文仲(ぶんちゅう)といい、陸瑁の二番目の息子。

書籍に通じ、好んで人物評論を行った。呉が晋に降伏すると、陸喜は晋の王朝に入って散騎常侍となった。

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陸機(りくき)

字を士衡(しこう)といい、陸抗の息子で幼少のころから非凡な才能を虞忠に見出されている。

陸機陸雲別伝に伝を立てられている人物で呉が晋に降伏するとその後に兄と共に二陸と称されるほどの西晋時代きっての文学者となる。

陸機は弟の陸雲と共に洛陽に入ると司空の張華に呉国討伐の戦役の最大の収穫はこの二人の俊才を手に入れたことであると言わせ、張華は二人を有力者たちに推薦した。

太傅の楊駿は陸機を自分の幕府に招いて祭酒に任じ、のちに太子洗馬・尚書著作郎に転じた。そして弟の陸雲と共に顕官を歴任した。

陸機は文章に天与の才能があり美しい文章を書く人物であった。

陸機は弟の陸雲と共に成都王の司馬穎と親しい関係を持つようになると、陸機は平原国の相に任じられる。その後、司馬穎が長沙王と仲違いを起こすと兵を挙げて落葉に攻め込む。その際、陸機は後将軍の任にあてられ、王粋や牽秀らの諸軍団二十万人を指揮することになった。しかし、呉の人である陸機は官界に有力なバックを持たず、その彼が急に軍団の上に立つことになったため、彼に心から心服している者が少なく、敗戦が目立つようになる。すると、彼は司馬穎の寵愛を受けていた孟玖の讒言にあい、弟と共に捕えられ処刑されてしまう。

陸機兄弟は江南を代表する逸材だったうえに、中原の地においてもその名が高かったことから、彼らが無実の罪で皆殺しにされると、天下の人々はその死を悼み悲しんだ。

陸機の文学作品は世の人々に高く評価される。そのうちの一つに弁亡論があり呉が滅亡した理由を述べている。

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陸景(りくけい)

字を士仁といい、陸抗の息子。

内親王を娶ったことから、騎都尉に任ぜられ、眦陵侯に奉ぜられた。陸抗の配下の兵をあずかるようになってから、偏将軍・中夏督の任についた。彼は清廉な行動を持し、学問を好んで著書が数十篇あった。

晋が呉に攻めてきたとき、陸景は兄の陸晏、宜都太守の虞忠とともに宜都に立てこもって降服せず、城が陥落したときに殺害された。

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陸玄(りくげん)

陸抗の息子で三男だと思われる。

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陸宏(りくこう)

陸績の長男で会稽南部都尉となる。

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陸抗(りくこう)

字を幼節(ようせつ)といい、父である陸遜と孫策の娘の間に生まれ、孫策の外孫にあたる。

二宮の変で孫権は陸遜と意見が対立したこともあり、陸遜死後、その怒りは収まらなかった。その為、部下が告発した陸遜にかかわる二十項目にわたる疑惑について陸抗に問いただすと、陸抗は一つ一つ道筋を立てて返答したため孫権もようやく納得した。246年、陸抗は立節中郎将となり、諸葛恪と任地を交代して柴桑に駐屯する。その際、陸抗は城や住居をきちんと繕い直したが諸葛恪はすべてを放ったらかしにしていたので諸葛恪は大いに恥じたという。

251年、陸抗は病んで建業で治療していたが、治癒して任地に戻る際に孫権が訪れ涙を流して彼が父の陸遜にした仕打ちを詫びた。

259年、陸抗は鎮軍将軍に任じられ孫皓が皇帝になると鎮西大将軍に任じられ、270年に施績が死去すると陸抗は公安・夷道・西陵・信陵ほかの軍事の総指揮にあたり楽郷に本営を置いた。

陸凱死後、陸抗は17条に及ぶ事務の方策を具申し、また小人を任用することは亡国の原因であると訴えたが孫皓はそれを聞き入れなかった。272年、西陵の督だった歩闡が叛旗を翻して晋に降伏を申し入れると、晋の名将である羊祜を江陵に向かわせ呉攻略に乗り出す。自分がかつて西陵の城を整備し、その堅固なことを知る陸抗は、夜を日に継いで包囲陣地を構築した。他の武将は江陵の防御に向かうべきだといったが、陸抗は江陵は堅固だから心配はいらぬし、西陵が落ちれば南方の異民族が騒ぎ出し手がつけられなくなる。私は江陵よりも西陵を守ると言い、西陵包囲の陣に拠って晋軍を防いだ。その為、対陣が長引き万策つきた晋軍は退き、それを追った陸抗は大勝利を収めた。後方の憂いが無くなった陸抗はその後、西陵城を攻撃してついに歩闡を斬った。

この後、274年まで陸抗は羊祜と国境を挟んで対峙した。羊祜とは不思議な友情が芽生え、陸抗は彼に酒を送ると羊祜は疑わずにそれを飲み、陸抗が病むと羊祜は薬を送り、陸抗もそれを疑わずに飲んだ。そういう状況をしり孫皓は詰問の使者を送ったが陸皓は平然としていたという。

273年、陸抗は大司馬・荊州の牧となり274年夏に病気が重くなった陸抗は上書して西陵・建平二郡の重要性を述べ、くれぐれも防備を怠らないように説いた。そしてその秋に死去する。

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陸康(りくこう)

字を季寧(きねい)といい、陸績の父親である。

若いころから親や兄たちに心をこめて仕え、自らの行いを修め正すことに努めた。

郡の太守であった李粛が彼を考廉に推挙したことがあるが、その李粛がのちに事件に連座して処刑されると、陸康はその以外を棺に納め、棺につきそって穎川まで送り届けて彼のために喪に服し服喪の礼を正しく守った。

その後、茂才に推挙され、三つの郡の太守を歴任したが、それぞれの郡での治績をあげたと賞賛され廬江太守に任ぜられる。

廬江太守になると袁術と対立をすることになる。その昔、孫策は父親の孫堅死後、彼を訪れたことがあったが、その時、陸康は孫策とは会わず主簿役の者に対応させたことから孫策をこれを常々遺恨に思っていた。袁術の配下であった孫策は袁術の指示に従い陸康を撃破した。

陸遜は陸康の親族であり、彼は若いころに陸康の元に身を寄せている。陸康は袁術が攻撃をかけてこようとしたとき、陸遜を親戚の者たちと一緒に呉に帰らせている。

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陸式(りくしき)

陸胤の息子で、父親が死去するとその爵位を継ぎ、柴桑の督、揚武将軍となった。

275年、陸式はいとこの陸禕と共に建安に強制移住させられ、278年に建業に呼び戻され、もどどおりの将軍の号と侯の爵位とを与えられた。

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陸駿(りくしゅん)

字を季才(きさい)といい、陸遜の父親。

立派な徳と他人に対する篤い誠心を備えていたので、故郷の人々や一族の者たちから心を寄せられた。官位は九江郡の都尉にまで昇進した。

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陸尚(りくしょう)

徐琨と同郡の人で彼の娘と結婚する。陸尚死後、徐夫人は孫権に嫁ぐ。

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陸昭(りくしょう)

会稽の丞で孫策に命じられて使者となって高岱を迎えに行く。

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陸績(りくせき)

字を公紀といい陸康の息子である。

193年、袁術は曹操・袁紹連合軍に敗れると九江に逃亡した。この年、陸績は6歳であったが袁術に会うと蜜柑を与えられた。陸績はその中の三つを懐に入れて退出する際にお辞儀をするとそれが床に落ちてしまう。そこで袁術は陸氏の坊やは人に招かれた席で蜜柑を懐に入れるのか?とちゃかすと、陸績はひざまづいて、帰ってから母に贈ろうと思いましてと答えた。袁術は並の子と異なった陸績に大きな感銘を受けた。

196年、孫策は会稽郡により、張昭、張鉱、秦松らを上賓として迎え、彼らは武力で四方を平定しなければならないと論じていた。少年の陸績は末席にいたが、大声で、孔子は遠くの者が服さない時は自分が文徳を修めて彼らを招きよせよと申されています。只今の議論は徳を用いようとせず、武力を重んずるものでございます。私は年端もゆかず物事も分かりませんが賛同いたしかねますと言った。9歳の時である・・・・。恐ろしい子供です・・・・。張昭たちは非凡さを高く評価したという。

陸績は雄大な風貌を具え、博学多識で天文歴法や数学まで読まない書物はなかった。虞翻は古くからの著名人であり、荊州の名士である龐統は陸績より9歳年上であったが、ともに陸績と親交を結んだ。

200年、孫権が政治を執ることになると、陸績を召し出して奏曹掾とした。しかし直言を憚らなかったため、中央から出されて広州の鬱林太守となった。そして偏将軍を加えられ兵二千を領した。

陸績は以前から足を悪くしており、学者でありたいと願っていたので、こうした任務は志と異なっていた。軍事を携わっていても著述はやめず、渾天図を著し、易経に注釈を付け、太玄経に解釈を施した。

219年、32歳という若さで死去する。

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陸瑁(りくぼう)

字を子璋(ししょう)といい、陸遜の弟である。

陸瑁は若いころから学問好きで、義に篤い人物であった。陳融、濮陽逸、蔣纂、袁迪はみな後ろ盾のない家の出身で貧乏だったが志だけはしっかりと保っていた。彼らは陸瑁の義心を頼って身を寄せた。陸瑁はみなに惜しまず物や食物を分かち与えて苦楽を共にした。

親族である陸績は早世するが陸瑁は陸績の遺児三名がまだ数歳であったことからを引き取って養育し成長した後、実家に戻している。

陸瑁は兄の陸遜が孫権に召し出されても彼は招聘に一切応じなかったが、232年、公車が派遣されると陸瑁は召し出され議郎・選曹尚書の官を授かった。

233年、遼東の公孫淵は呉に好を見せていたにも関わらず、孫権の使者の首を斬ってその首を魏に送った。するとこれに激怒した孫権は激怒し自ら討伐に向かおうとした。陸瑁は、魏は常に呉を窺い、山越は隙を狙って反乱を起こそうとしており、そんな状況で公孫淵の討伐を行うのは万全の計ではないと張昭等と共に孫権を諌めた。

239年に死去する。陸遜に比べて地味な印象を受けるが、彼が最初に招聘に応じなかったことから、陸瑁自身は政治に全く興味がなかったのではないかと思う。

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柳栄(りゅうえい)

張悌軍に従軍にした人物で、途中で船中で病死する。しかし、軍は既に上陸しており彼の死体は誰も埋葬せずに放っておかれていると2日後に軍師殿(張悌)を縛るやつがおる!と叫んで生き返った。

彼の話では天に昇って北斗門のところまでくると、思いがけもなく張悌を縛っている者がいるので何故、軍師殿を縛るのかと叫ぶと門にいた人は腹を立て叱って彼を立ち去らせたという。

その日、張悌は戦死をしていた。柳栄はs晋の元帝の時代にも生き残っていた。

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柳朱(りゅうしゅ)

松陽出身の女性で一度婚礼を挙げたうえは操を守り通し一生生涯再婚しようとはしなかった。

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留賛(りゅうさん)

字を正明(せいめい)といい、会稽郡長山県の人。

183年に生まれ若くして郡吏となり、黄巾賊の首領であった呉桓と戦い自らこの呉桓を斬り殺した。しかし、この戦いで留賛は自分の片方の足を傷つけ曲がったまま伸ばせなくなってしまう。彼の気性は激しく、兵書や三史を手にして、当時の良将の戦いぶりを読み、書物を前に独り嘆息を漏らしていた。

ある日、逸る気持ちを抑えられず近親者に、今、天下は乱れて英雄豪傑が並び立っている。しかし私は歩けぬまま民間に身を置いており生きていても死んだと同然である。今、足の筋を割いて伸ばしたい。もし足が伸びれば再び用いられるだろうし、死んでしまえばそれまでの事である。

留賛は親戚の反対を押し切って刀で自分の足の筋を割いた。一時は出血多量で意識を失ったが、なんとか一命は取りとめ親戚の手で足は引き伸ばされ、傷も癒えた。そして跛行ではあるが、歩けるようになる。

凌統はこのことを聞くと留賛と会見し彼の人となりを高く評価して孫権に推薦した。これによって留賛は用いられるようになり、戦功を重ねて屯騎校尉にまで昇進した。しかし、時事の得失について諌言し、直言を好んで孫権の気持ちを逆なでることもあったため孫権には嫌われていた。

252年、魏が東興に攻めてくると丁奉と共に闘いに参加し、魏軍の油断を衝いて呉軍は見事に快勝する。この戦いでは留賛は先鋒として加わり、功績によって左将軍に任じられる。

255年、春寿に孫峻は呂拠と留賛を率いて攻め込むが、留賛は途中で病を発したため、孫峻より輜重車とともに先に帰るように命じられる。しかし、そこに魏将の蔣班が四千の兵を率いて襲ってきた。留賛には奇妙な癖があり、敵を前にして戦うとき、彼は髪を振り乱し絶叫し、声を張り上げて歌を歌い、部下に唱和をさせた。これが終わったあとに軍をすすめると不思議なことに戦いには必ず勝った。

しかし病が重い留賛は、この時ばかりは敗北をまぬがれぬと覚悟して、私が戦うときはいつも決まったやり方があったが、病気に苦しんでそれも出来なくなった。これはもとより運命である。と嘆き、ついに戦死した。齢73であり、人々は彼の死を惜しんだ。

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留平(りゅうへい)

留賛の息子。征西将軍にまでなっている。

263年、蜀が魏に攻め込まれると蜀を救うべく留平は南郡の施績のもとにおもむき、軍をどこの方向に出すべきか検討をしてたが蜀は魏に降伏してしまう。

264年、留平は陸抗、歩協らと軍勢を率いて蜀の巴東の守備隊長の羅憲を包囲するがこの攻略は失敗に終わってしまう。

真実は定かではないが、266年に陸凱が孫皓を廃帝しようとクーデターを起こそうとしたが、これは儀仗兵を率いてる留平に話を持ちかけたところ、留平は一味に加わることを拒絶して、他言は必ずしないと誓った。このため、陸凱はクーデターを起こすことを諦めたとされている。一方、江表伝では留平は丁奉と仲が悪く、陸凱の息子の陸禕がクーデターの話を持ちかけようとしたが、留平が丁奉の軍営に野豚が紛れ込みこれは丁奉に悪いことが起きる報せだと喜んでいるのを見て陸禕は話をするのを諦めたと書かれている。いずれにしても、留平の存在でクーデターは未遂に終わったように思われる。

271年、孫皓が建業の西にある華里まで御幸したとき、万彧は都を空けることに不安を感じ丁奉、留平と密かに相談して最悪の場合は自分らだけでも戻らなければならないと告げる。しかしこれが孫皓に漏れてしまうと、孫皓はそれを恨みに思い毒酒を留平と万彧に飲ませようとした。その件で留平は不安と憤りのあまり一ヶ月で死んだとされている。

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留略(りゅうりゃく)

留賛の息子。

252年、諸葛恪が東興に城を築くとその東城を都尉の留略に守らせた。255年、東海太守に任じられる。

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留慮(りゅうりょ)

歩闡が反乱を起こした際、徐胤が水軍を率い建平に向かってきたので陸抗は水軍督の留慮と鎮西将軍の朱琬に徐胤の動きを封じ込めさせている。

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劉穎(りゅうえい)

広陵出身の人物で厳畯の古くからの友人。

町のかたすみに引きこもり、学問に勤しんでいたが孫権がその評判を聞いて登用しようとした際、劉穎は病気を理由に辞退した。しかし、弟の劉略が死去して葬儀に駆けつけると、孫権は彼が仮病を使っていたことをしり収監させようとした。

それを知った厳畯は急いで劉穎の元に駆けつけ説得し孫権に陳謝させた為、劉穎は罪をまぬがれることができた。

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劉偕(りゅうかい)

劉勲の従弟で袁胤が袁術の棺を担ぎ、妻子や配下と共に劉勲を頼ってきた際、城の穀物が不足したため劉偕は使者となって豫章の華歆に兵糧の借入を申し込んだ。

豫章でも兵糧は不足しており華歆は役人を劉偕につけて海昏と上陵の宗族に兵糧を供出させてこれを補わせようとした。しかし劉偕は満足に兵糧を集められなかったので海昏を攻撃して兵糧を奪うべきだと劉勲に進言した

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劉基(りゅうき)

字は敬輿(げんよ)といい、劉繇の長男。

14歳で父を亡くすが、劉基は喪に服しては礼に外れることがなく、父の旧臣が送ってきた見舞い品を一切、受け取らなかったという。

劉基は多くの苦難に見舞われ、苦労をなめ尽くしたが、ひっそりと世を処して道を楽しみ弟たちと共に暮し、いつも遅く寝て早く起き、妻たちも彼の顔を見ることは希であった。劉基はみだりに交友を広げず、その門をつまらない客が訪れる事はなかった。

父の死後、孫権に仕えた東曹掾となる。彼が容姿端麗であったため孫権に寵愛されたが、それに驕り高ぶることはなく、逆に孫権が酔ったフリをして酒を飲もうとしない虞翻に腹を立てて殺害をしようとした際に、劉基は懸命に孫権を諌めてことなきを得ている。

孫権が呉王になると大農になり、帝位に即くと光禄勲に昇進し、49歳の時に死去した。

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劉勲(りゅうくん)

字を子台(しだい)という。

袁術の子飼いの部下で孫策が陸康を攻め落とすと、袁術は孫策との約束を反故し劉勲を廬江太守に任じる。

のちに袁術が死去すると、その部下は孫策のもとに身を寄せようとしたが、劉勲は待ち伏せをして攻撃をかけ、彼らを捕虜として珍宝を奪い取った。すると孫策は一計を案じて、劉勲に同盟をし、江東の宗教団体も武力で手に入れようと話を持ちかける。その話に乗った劉勲は兵を向けると、孫策はその留守を狙って盧江を攻め落とした。

一方、江表伝での描写は少し違っており、袁術死後、その部下は劉勲を頼ってくる。しかし、劉勲は食糧不足に陥っており、従弟の劉偕の案に乗って海昏の町に攻め入る。しかし、劉勲が攻めてくることを知った町の人は既に脱出しており劉勲は何も手に入れるものが無かった。一方では孫策が劉勲が海昏に攻めたことを知ると孫賁と孫輔を劉勲軍に攻撃させ、孫策は留守中の皖城を攻め落とした。その後、劉勲は山に入り守りを固め黄祖に救援を頼むが、黄祖の援軍と共に破れ曹操のもとに身を寄せた。

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劉彦(りゅうげん)

交州刺史の朱符と同郷で朱符に取り立てられたあと土地の長官となり人々を虐待し厳しい税金を課した。

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劉虎(りゅうこ)

劉表の従子で、劉勲が孫策に敗れて援軍を頼んだ際、先鋒となっているが完敗し首を斬られている。

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劉纂(りゅうさん)

孫魯育の二度目の夫。

235年、廬陵郡、会稽郡、南海郡で反乱が起きた際、呂岱の指揮下に入り討伐を行っている。

256年、孫峻が魏に侵攻した際に車騎将軍として遠征に参加している。

後に孫皓が武昌に遷都すると弋陽への進攻案が出る。多くの群臣が反対するなか、劉纂は敵に隙があるのであれば間諜を送って敵の情勢を見るべきだと進言している。

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劉鑠(りゅうしゃく)

劉基の弟で騎都尉になった。

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劉俊(りゅうしゅん)

交州刺史で268年、反乱を起こしていた交趾に攻め込んだが打ち破られ死亡した。

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劉助(りゅうじょ)

朱拠が呂壱に濡れ衣を着させられた際、典軍吏の劉助が事の真相をつかみ問題を解決させた。

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劉丞(りゅうじょう)

滕胤が孫綝に対し反乱を起こした際、歩兵と騎兵を率いて滕胤を攻めた。

後に孫亮と共に孫綝の専横が目に余るとして孫綝誅殺計画を練るが、計画が漏れてしまい孫綝の弟である孫恩に攻め殺された。しかし、この部分は間違いなく劉承の間違いであると思われる。

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劉尚(りゅうしょう)

劉基の弟で騎都尉になった。

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劉承(りゅうしょう)

諸葛恪の弟である諸葛竦を諸葛恪が誅殺されたために逃亡しようとした際に追いかけた白都で斬った。

その後、孫亮に寵愛されると、孫亮が孫綝の専横が目に余るとし、暗殺計画を共に練るが計画が漏れてしまうと孫綝の弟に逆に攻め殺されてしまう。

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劉邵(りゅうしょう)

223年、賀斉に率いられて蘄春に攻め込み晋宗を生け捕りにした。

その後、曹休をおびき寄せる作戦にも加わり、呉軍は曹休を撃破している。

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劉靖(りゅうせい)

廬江の人で情勢判断に詳しく孫皎に仕えていた。孫皎死後、弟の孫奐に礼遇され仕えている。

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劉川(りゅうせん)

中書郎で264年、海賊が海塩を襲ってその防備を打ち破ると、廬陵の兵を動かして海塩の救援に向かった。

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劉寵(りゅうちょう)

字を祖栄といい、劉繇の伯父。

父の学問を受け継ぎ、経典に明るく行いも正しいことから考廉に推挙され東平陵県の令に任ぜられる。しかし、赴任して数年が経ったところで母親の病気が重くなったため辞職して故郷に帰ろうとすると、一般民衆や士人たちは彼の辞任を阻止しようと必死になった。そこで、劉寵は夜のうちにこっそりと質素な衣服に着替えて町から逃げ出し、その後は母親に孝養を尽くした。

後に大将軍の幕下に招かれると、会稽太守になる。自らの身を修め正し、下にある者の模範となり郡全体を大いに治めた。中央に呼ばれ将作大匠に任ぜられると郡の役所から数十里離れた山に住む老人が劉寵が転任することを聞いて見送りにやってきて餞別を差し出した。劉寵はなぜわざわざこんな遠くまでやって来てくれたかと聞くと、老人らは劉寵の就任以降、役人の態度は良くなり、治安も良くなり、そのお礼だと答えた。劉寵は感謝すると、餞別の中から大銭を一つだけ受け取った。このことから会稽では劉寵のことを“一銭取りの太守”と呼んだ。

劉寵はその生涯を通じて二度、郡の太守となり、八度、九卿の位につき、四度も三公の位に昇った。そんな人物にも関わらず彼は非常に質素で粗末な生活をしていたという。

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劉陶(りゅうとう)

字を子奇(しき)といい、士燮の師匠。

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劉惇(りゅうとん)

字を士仁(しじん)といい、平原郡の人。

後漢末、世の中が大いに乱れたのを機に、遠く長江を渡って江南に避難し、廬陵に移り住んだ。そして孫策・孫権の従兄弟に当たる孫輔に仕えた。

劉惇は天文に明るく、占いに通じていることから、その名は南土に知れ渡った。水害・干害や賊徒の侵入がある時は、先じて警告したが外れたことは無かった。孫輔は彼の能力を買って軍師とした。軍中の兵士は皆、劉惇を敬って“神明”と称した。

孫権が豫章にいたとき、星に異変が現れた。これについて孫権が質問すると、劉惇は丹楊に災禍がありますという。孫権がどのような災禍かと問うと、客が主人をしのぐというものです。某日に知らせがあるでしょうと劉惇は答えた。これは辺鴻が孫権の弟である孫翊を殺した事件を指す。孫翊は兄孫策の風格があると言われた勇将だった。

劉惇はさまざまな術をよく用いたが、特に太乙の術に明るかった。太乙とは北極星を指す。北極星の輝き方と惑星の動きを併せ考えて吉凶を占う方式であろうか。著書は百余編あり、有名な儒者である刁玄も評価していた。呉範や趙達と同じように劉惇もまた自分の秘術を大切にし、人には知らせなかった。このため、世の人もその術を明らかにすることが出来なかった。

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劉磐(りゅうばん)

劉表の従子で勇猛で名が知られていた。しばしば艾・西安などの諸県を攻め込んで荒らしまわっていた。孫策はそこで太史慈を建昌都尉に任じると劉磐はその後、攻めてくることが無くなった。

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劉宝(りゅうほう)

都督で丁晏を告発し、丁晏も劉宝を告発しかえしたが、二人とも孫和に諭された。

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劉由(りゅうゆう)

奉正都尉で孫策の命により許に土地の産物を献上しにいった。

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劉輿(りゅうよ)

劉繇の父親で別名、劉方(りゅうほう)とも言われる。山陽太守であった。

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劉繇(りゅうよう)

字を正礼(せいれい)といい、先祖は斉の孝王の末子。

劉繇が十九歳の時、叔父の劉韙が賊の人質となった。彼はそれを奪い返してきて、その名が人々の間に広まった。考廉に挙げられて郎中となり、下邑県の長となったが、当時の郡守が貴顕と親戚なのを笠に着ていたので、官を棄てて去った。やがて青州の役所に招かれて済南の行政監察に当たる。その相は中常侍の子で賄賂を貪って法を蔑ろにしていたので劉繇は上奏してこれを罷免した。

平原県の陶丘洪という人が青州刺史に劉繇を茂才に挙げるように推薦した。刺史は“前年に公山(劉繇の兄)を推挙し今またその弟の正礼を推挙するのはどうしてか?”と問うと彼は“もし殿が先に公山を登用し、後に正礼を抜擢されましたならば、二匹の龍を御して長途に就き、名馬を馳せて千里を行くということになり、まことに宜しいではございませんか”と答えた。

このころ、司空の掾として招かれ、侍御史の任を受けるようにとの話があったが、これを断る。戦乱を避けて淮水流域にいた時、詔書が下されて楊州刺史に任じられた。しかし、一九三年当時、袁術が淮南を占拠していたため、劉繇は恐れ憚って郡の役所が置かれている寿春に行こうとしなかった。そして長江を渡って曲阿に役所を定めた。

当時、孫策の舅の呉景と孫策の従兄孫賁は丹楊にいた。袁術は王朝を奪おうと考えて次々に郡県を配下に収めていく。劉繇は樊能らを長江沿岸の要所に派遣してこれを防ぎ、その一方で呉景、孫賁は袁術に官位を授けられて活動しているという理由で丹楊から追い出した。

一九四年、孫策は袁術に説いて呉景らに加勢したちまち劉繇の部下らを打ち破った。慌てふためいた劉繇は長江を遡って豫章に拠ろうとし、部下の笮融を先発させた。しかし、豫章に入った笮融は太守の朱皓を殺し、自立の勢いを示した。劉繇は軍を進めて笮融を撃とうとしたが逆に破れ、配下の県から兵士を徴発し、再戦してようやく勝った。笮融は山中に逃走したが住民に殺されてしまった。

劉繇は間もなく病死し、四十二歳の若さであった。

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劉略(りゅうりゃく)

南海太守で郭馬に殺される。

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劉略(りゅうりゃく)

劉穎の弟で零陵の太守。

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呂壱(りょいつ)

校事の地位にいたころから孫権に寵愛され始める。

後に中書となると呂壱は秦博と共に職掌を利用して勝手な権限をふるい、やがては専売品や山沢の産物を自由にし、他人の悪事の摘発にあたっては、どんな些細なことでもみんな上聞し、でっち上げのスキャンダルを大げさに取り上げることによって、重臣たちを傷つけ無辜の者たちを罪に陥れた。

呂壱の悪事として、建安太守の鄭胄が呂壱の食客が法を犯したのでこれを逮捕して獄に入れた。すると呂壱はこれを恨みに思い呂壱は鄭胄のことを讒言した。すると、孫権は大いに腹を立て処刑しようとしたが、これは陳表、潘濬らが命乞いをして止めさせた。

他には呉に新たに大銭が作られた際、工人の王遂という人物が朱拠の配下を騙して彼に渡すべき銭を取ってしまった。訴訟問題になると呂壱は逆に朱拠に濡れ衣を着させ、朱拠の配下を拷問にかけ殺し朱拠を捕縛した。しかし、後に劉助が真相をつかみ朱拠は無実となった。

太子の孫登は孫権に呂壱を信任することの不可を諫言したが孫権をそれを聴き入れなかった。

のちに呂壱の悪事が発覚して誅殺されると孫権はあやまちを認めて自らを責め、中書郎の袁礼を使者に立てて、それぞれの軍の総指揮者たちに陳謝の言葉を伝えさせ、現在の施策に改めるべき点がないかどうか訪ねさせた。

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呂凱(りょがい)

呂岱の息子で父親が上大将軍に昇進すると副軍校尉に任ぜられる。

256年、呂岱が死去すると、呂凱はその爵位を継いだ。

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呂拠(りょきょ)

呂範の二男で字は世議(せいぎ)。

長男が早世していたので、呂拠は呂範の後を継いだ。しばしば、険阻に踏み入って山越を討伐し太常の潘濬に従って五谿の武陵蛮を鎮定し、車騎将軍朱然が樊城を攻撃したときは、呂拠は朱異と共に城の外郭を破る戦果を挙げた。

251年、暴風で長江が氾濫して城門が水浸しになった時、呂拠は人々に命じて大船を繋ぎ止め、被害を防いだのを賞されて盪魏将軍となり、翌年、孫和が太子に立てられると右将軍に昇進した。

252年、魏は7万の大軍で東興を攻撃する。呂拠は諸葛恪に率いられて東興に向かい丁奉の奇襲攻撃を援けて敵を壊走させた。翌年、クーデターを起こして諸葛恪を殺した孫峻は呂拠を驃騎将軍に任じて武昌宮の事務を担当させた。255年、寿春で毋丘倹と文欽が挙兵した。呂拠は孫峻・留賛とともに救援に向かったが、彼らの敗報が伝わったので帰還した。

256年、再び呂拠は魏の攻撃に向かった。その途次、孫峻が急死して従弟の孫綝が実権を握ったと聞き、呂拠は大いに怒って滕胤に書を送り、二人で協力して孫綝を廃しようと計画した。しかし孫綝のほうにも抜かりはない。この動きをしると、中書に命じて詔勅を出させ、文欽、唐咨、劉纂らに呂拠を取り押さえるように命じた。一方、従兄の孫憲には都にいる兵士を率いて江都で迎え撃たせた。

この素早い対応を見た側近たちは呂拠に魏に降るように勧めた。しかし、呂拠は叛臣となるのを恥じるといって自殺し、その一族も皆殺しにされた。

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呂公(りょこう)

劉表の部下で英雄記では呂公の兵士が石を落して孫堅の頭に当て殺したとされている。

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呂合(りょごう)

会稽・東冶の不服従民で秦狼と叛旗をひるがえしたが、蒋欽、呂岱に捕えられた。

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呂興(りょこう)

交趾郡の役人で都から徴用される事に動揺した人々に乗じて兵士や民衆を扇動し異民族の者たちを誘い込んで反乱をおこし、太守の孫諝を殺害した。

その後、使者を魏におくり、魏から太守と兵士とを送って欲しいと請うた。

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呂琮(りょそう)

呂蒙の息子で、呂覇が死去すると爵位を継いだ。

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呂岱(りょたい)

字を定公(ていこう)といい、広陵郡海陵の人。

もともと郡県の官吏だったが、戦乱を避けて南に渡った。孫権が兄孫策のあとを継ぐと呂岱は出仕して呉県の丞に任じられ、その能力を孫権に高く評価された。当時、孫氏が掌握していたのは会稽・呉郡・豫章・廬陵の五郡にしか過ぎず、しかも険阻な奥地は全てが服従していたとは限らなかった。兄に代わった孫権が忙殺されたのは山越を初めとする諸夷の討伐と鎮撫である。

会稽・東冶郡の呂合や秦狼が叛乱を起こすと、呂岱は督軍校尉に任じられ、蒋欽らとともに討伐に向かった。たちまち二人を捕え、昭信中郎将を授けられた。

211年、呂岱は尹異ら二千人を率いて漢中一帯で勢力を誇る張魯を誘いだそうとしたが、張魯は呉の真意を疑い道路を断ったため呂岱は呉に帰還する。その帰り、呂岱は劉備の蜀攻略を目撃し孫権に劉備の部下はバラバラになって落伍し、死者は半数にも及びます故、蜀への侵攻はおそらく失敗するでしょう、と報告している。

215年、孫権は劉備に荊州返還を迫るとともに、呂岱に命じて長沙・零陵・桂陽を占領させた。220年、呂岱は歩隲の後を継いで交州刺史となる。着任した年、呂岱はすでに59歳であったが、精力的な働きをして高涼・鬱林・南海・桂陽諸郡の反徒を次々に平定し、功によって安南将軍・都郷侯に昇進した。交趾太守、士燮の死後、その子、士徽らは不穏な動きを示したため、呂岱は彼らを一網打尽にして処刑した。

交州平定後、呂岱はさらに進んで九真郡を討伐し、斬首したり捕虜とした者は数万にものぼった。さらに部下を南方に派遣すると、扶南・林邑の王たちは貢物を送ってきた。孫権は呂岱の功労に対して鎮南将軍を授けた。

231年、南方が安定したので、呂岱は呼び戻されて長沙の漚口の駐屯する。このころ、武陵の蛮族が騒ぎはじめたので呂岱は太常の潘濬と共にこれを討伐、平定した。234年には、この年死去した潘璋の兵を配下にして陸口を守り、後に蒲圻に移った。235年、呂岱は劉纂、唐咨を指揮し会稽郡、南海郡の反乱を討伐し鎮圧した。

239年、廖式が叛乱を起こし、零陵や交州の雲行きが怪しくなると呂岱は上表して鎮圧を願い出た。認可されると日夜兼行して現地に赴き、一年かけて反乱を鎮定した。245年、陸遜が亡くなって諸葛恪がその職務を引き継ぐと、孫権は武昌を二部に分け、呂岱に右部を委ね、武昌から上流の蒲圻に至る地域を統括させ、やがて上大将軍とした。252年、孫亮が即位すると、呂岱は大司馬の官を授けられた。

呂岱は身辺を清潔にして公のために尽力し、赴任した先々で述べるに足る行いがあった。交州にいた時は何年も家に仕送りをしなかったため、妻子はいつも飢えていた。孫権はこれを聞いて、呂岱の妻子にそんな思いをさせたのはお前たちの責任だと部下を責め、歳ごとに銭・米・絹を下賜するようにした。

256年、呂岱は死去した。96歳であった。

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呂覇(りょは)

呂蒙の息子で父親の死後、その爵位を継ぎ、呂蒙の墳墓の守りに当たるために三百戸と税金免除の田地五十頃が与えられた。

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呂範(りょはん)

字を子衡(しこう)といい、汝南郡細陽の人。

若いころに県吏になりその優れた容姿が人目を惹いた。郷里に劉氏という人がいて家は豊かで美しい娘がいたが、呂範が妻に迎えたいというと母は嫌がった。しかし父の劉氏は呂子衡は貧しいままで終わるような人物ではないと評価して婚姻を許した。

後に戦乱を避けて長江を渡り、孫策に見えた。呂範は食客百人を率いて部下になり江都にいた孫策の母を曲阿の孫策のもとに連れ帰った。当時、常に孫策に従って共に辛苦を味わったのは呂範と孫河であった。孫策も呂範を常に奥座敷にのぼらせて母と酒食を共にさせ身内として待遇した。

呂範は孫策の下で各地を転戦、呉に戻る。孫策の勢力は日増しに強くなったが規律が整っていなかったため、呂範は自分が都督に就任してこれを引き締めたいと申し出る。孫策は多くの部下を持っている呂範を今更、都督のような低い職につけられないと反対をしたが呂範は強く主張して都督に就任する。すると、以後、威令はよく行われたと言われる。

孫策の死後は孫権に仕え、203年、孫権が黄祖の討伐に向かうと呂範は張昭と共に呉の守りに当たる。208年、赤壁の戦いに参戦し裨将軍に任じられ彭沢太守を領する。その後、劉備が荊州四郡を占領し、京口城に劉備が来た際は、呂範はそのまま劉備を呉に留めて帰さないように献策したが孫権に容れられなかった。後に呂範は平南将軍に昇進、柴桑に駐屯する。

219年、孫権は関羽の背後を襲うに先立ち、呂範の館を訪れて、昔、君の言葉に従っていたならばこうした苦労はしなかった。今、長江を遡って襲撃するが、私のために建業の城を守ってもらいたいと頼んだ。孫権は関羽を破って軍を返し、武昌に都を定め、呂範を建威将軍・宛陵侯とし、建業を統治させた。

222年、魏の曹休は張遼・臧覇ら二十六軍を率いて呉を襲う。呂範は徐盛・全琮・孫韶らを指揮して水軍によってこれを防いだ。魏は文帝曹丕自ら督戦して、諸軍を渡江させようとしたが、結局得るものもなく軍を引き返した。この時、呂範の水軍は暴風にあって数千の溺死者を出し、決して大勝利とは言えなかったが、領土を保全した功を評価され前将軍に昇進、揚州の牧となった。

孫策時代、呂範は経理を担当した。孫権が私用の金を内密に求めても呂範は孫策の許可がなければ与えず、孫権に恨まれていた。一方、功曹の周谷は孫策の会計監査がたびに帳簿を改ざんして孫権を庇っていた。孫権は後に呉を統治すると、周谷を任用せず呂範の忠誠を高く評価して信任した。

呂範は威儀を正すことを好み、揚州にいる陸遜・全琮をはじめ、貴公子たちは州牧の彼を尊敬し、軽々しい対応を憚った。彼の住居や服装は賀斉と並んで奢侈だったが、孫権は忠勤ぶりを喜んでそれを咎めなかった。228年、呂範は大司馬に昇進したが、その印綬が届く前に亡くなったため、孫権は遺族に印綬を追贈した。都が建業に戻されたとき、孫権はその墓に詣でて子衡と呼びかけて涙したという。

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呂睦(りょぼく)

呂蒙の息子で兄の呂琮が死去するとその跡を継いだ。

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閭挙(りょきょ)

江夏の人で孫奐に礼遇され配下として働いた。

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梁寓(りょうぐう)

字を孔儒(こうじゅ)といい呉郡の呉の人。

孫権が曹操より驃騎将軍に任じられた際、孫権は校尉の梁寓を使者に立てて漢の朝廷に献上物を捧げさせた。曹操はやってきた梁寓を掾に任じたがまもなく呉に送り返した。

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梁広(りょうこう)

呉書の編纂をした一人であるが早くに亡くなった。

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凌封(りょうほう)

凌統の息子で兄の凌烈が罪を犯して官を免ぜられると凌封が代わって爵位を継ぎ兵士を預かった。

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凌烈(りょうれつ)

凌統の息子で父の死後、亭侯に封じられたが後に罪を犯して官を免ぜられる。

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廖式(りょうしき)

蔣秘の配下の都督で臨賀太守の厳綱らを殺害し、勝手に平南将軍を名乗り、弟の廖潜と共に零陵郡や桂陽郡に攻撃を加え、さらに交州・蒼梧・鬱林といった諸郡にも動揺を与えその勢力は数万人にものぼったが、呂岱と唐咨に討伐される。

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廖潜(りょうせん)

兄の廖式が平南将軍を名乗ると、兄と共に共に零陵郡や桂陽郡に攻撃を加え、さらに交州・蒼梧・鬱林といった諸郡にも動揺を与えその勢力は数万人にものぼったが、呂岱と唐咨に討伐される。

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林恂(りんしゅん)

将軍で孫儀、張怡らと共に孫峻暗殺を企てたが発覚して処刑された。

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黎斐(れいひ)

将軍で諸葛誕が寿春で反乱を起こした際、孫綝の下で丁奉と共に魏に攻撃をかけている。

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路合(ろごう)

廬陵郡の賊徒で李桓と共に反乱を起こしたが呂岱に敗れた。

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魯淑(ろしゅく)

魯粛の遺腹の息子。

永安年間に昭武将軍・都亭侯、武昌の督となる。建衡年間には夏口の督に移り、任地ではどこでも厳正な統治をおこない、事を処理してゆく能力があった。

274年に死去する。

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魯睦(ろぼく)

魯粛の孫で父の魯淑の死後、爵位をつぎ兵馬を預かった。

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盧叙(ろじょ)

鄮県出身で弟が公の掟を犯したとき自分が代わりに死刑になりたいと願い出た。

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郎稚(ろうち)

呉郡余杭の平民で211年に一族郎党を集めて反乱をおこしたが賀斉に敗れた。

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楼拠(ろうきょ)

楼玄の息子で父親が孫皓に憎まれたため、交趾に強制移住させられそこで病死した。

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楼玄(ろうげん)

字を承先(しょうせん)といい、豫州沛郡蘄県の人。

孫休の時代に監農御史となり、孫皓が即位すると楼玄は王蕃、郭逴、万彧とともに散騎常侍として仕えた。後に地方に出て会稽太守となり再び中央に戻って大司農となった。

もともと禁中の主管役には君主と親しい者が任命されてきたが、万彧が上陳した“君主と親密に接触する役ゆえ、人格者を用いるべきだ”という案がとられ、その結果、楼玄が選ばれた。

楼玄は九卿の後に従って刀を執って侍衛し、威儀を正して人々を率い、法に従って行動した。しかし、孫皓への応対が率直すぎたために、その怒りを買うことが多くなった。後に楼玄は賀邵と出会うと車を止めて耳打ちをし、政道を謗って大笑いしておりましたと孫皓に誣告するものがいて、広州に流されてしまった。

孫皓に対して政治の在り方について何度も上訴しながら、何故か疎まれなかった華覈は友人の楼玄の節操の高さと忠直ぶりを書き綴って再び任用されるよう孫皓に請うた。しかし、これも孫皓には無駄だった。彼は楼玄の名声が高いのを憎み、楼玄・楼拠親子を交趾に移し、武将の張奕に身柄を預けて、戦場に立たせよと命じた。文官である楼玄に戦場に立てと命じるのはつまり死ねと命じているのと変わらない。

更に、孫皓は一方で張奕に命じて楼玄親子を殺害させようとした。しかし、楼玄は張奕に会うといつも拝礼をしたので張奕は恐縮をして手を出せずにいた。のちに張奕が死去すると、楼玄が葬儀を行ったが、張奕の日用品の中に自分を殺すように命じた孫皓の勅書を見つけると、自宅に帰り自殺をした。

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