全呉将紹介
さ行
サエキ
左奕
サイイ
蔡遺
サイエイ
蔡潁
サイカン
蔡款
サイキ
蔡機
サイコウ
蔡貢
サイジョウ
蔡条
サイブンシ
蔡文至
サイリン
蔡林
サクユウ
笮融
シイ
〔黄有〕
シイツ
士壱
シカン
士幹
シキ
士徽
シキョウ
士匡
シキン
士廞
シシ
士祗
シシ
士賜
シショウ
士頌
シショウ
士燮
シジン
士仁
シブ
士武
シコウ
史璜
シカン
施寛
サク
施朔
シセイ
施正
シタン
施但
シメイ
施明
シギ
是儀
シジュウ
斯従
シトン
斯敦
シャシュン
車浚
シャジ
射慈
シャエン
謝淵
シャキ
謝姫
シャケイ
謝景
シャケイ
謝煚
シャコウ
謝厷
シャコウ
謝宏
シャサン
謝賛
シャジ
謝慈
シャショウ
謝承
シャスウ
謝崇
シャセイ
謝旌
シャタン
謝譚
シャテイ
謝貞
シャヒ
謝斐
シャフジン
謝夫人
シャボウ
謝勖
シュイ
朱異
シュイ
朱緯
シュイク
朱育
シュエン
朱琬
シュオン
朱恩
シュカン
朱桓
シュキ
朱紀
シュキョ
朱拠
シュキョウ
朱喬
シュコウ
朱晧
シュサイ
朱才
シュシ
朱志
シュセイ
朱成
シュセキ
朱績
シュセン
朱宣
シュゼン
朱然
シュソン
朱損
シュチ
朱治
シュテイ
朱貞
シュバンサイ
朱万歳
シュフジン
朱夫人
シュフ
朱符
シュユウ
朱熊
シュウイ
周異
シュウイ
周遺
シュウイン
周胤
シュウエキ
周奕
シュウガ
周賀
シュウキン
周昕
シュウグ
周喁
シュウケイ
周京
シュウケイ
周景
シュウゴ
周護
シュウコウ
周昴
シュウコク
周谷
シュウシ
周祗
シュウシュン
周峻
シュウジュン
周循
シュウショ
周処
シュウジョウ
周条
シュウショウ
周尚
シュウショウ
周承
シュウショウ
周邵
シュウショウ
周昭
シュウタイ
周泰
シュウチュウ
周忠
シュウチョウ
周朝
シュウホウ
周鳳
シュウホウ
周魴
シュウボツ
周勃
シュウユ
周瑜
シュウオン
習温
シュウシ
習氏
シュウイン
脩允
シュウソク
脩則
シュウシュク
襲粛
ジュンウシキ
淳于式
ジョイツ
徐逸
ジョカイ
徐楷
ジョキ
徐旗
ジョキョウ
徐矯
ジョゲン
徐元
ジョゲン
徐原
ジョコ
徐顧
ジョコン
徐琨
ジョサン
徐粲
ジョシ
徐氏
ジョショウ
徐紹
ジョショウ
徐詳
ジョシン
徐真
ジョセイ
徐盛
ジョソ
徐祚
ジョソウ
徐宗
ジョソン
徐存
ジョチュウ
徐忠
ジョヒョウ
徐彪
ジョフジン
徐夫人
ジョヘイ
徐平
ジョリョウ
徐陵
ジョショウ
舒邵
ジョショウ
徐燮
ジョハクヨウ
舒伯膺
ショカツイツ
諸葛壱
ショカツカク
諸葛恪
ショカツキョウ
諸葛喬
ショカツキン
諸葛瑾
ショカツケン
諸葛建
ショカツシャク
諸葛綽
ショカツショウ
諸葛竦
ショカツセイ
諸葛靚
ショカツチョク
諸葛直
ショカツユウ
諸葛融
ショウキョウ
小喬
ジョウド
仍弩
ショウコウ
尚広
ショウチュウ
邵疇
ショウナン
邵南
ショウショウ
商升
ジョウグ
常倶
ショウリョウオウ
章陵王
ショウイ
焦已
ショウキョウ
焦矯
ショウイツ
蒋壱
ショウエン
蒋延
ショウカン
蒋幹
ショウキュウ
蒋休
ショウキン
蒋欽
ショウコウ
蒋康
ショウサン
蒋纂
ショウシュウ
蒋脩
ショウヒ
蒋秘
ショウリイ
鍾離禕
ショウリイン
鍾離駰
ショウリシュン
鍾離徇
ショウリショ
鍾離緒
ショウリセイ
鍾離盛
ショウリヒ
鍾離斐
ショウリボク
鍾離牧
ジョウユウ
聶友
ジョウジョ
饒助
ジンエキ
任奕
ジンド
任度
シンコン
岑昏
シンエイ
沈瑩
シンコウ
沈珩
シンビン
沈〔目昬〕
シンユウ
沈友
シンソウ
晋宗
シンコウ
秦晃
シンショウ
秦松
シンタン
秦旦
シンハク
秦博
シンロウ
秦狼
ズイシュン
随春
スウタ
鄒他
スウリン
鄒臨
セイキオウ
成紀王
セイトウ
成当
ゼイゲン
芮玄
ゼイチ
芮祉
ゼイリョウ
芮良
セイキョウ
盛匡
セイケン
盛憲
セイセン
盛暹
セイチュウ
盛沖
セイマン
盛曼
セキイ
石偉
セキインサンロウ
石印三郎
セキカン
石幹
セツエイ
薛瑩
セツク
薛珝
セツケン
薛兼
セツソウ
薛綜
セツレイ
薛礼
ゼンイ
全禕
ゼンエキ
全懌
ンキ
全紀
ゼンキ
全寄
ゼンキ
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ゼンギ
全儀
ゼンゴ
全呉
ゼンジュウ
全柔
ゼンショ
全緒
ゼンショウ
全尚
ゼンセイ
全静
ゼンソウ
全琮
ゼンタン
全端
ゼンフジン
全夫人
ゼンホ
単甫
センイオウ
宣威王
センキョウ
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センレン
詹廉
センキン
銭欽
センドウ
銭銅
センハク
銭博
センウタン
鮮于丹
ソザン
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ソモ
祖茂
ソロウ
祖郎
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ソヒ
蘇飛
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宋謙
ソウゴウ
宋豪
ソウジュ
宋寿
ソウテイ
宋定
ソウフコウ
曹不興
ソウホ
曹輔
ソウカ
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ゾウセン
臧宣
ソンアン
孫安
ソンイ
孫怡
ソンイ
孫偉
ソンイ
孫異
ソンイク
孫彧
ソンイツ
孫壱①
ソンイツ
孫壱②
ソンイン
孫胤
ソンエイ
孫英
ソンエキ
孫奕
ソンエツ
孫越
ソンオン
孫恩
ソンカ
孫河
ソンカイ
孫恢
ソンカイ
孫楷
ソンカイ
孫諧
ソンカイ
孫闓
ソンカン
孫奐
ソンカン
孫桓
ソンカン
孫幹
ソンキ
孫希
ソンキ
孫奇
ソンキ
孫基
ソンキ
孫晞
ソンキ
孫規
ソンキ
孫熙①
ソンキ
孫熙②
ソンギ
孫儀
ソンギ
孫誼
ソンキュウ
孫休
ソンキョ
孫拠
ソンキョウ
孫匡
ソンキョウ
孫羌
ソンキョウ
孫恭
ソンキン
孫昕
ソンキン
孫歆
ソンキン
孫瑾
ソンケン
孫建
ソンケン
孫堅
ソンケン
孫権
ソンケン
孫謙①
ソンケン
孫謙②
ソンコウ
孫弘
ソンコウ
孫香
ソンコウ
孫紘
ソンコウ
孫高
ソンコウ
孫皓
ソンコウ
孫皎
ソンコウ
孫暠
ソンコウ
孫興
ソンコウ
孫觥*
ソンサク
孫策
ソンシサイ
孫子才
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孫咨
ソンシャク
孫綽
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ソンシュウ
孫秀
ソンジュツ
孫述
ソンシュン
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ソンシュン
孫俊②
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孫遵
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孫助
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ソンジョウ
孫丞
ソンショウ
孫承
ソンショウ
孫松
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孫邵
ソンショウ
孫昭
ソンショウ
孫紹①
ソンショウ
孫紹②
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孫韶
ソンシン
孫慎
ソンシン
孫震
ソンセイ
孫盛
ソンセイ
孫静
ソンセキ
孫績
ソンタイ
孫泰
ソンタン
孫耽
ソンチョウ
孫超
ソントウ
孫登
ソントク
孫徳
ソンハ
孫覇
ソンビ
孫弥①
ソンビ
孫弥②
ソンビョウ
孫苗
ソンフ
孫布
ソンフン
孫賁
ソンフン
孫奮
ソンホ
孫輔
ソンホウ
孫奉
ソンボウ
孫茂
ソンホウ
孫封
ソンホウ
孫褒*
ソンマン
孫曼
ソンモウ
孫莽*
ソンモク
孫嘿
ソンユ
孫瑜
ソンヨウ
孫燿
ソンヨク
孫翊
ソンリョ
孫旅
ソンリョ
孫慮①
ソンリョ
孫慮②
ソンリョウ
孫亮
ソンリョウ
孫楞
ソンリン
孫綝
ソンリン
孫鄰
ソンロイク
孫魯育
ソンロハン
孫魯班
ソンロウ
孫朗
ソンワ
孫和
ソンワン
孫湾*






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左奕(さえき)

歩闡が反乱を起こしたとき、陸抗は将軍の左奕、吾彦、蔡貢らに命じて西陵に行かせた。

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蔡遺(さいい)

一度、江夏太守だったころ呂蒙の部曲のことで告げ口をしたことがあったが、呂蒙はその件に関しては根に持たず、逆に顧邵が死去したあと、蔡遺は職務を大事にする優れた人物であるとして豫章太守の任を推薦した。

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蔡穎(さいえい)

孫和が太子になると孫和の相談役の一人になり太子の宮廷に仕えていたが、博打を相当好んでいたようで、孫和には間接的に非難されている。

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蔡款(さいかん)

字を文徳(ぶんとく)といい、彭城出身で年若く不遇な境遇にあったときから張承に抜擢される。朝廷や地方での官を歴任すると、清廉にして行動に節操があることから世間にその名をよく知られていた。

後に蔡款は衛尉にまで昇進して中書令の職務にあたり、留侯に封ぜられる。蔡款は国家にとってなくてはならぬ人物となった。

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蔡機(さいき)

蔡款の息子で臨川太守となる。

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蔡貢(さいこう)

歩闡が反乱を起こしたとき、陸抗は将軍の左奕、吾彦、蔡貢らに命じて西陵に行かせた。

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蔡条(さいじょう)

蔡款の息子で孫皓時代に尚書令、太子少傅の位まで昇った。

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蔡文至(さいぶんし)

身分の低い人物であったが、張承にその有能さを称賛された。恐らく蔡款の別の呼び方だと思われる。

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蔡林(さいりん)

諸葛恪が合肥新城を攻めきれず、呉が散々な状況の中で都尉の蔡林はしばしば作戦計画を建議したが、諸葛恪にそれを無視されたため、魏へと逃亡した。

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笮融(さくゆう)

丹陽郡の人で、初め数百人を集めて長江を渡り徐州の陶謙に身を寄せた。陶謙は笮融に広陵、彭城の物資運送の監督をさせたところ傍若無人にふるまい、広陵、下邳、彭城三郡の貢納品を自分の物にしてしまい、資力を蓄えた。

そして大々的に仏教寺院を建設し、銅を鋳て仏像をつくって金粉を塗り、美しい絹の衣服を着せ付けた。その寺院は三千人もの人数を収容できる建物で、人々に経典を読むことを義務付けさせ、郡内や近辺の郡に仏教に心を預ける者には出家を許すと布告して、一般の賦役を免除して寺に人を集めたので遠近より訪れたものは五千戸にも達した。

潅仏会の時には多くの酒食を用意し、数十里にわたって道路に筵を敷き詰めた。見物に着たり酒食を振舞われたりする民衆は二万人にも及んで、莫大な費用となった。

193年、曹操が陶謙を攻撃すると笮融は男女一万と馬三千頭を引き連れて広陵に逃亡、太守の趙昱は彼を賓客の礼で待遇した。これより先、彭城の相の薛禮は陶謙に圧迫されて秣陵に駐屯していた。笮融は繁華な広陵に目をつけて酒宴の席で趙昱を殺した。そして兵を放って大略奪を行い、その品々を積んで広陵に去り、さらに薛禮まで殺した。

その後、笮融は江東に渡り劉繇を頼る。194年、孫策軍が江東に軍を進めてくると、劉繇は笮融に命じてこれを迎えうたせた。しかし、笮融は孫策軍に大敗し陣を固めて完全に防衛に徹する。その後、劉繇は曲阿まで攻め込まれ孫策軍に負けると江東から脱出する。

その後、劉繇は豫章に身を落ち着けたが、笮融はそこで反乱を起こし南昌を襲って朱皓を殺し自立の勢いを示した。背信を怒った劉繇軍を一度破ったものの、次の攻撃で敗北して山中に逃げ込んだ。しかし、名もない土民の手にかかって殺されてしまった。

仏教という宗教を力に傍若無人に暴れた笮融であるが、その力は侮れないものがある。

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士〔黄有〕(しい)

士燮の次弟で士燮の上表により九真太守に任命される。


しかし、その後、兄の士燮が死去すると孫権が交州に勢力を伸ばすべく呂岱を派遣してくる。士燮の息子たちが処刑されると、士〔黄有〕は出頭してきたが、孫権はその死罪を許し官位を剥奪して庶人とした。

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士壱(しいつ)

士燮の弟で、もともと都の督郵であった。刺史の丁宮が朝廷に召抱えられると士壱は心をこめて送別会を行った。すると感動した丁宮は自分が三公に昇進したら必ず士壱を呼ぶと約束をした。

後に、丁宮は三公の一つの司徒となり士壱を呼んだが、士壱が都に着いたときには丁宮はその官を免ぜられていた。しかし、丁宮にかわって司徒になった黄琬にも気に入られ厚く礼遇された。

その後、董卓が反乱を起こし黄琬といがみ合うと、士壱は心を尽くして黄琬のために働いていたため、董卓はそれを憎んで司徒掾の士壱は官に任用してはならぬと布告を出した。そのため、士壱は何年もの間、官位の昇進がなくなり、董卓が関中に都を遷したので士壱は官を棄てて故郷に帰った。

その後、士燮の上表により合浦太守となる。

しかし、その後、兄の士燮が死去すると孫権が交州に勢力を伸ばすべく呂岱を派遣してくる。士燮の息子たちが処刑されると、士壱は出頭してきたが、孫権はその死罪を許し官位を剥奪して庶人とした。

経歴を見ると、士燮に負けず劣らずの大人物である。

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士幹(しかん)

士燮の息子で士徽の弟。呂岱が交州に来ると、兄の士徽と一緒に降伏をしたが、次の日に処刑されて首を斬られてしまう。

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士匡(しきょう)

士壱の息子で中郎将。呂岱と交流があったことから、呂岱には師友従事の官に任じられ、反乱を起こした従兄弟の士徽に罪に服するよう説得するように命令をされる。その際、呂岱は士徽らは郡守の官は失うが他に罰を受けないと保証する。

士匡は呂岱の命令どおりに士徽を説得するが、呂岱は約束を守らずに士徽を斬首する。それを知った士匡は後に出頭するが孫権はその死罪を許し、官位を剥奪して庶人とした。

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士廞(しきん)

士燮の息子で、士燮が孫権に服従した証として孫権に送られ人質となった。後に士燮が死去して孫権が呂岱に士徽らを征伐させると士廞は官位を剥奪されて庶人とされた。

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士祗(しし)

士徽の兄で呂岱が交州に来ると士徽と共に呂岱に降伏するも、次の日に斬首される。

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士賜(しし)

士燮の父親で桓帝の時代に日南太守となる。士燮の6代前の祖先が交州に移っており、士家は交州ではそれなりの権力者であったかもしれない。

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士頌(ししょう)

士徽の弟で呂岱が交州に来ると士徽と共に呂岱に降伏するも、次の日に斬首される。

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士仁(しじん)

字は君義といい、広陽郡の人。

元々は劉備の配下で公安に駐留して関羽の統括下にいた。219年、孫呉軍が関羽討伐軍を挙げると呂蒙は関羽の虚に乗じて兵を進め、虞翻に命じて士仁に降伏を説得させた。士仁は進退きわまったと知って涙を流して開城した。

呂蒙は虞翻の策に従って士仁を引き連れて南郡に進み、士仁の姿を見せると糜芳も降伏した。

三国志演義では傅士仁としても知られる。

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士武(しぶ)

士燮の弟で、士燮の上表により南海太守となる。士燮の存命中、交州では栄華を極めていた士一族ではあるが士武は早世だったようである。

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史璜(しこう)

蒼梧太守で、史璜が死ぬと劉表は交州を手に入れようと呉巨を派遣した。

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施寛(しかん)

無難の督で、諸葛恪が孫峻に誅殺されると、施寛は命を受け、施績、孫壱、全煕らの軍を動かして息子の諸葛融を捕らえるべく行動した。

その後、孫峻が死ぬと呂拠と滕胤が孫淋に反旗を翻した為、詔により孫憲、丁奉と共に水軍でもって呂拠を江都で迎えうった。

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施朔(しさく)

孫休時代の武衛士で、孫休に孫綝が謀反を企てている証拠があるので孫綝を誅殺するように助言する。

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施正(しせい)

典軍で孫綝に孫亮を廃した後は、孫休を招いて帝位に即けるのが良いと意見を述べ、孫綝はその意見を取り入れた。

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施但(したん)

永安の山賊で、数千人の徒党を集めると、孫皓の異母弟である永安侯の孫謙を脅迫して取り込み、自分たちの集団の頭領とし、孫皓の代わりに皇帝に立てようと企てた。

その後、鳥程まで進むと、施但は孫皓の父親の孫和の墓陵にあった埋葬品を強奪し、更に建業に向かった。

その噂を聞き、更に徒党の人数は増え、建業に着いた頃には一万人余りになっていた。それだけ孫皓の悪政に苦しんでいた人が多かったということだろう。

施但は吉日を選び使者を立てて、孫謙の命だとして丁固と諸葛靚に詔を送った。しかし、丁固と諸葛靚は軍を出して打ち破ると、施但らは孫謙を放置して逃走した。

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施明(しめい)

孫権時代に官物の盗難が発生し、無難軍の兵士である施明に疑いがかかった。

施明は勇猛な性格で、ひどい取調べを受けても死を賭けて決して口を割ろうとしなかった。すると孫権は陳表が兵士の心をよく把握してることを思い出し、全て陳表に任せた。

陳表は早速、施明の手かせ足かせを外し、風呂に入らせ、立派な酒食用意して施明を心から喜ばせると白状するように誘った。すると施明は陳表に仲間たちの名前を白状した。

孫権は陳表が施明を騙したと勘違いされないように特別に施明の罪を許し、残りの一味は誅殺した。

施明は、陳表の待遇に心を動かされて以後、進んで行いを改めて立派な行動をするようになり、つには勇猛な武将として位は将軍にまで昇った。

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是儀(しぎ)

是儀は字を子羽(しう)といい、本姓は氏であった。

初めは県吏となり、後に北国の吏になったが、その頃、北国の相であった孔融は氏儀をからかって、氏は民の上を欠いたものだ。改めたほうが良かろうと言うと、氏儀は姓を是に変えた。

その後、是儀は国の情勢が悪くなると劉繇を頼って江東に移った。だが、その劉繇が孫策に敗れると是儀は会稽に移った。孫策が死去すると孫権が後を継ぎ、是儀は手厚く迎えられた。是儀は孫権の下で、機密事項の処理に当たり、騎都尉に任じられた。

呂蒙が関羽討伐を提案すると孫権はその可否を是儀に問うた。是儀はこの計略を善しとして孫権に実行を勧めた。そして自ら関羽の討伐に加わり、戦後、功によって忠義校尉の官を授けられた。

荊州を取り戻し、武昌に都が置かれると、是儀は裨将軍を授けられ後に都亭侯に封じられ侍中の役を代行した。さらに孫権は兵を与えようとしたが是儀は自分はその器ではないと固辞して受けなかった。

228年、孫権は是儀に命じて魏との国境の皖城を守る劉邵のもとで魏将曹休を誘き出す作戦を練らせた。その結果、周魴は呉に背いたとみせかけて巧みに曹休の軍を引っ張り出すことに成功した。孫権は自ら皖口まで進み、陸遜は諸将を指揮して石亭において曹休の軍を徹底的に破った。そして、この功により是儀は偏将軍に進み宮廷に入って尚書の事務や訴訟事務の処理にあたり、さらには皇族の子弟の学問係になった。

229年、孫権は皇帝となり、建業に遷都した。太子の孫登は武昌を鎮守し、是儀はその補佐役となった。孫登は是儀を深く敬ってその意見に従った。そして都卿侯に爵位を進められた。その後、孫登に従って建業に戻ると、再び侍中、中執法に任じられ、諸官署の間の問題をとりさばき、訴訟事務の処理をした。

是儀は呂壱が刁嘉に濡れ衣を着せると、それは呂壱の誣告だと言って投獄されたが決して屈しなかった。やがて事実が分かると是儀も刁嘉も許された。

234年、諸葛亮が亡くなると、是儀は命じられて蜀に行き、両国の友好関係をより固めてきた。孫権の意に叶って尚書僕射を授けられた。

孫登が死去すると二宮の変が起きてしまう。是儀は当時、孫覇の守り役だったが、深く憂えて太子である孫和と魯王である孫覇の待遇に差をつけるのが上下の秩序を正す在り方だと何度も上書した。そして、諫言を重ねた。二宮の変は最終的に多くの犠牲者を出して孫和は廃され、孫覇は自殺を命じられたが是儀は何の咎めも無かった。

是儀は職務に励み、人には尊敬の念をもって接し、家産の経営を顧みなかった。家屋も衣服も食事も全て粗末だった。ある時、孫権が宮殿から是儀の家の方角を眺めていると大きな家が目に付いた。側近に尋ねると是儀の家だと言う。しかし孫権は是儀は節制している生活をしているからそうではあるまいと言い、調べさせると他人の家であった。

是儀は数十年間、国家の職務に当たってきたが一度も過ちを犯さなかったと伝えられる。是儀は病気が重くなると、質素な葬儀を執り行うように遺言を残し、八十一で死去した。

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斯従(しじゅう)

斯従は剡県の役人であり、県内の豪族でもあり任侠を好んで悪事を働いていた。

賀斉が剡県の長の代行をつとめたとき、斯従を取り締まろうとしたが、主簿の役人が斯従を処分すると山越が報復に来るので止めるように諌めた。するとそれを聞いた賀斉は腹を立て、ただちに斯従を斬った。

斯従の一味は千人以上で報復しにきたが、賀斉は逆にこの一味を散々に打ち破った。

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斯敦(しとん)

呉寧出身の人物で父親に代わって死罪になった立派な人物として朱育が紹介している。

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車浚(しゃしゅん)

孫皓の恐政の犠牲者の一人で、会稽の太守であったが、税金を上納していないということで首を斬られ、その首は諸郡のあいだをまわされた。

江表伝には、車浚とは公職にあって清廉で実直な人物で、彼の治める都が旱魃の飢饉にみまわれ民衆の生活の糧がなくなったため、車浚は上表して救急用の食料を貸し与えて欲しいと願い出たのだが孫皓は車浚は民衆と結託しようとしているのではないかと疑い斬首したと書かれている。

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射慈(しゃじ)

中書郎で孫休に学問を教えた。

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謝淵(しゃえん)

字を休徳(きゅうとく)といい、若い頃から徳のある行動をしていた。

自ら鋤や鍬を持って農業に従事していたが、そのような環境に悲観することなく将来の志を高く持ち、そうした彼の態度は人々に知られるようになり考廉に推挙されるとやがて建武将軍にまで昇進した。

謝淵は人物を見出すことに熱心で、駱統の息子の駱秀が一族に謗りを受け、人々の評判も悪くなると、誰も駱秀の潔白を証明するものがいなかった。謝淵はそれを聞くと、嘆息して、公緒(駱統)どのが若くして死なれたとき、同盟国の者までがその死を悲しんだ。聞けばその息子の駱秀殿は志のある行動と立派な議論の才を備えておられながら、一族の連中の勝手な謗りをうけておられるとのことだ。名のある方が助けられると思っていたのに皆、期待外れであると言った。

その後、駱秀は無実であることが明らかになり、それ以降、誰もその行動に非難せずついに駱秀は名の通った人物となったが、それは謝淵の助けた影響が大きかった。

謝淵は政策にも優れていたようであり、かれは時務についての対策を上陳し、国家が中心となって経済活動を盛んにするため、制度の改革を行ってほしいと出るなど積極的であった。

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謝姫(しゃき)

孫覇の母親で、孫皓が即位すると、孫皓の父親である孫和と仲が悪かったことを取り上げて会稽郡の鳥傷県に強制移住させた。

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謝景(しゃけい)

字は叔発(しゅくはつ)といい、南陽出身で張承に年若く不遇な境遇の中から抜擢され豫章太守にまでなった。郡の太守として治績をあげ、役人も民衆も彼を褒め称えて、顧邵(前太守)につぐ立派な人物であると評判だった。

孫権が皇位に就き、孫登が太子となると、謝景は孫登の賓客に任ぜられた。謝景は胡琮に言葉によって紛糾した問題を解決できる人物と評されたが、羊衜には口はうまいが浮ついていると酷評された。

孫登は死ぬ間際に上疏したとき、謝景についてはよく切れる頭脳をもって的確な判断を下し、宮廷にあっては主君と心腹としての勤めをまかせるべく、地方に出ては主君の手足として働きを示すことが出来ると言われている。

謝景は豫章太守在官のまま死去した。

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謝煚(しゃけい)

孫権の妻である謝夫人の父親で、漢の朝廷の尚書令や徐県の令を勤めた。謝煚は若いときから仁や孝にもとづいて行動し、ものごとを深く見通し、優れた才能があったと書かれている。

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謝厷(しゃこう)

謝厷は謝淵と、それぞれに時務についての対策を上陳し、国家が中心となって経済活動を盛んにするため、制度改革を行ってほしいと願い出た。

また謝厷は呂壱が顧雍に濡れ衣を着せ軟禁すると、顧雍を助けるために、顧雍を処刑すると呂壱の天敵である潘濬が顧雍の跡を継ぎ逆に大変になると助言をした。すると呂壱は顧雍の件はうやむやにした。

呉歴には謝厷は才気があって弁が立ち、未来に対してちゃんとした見通しを持っていたと称賛している。


なんとなくだが、謝淵と一緒に書かれているため兄弟か親戚ではないだろうか?と思うのだが・・・

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謝宏(しゃこう)

孫権に命令され句麗王の宮への使者となり単于の称号を与え、服飾品や珍宝を下賜しようとした。しかし宮は魏から呉の使者を殺すように命令をされていた。しかし、謝宏らはそれに気づいており、宮の使者が来るとその場でその使者を縛り人質とした。

宮はこうした事態になったことを謝罪し馬数百匹を献上した。そうすると謝宏は人質を釈放し、詔書と賜り物とを宮に授けた。

また謝宏は大銭を作れば経済活動が活発になると上陳して大銭を作らせたが不評に終わったようである。

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謝賛(しゃさん)

会稽郡の人で顧譚と等しく名声があったようであるが、正史で書かれているのはそれだけである・・・。

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謝慈(しゃじ)

字を考宗(こうそう)といい、彭城の人で、礼についての議論で人々に知られ、「喪服図」と「変除」とを著して広く世に行われた。

諸葛恪が誅殺された際、孫奮が建業にのりこみ政変の成り行きに乗じようとしたので謝慈がそれを諌止すると殺害されてしまった。

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謝承(しゃしょう)

字を偉平(いへい)といい、博学で見聞が広く、一度見たり知ったりしたことは一生忘れることがなかった。

謝承は孫権の妻である謝夫人の弟で五官郎中に任ぜられ、その後に長沙東部都尉、武陵太守に昇進した。また謝承は後漢書百余巻を著した人物でも知られている。

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謝崇(しゃすう)

謝承の息子で揚威将軍となり、名の知られた人物であった。

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謝旌(しゃせい)

陸遜のもとで大活躍した武将。

蜀との戦いで陸遜に李異と共に攻撃を命じられると、歩兵を指揮して要地を押さえ、一気に詹晏を打ち破り、陳鳳を生け捕りにした。その後、更に房陵太守の鄧輔と南郷太守の郭睦にも攻撃をかけこれを大いに破った。

その後、文布と鄧凱が異民族の兵士数千人をその指揮下に収め蜀に近づくと、陸遜は再び謝旌を指揮して文布と鄧凱を打ち破った。

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謝譚(しゃたん)

吾粲に目をつけられた有能な人物であったらしいが、無位無官であったため、吾粲が功曹の職につけようとしても病気を理由で出てこなかった。

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謝貞(しゃてい)

謝煚の弟で法律を正しく執行し、学問を好み正義を尊んだ。考廉に推挙され、建昌県の長となって在任のまま死去した。

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謝斐(しゃひ)

豫章の太守で、虞翻が聶友の才能を高く評価していたので謝斐に聶友を功曹に任ずるように勧めた。謝斐は先任の功曹に頼んで職を譲らせた。

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謝夫人(しゃふじん)

孫権の謝夫人は会稽郡の山陰の人で、父の謝煚は漢の尚書郎や徐県の令を務めた。孫権の母である呉夫人は彼のために妃として迎え入れ、謝夫人は寵愛された。

後に孫権は叔母の孫に当たる、徐夫人を妻とすると謝夫人をその下につけようとした。謝夫人はそれを拒んだため、次第に孫権の寵愛は薄れ、失望した夫人は早世した。

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謝勖(しゃぼう)

謝承の息子で呉郡太守となったが、名の知られた人物であった。

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朱異(しゅい)

字を季文といい、父である朱桓が高官であったので郎に任じられ、後に騎都尉となって父に代わってその兵を領した。

241年、朱異は朱然に随って樊城の攻撃に加わってその外城を破った。また魏の廬江太守文欽が六安を中心に配置した七つの砦を落とし、揚武将軍に昇進した。孫権は朱異と攻城戦を論じて、その言葉に感じ入った。そして朱異の叔父の驃騎将軍朱拠に、私はもとより季文の豪胆さを知っていたが、彼と会って噂に聞く以上の人物だと知った、と語った。

250年、文欽は偽って呉に降伏すると朱異に密書を送り、救援の兵を差し向けて欲しいと言って来た。朱異は文欽の本心でないとすぐに見抜いたが、孫権に命じられて呂拠とともに廬江に向かった。果たして文欽は来なかった。

252年、朱異は鎮南将軍に昇進した。この年、孫権が死去したため魏が侵攻してくる。朱異は水軍を率いて敵の浮橋を破壊し、敵を大敗させた。

257年、諸葛誕は司馬氏の専横を許さず、寿春で挙兵し息子の諸葛靚を使者兼人質として送ると朱異は大都督に任じられ三万の兵を率いて寿春に進軍した。そして安豊に陣を布いて、外から魏軍を攻撃したが、魏の州泰に敗れて二千の兵を失う。一方、大将の孫綝は自ら兵を率いて朱異に丁奉、黎斐ら五万の兵を率いさせ再び魏軍を攻撃させた。朱異は黎漿に駐屯し決死の兵六千を募り、部下の任度、張震はそれを率いて対岸に砦を作った。

しかし、この陣は石苞、州泰らに破られ、別に五木城を包囲していた朱異も敗れた。さらに悪いことに、都陸において兵糧が魏の奇襲にあい全て焼かれてしまう。孫綝は三万の兵を与え、三度、朱異に攻撃を命じたが朱異はこれを拒んだために殺害された。

呉書によると、朱異が帰国すると孫綝が会見を申しいれたが、不測の事態が起こることを心配した陸抗はそれを止めた。しかし、朱異は孫綝と親族関係で問題は起こるまいと判断し会見に臨むと、捕らえられ絞め殺されてしまった。

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朱緯(しゅい)

朱治の息子で若死にをしたと書かれているのみである。

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朱育(しゅいく)

山陰出身で特殊文字作りを好み、特別な意味内容のものがあると、そのものの形や観念をかたどった特殊文字を千以上も作り出した。

朱育は朝廷に仕え、つねに宮中の中枢部にあって東観令(図書寮の長官)となり、清河太守を歴任し、侍中の位を加えられた。朱育は占いなどにも秀でており、文芸百般に通じていた。

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朱琬(しゅえん、しゅわん)

朱治の孫で朱才の息子。父親の爵位を引き継いで武将となり、鎮西将軍にまで昇進した。

歩闡が反乱を起こすと、陸抗に命じられ晋将の徐胤の動きを封じ込めた。

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朱桓(しゅかん)

字を休穆(きゅうぼく)といい、朱拠と同じく呉の四姓の一つに数えられる名門の出身である。孫権が将軍になると朱桓は余姚県の長となった。赴任すると県の人々は基金と疫病で苦しんでいた。朱桓は巧みに対応して県民の困難を取り除いた。盪寇校尉となって丹楊、鄱陽両郡の山越を討伐、瞬く間に平定して裨将軍、新城亭侯となる。後に周泰の後を継いで濡須の督に任じられた。

222年、曹仁は濡須を攻撃した。翌年曹仁は濡須の中州を奪って布陣しようと考えて、呉を撹乱させるため、そこから東北約40キロの所にある羨渓を攻撃するという偽情報を流した。朱桓は手勢を割いて羨渓に向かわせた。そこに、曹仁の兵は濡須から七十里の所まで迫っている、という知らせが届く。

朱桓は急いで兵を戻したが、その前に曹仁の軍が到着した。朱桓の手元の兵を5千に過ぎなかった。慌てふためく武将たちに向かって朱桓は、“およそ両軍が対戦する場合、勝敗は将軍の能力いかんにかかっていて、兵の多寡は問題ではない。諸君が聞き及ぶ曹仁の用兵と私のそれとどちらが勝っていると思うか。我々は天険に守られた城に拠り、万全の態勢で疲れた兵を待ち受けているのだ。曹丕自ら来たとて憂えるに足りない。まして曹仁ごときに何が出来ようか。”と言った。

朱桓は鳴りを潜めて敵を誘う。曹仁はこれに引っ掛かり、曹泰に濡須を攻撃させ、その一方、将軍常雕に命じて諸葛虔、王双らと共に中州を襲わせた。そして自分は1万の兵を率いて橐皋に留まって後備えとなる。

朱桓は渡江に用いた曹泰の船を部下たちに拿捕させ、自分は曹泰の陣営を焼き討ちした。常雕は首を奪われ、王双は虜になった。曹仁は兵を引き、落胆の余り、その月の内に亡くなった。朱桓は功によって奮武将軍に任じられた。

228年、鄱陽太守周魴の偽降の計にはまった曹休が10万の兵を率いて皖城まで進出してきた時、朱桓は全琮とともに左右の督となり、陸遜の指揮の下、各々三万の兵で攻撃して大勝した。

237年、全琮は六安を攻撃したが得るところがなかったので、諸将を手分けして敵の不意を撃とうと主張した。朱桓はもともと気位が高く、人から指図されるのを恥としていたので、全琮に見えてその理由を問うた。そのうちに激論となり、全琮は苦し紛れに、陛下が督として派遣なされた胡綜の意向なのだと言い逃れした。

朱桓は胡綜が何を言うかといよいよ怒りを募らせ、陣に戻ると胡綜を呼び寄せた。胡綜が来ると、側近の者に俺が奴に手を下すからお前らは隠れておれ、と命じたが、側近の一人が抜け出して胡綜に急を告げたため胡綜は逃げ出した。それを知った朱桓はその者を斬り殺し、これを諌めた佐軍まで殺害した。

そして気が狂ったことを理由に建業に行って治療することになった。孫権は彼のこれまでの功績と能力を惜しんで罰せず、医師に看護させた。数か月経って病が癒え朱桓は濡須に戻ることになる。孫権は見送って“私は君とともに天下を定めたいからこそ、五万の兵を授けて方面軍の司令官に任じ、事に当たってもらっているのだ。君の病は再発しないだろう”と慰めた。

239年、朱桓は62歳の若さで亡くなった。

朱桓は驚くべき記憶力を持っていたと言われ、人と一度会うとその人のことを数十年も忘れず、自分の部曲は一万人いたが、兵士はもとより、彼らの妻子の顔まですべて覚えていたという。そして、彼らの生活の面倒をよく見、また血縁の者を厚く援助して俸禄や財産を皆分かち与えた。こんな具合だったので彼が重病と聞くと軍を挙げて憂いに沈んだという。

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朱紀(しゅき)

朱治の息子で、父親の死後、孫策の娘を妻としてもらい、校尉に任ぜられ兵をあずかった。

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朱拠(しゅきょ)

字を子範(しはん)といい、呉郡呉県の人である。朱拠は男ぶりがよく、しかも力持ちで、その上、人と議論をするのも得意であった。

当時、選曹尚書の曁艶が欲深くて心が汚い輩に官職を与えることを憎み、善悪をより分けようとすると、天下が定まっていない現在は功績を挙げさせてその過ちを補い、欠点を無視して有用性を取り、清行の人を挙げて、濁行の人を励ますべきであり、もしも性急に彼らの官位を落としたりすれば、後の禍を招きますぞ、と朱拠は意見をしたが曁艶は聞きいれず、結局、身を滅ぼしてしまった。

孫権は当時の将軍たちを不甲斐なさを嘆き、呂蒙や張温のことを追懐したが、朱拠が文武の才を兼ねているので呂蒙らの後を継がせられると考えていた。そこで建業校尉に任じ、兵を領して湖熟に駐屯させた。

229年、孫権は都を建業に遷し、朱拠を呼び寄せて、娘の孫魯育を娶らせた。そして彼を左将軍に任じ、雲陽侯に封じた。朱拠は謙虚に有能の士に接し、財を軽んじて人々を救助したので禄賜は豊かだったが、生活は楽ではなかった。

236年、一つが五百銭に相当する大銭が作られたので、朱拠の部下がそれを取りに行くと、工人の王遂が騙して自分の物にしてしまった。中書典校の呂壱は、実は朱拠が横領したと思い、その部下に拷問をくわえ、打ち殺した。朱拠はそれを哀れみ手厚く葬った。しかし、朱拠のこの行為を部下が身代わりになったためと呂壱は考え、黒幕は朱拠だと孫権に訴えた。その後、朱拠は孫権hじゃ何度も詰問したが朱拠は弁明をせず黙りとおした。この県に関しては後に劉助の推理によって無実が明かされた。

246年、朱拠は驃騎将軍に昇進した。その後、二宮の変が起きると朱拠は太子である孫和を擁護した。朱拠の言葉は懇切で、太子を守るためには死も避けない意気込みが表情に出ていた。孫権はそれを煩わしく思い、彼に殿中で百叩きの罰を与えた。

その上、250年、孫権は官職を剥奪して新都郡の丞に左遷することにした。朱拠がまだ任地に着かないうちに、中書令孫弘は朱拠を讒言し、孫権が病で臥せていることを良いことに詔書を偽装して自殺を命じた。

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朱喬(しゅきょう)

歩闡が裏切り、それに合わせて羊祜筆頭に晋軍が攻めてくると、将軍の朱喬と営都督の兪賛は呉に叛いて晋軍に陣内に逃げ込んだ。

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朱皓(しゅこう)

劉繇が孫策に敗れると許劭の進言を受けて豫章の太守である朱皓を頼った。そして、部下の笮融を朱皓のもとに送ったが、逆にその笮融は朱皓を謀殺して郡の支配権を握った。

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朱才(しゅさい)

字を君業(くんぎょう)といい、朱治の息子である。

朱才は物事に聡明な人物で、騎射に長けていたことから孫権は彼を特別にかわいがって、遊楽にはいつも付き従わせていた。

朱才は父親の朱治が要職にあるということで、若くして武衛都尉に任ぜられ、兵士たちを授かって征伐に参加し、しばしば戦功を立てた。

しかし故郷のものたちは、朱才は若くして高貴な地位についたにも関わらず十分に故郷の者をに目をかけていないと不満を漏らすと、朱才は、私は武将に任ぜられたとき、馬に跨って敵を踏みしだき、進んで白刃を犯せば、名声をあげられるものと考えた。このように郷里のものたちが私の一挙一道に注目していたとは思いもかけぬことであったと嘆いた。

それ以後は、いっそうへりくだった態度を取り、彼のもとに集まった食客たちのために十分な心遣いをし、財貨をおしみなく正しい道のために用いて、人を援助してもその見返りは求めず、更に兵法を深く学んだ。

父親の朱治が死去すると父親の爵位を引き継いで偏将軍に昇進し、朱才の名声が遠近に聞こえるようになったところで病気のため死去した。その後、朱才の兵は朱績に引き継がれた。

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朱志(しゅし)

牙門将で馬茂と共に謀をめぐらせ、孫権を暗殺しようとしたが、事が発覚すると、関係者の一族は皆殺しとなった。

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朱成(しゅせい)

諸葛誕が司馬家の専横に怒り反乱を起こすことを決心すると、朱成を派遣し、加えて息子の諸葛靚と長吏の呉網を人質として送った。

朱成はそのまま、呉に残ったか諸葛誕の元に戻ったかは定かではない。

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朱績(しゅせき)

字を公緒(こうしょ)といい、朱然の息子である。

父の朱然が高位を授けられていた恩恵によって郎となり、後に建忠校尉を与えられた。叔父の朱才の死後はその兵を預かり、太常の潘濬の配下として武陵の五谿蛮を討伐し、その肝の太さを称賛された。

二宮の変が起きると、孫和と孫覇の確執が激しくなり、自分の派閥を強化したい孫覇はある日、朱績の役所に訪れて朱績と同座すると、五分五分の親しい関係を結ぼうとした。しかし、朱績は地に下りて起立し、畏れ多いと辞退して与しなかった。

朱然の没後、平魏将軍、楽郷督に任じられる。250年、魏の征南将軍王昶が江陵を攻撃したが落とせず軍を返した。朱績はこれを追おうとしたが兵力が足りなかったので、奮威将軍諸葛融に手紙を送り、援軍を依頼した。諸葛融が同意したので朱績は王昶を追い、紀南で緒戦に勝利を得た。しかし諸葛融が兵を進めてこなかった為、次第に形勢が不利となり魏軍を討ち逃がした。

孫権は朱績の功績を評価すると同時に諸葛融の失態を激怒した。しかし兄の諸葛恪が重臣だったため、諸葛融の官職は奪われないままに置かれた。元来、諸葛恪、融の兄弟と朱績は仲が良くなかったが、この件以降、益々深刻になった。

252年、朱績は鎮東将軍に昇進した。この年末の東興の大勝に気を良くした諸葛恪は、翌年の春、諸将の反対を押し切って合肥を攻撃した。このとき、諸葛恪は朱績に協力を要請しておきながら朱績を半州に留まらせたままにし、弟の諸葛融にその任務を兼ねさせた。この侵攻が失敗に終わると諸葛恪は帰国後、孫峻に誅殺された。

朱績は孫綝が実権を握ると国内が動揺したため、この間に魏に侵攻されることを恐れ、極秘のうちに蜀に呉が魏に併呑されないように牽制を頼んでいる。

朱績は楽郷に戻ると、257年には驃騎将軍に任じられた。翌年に上大将軍、都護督として巴丘からその上流の西陵までの守備を委ねられ、264年には左大司馬を授けられた。

父の朱然は義父の朱治の喪が明けたとき、本性の施氏に戻りたいと請うたことがあったが、孫権は許さなかった。しかし、朱績は孫亮に上表すると、このとき初めて施氏に戻ることを許された。朱然は270年に亡くなった。

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朱宣(しゅせん)

朱拠の孫で朱熊の子。父祖たちの功績を認めて孫休は朱宣に雲陽公の爵位を継がせ、公主を妻として賜った。孫皓の時代、朱宣は驃騎将軍まで昇進した。

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朱然(しゅぜん)

字を義封(ぎほう)といい、丹陽郡故鄣の人。

朱然は朱治の姉の子で、元々は施氏であった。しかし朱治に子供がいなかったため、朱治は孫策に願い出て当時十三歳だった朱然を養子にし、跡継ぎとした。200年、孫権が江東の勢力下にいれると、孫権は自分と同年齢で一緒に勉学した朱然を寵愛し、余姚県の県長にした。実績を挙げたため、朱然はやがて臨川郡の太守となり、二千人の兵士を率いることになった。少数民族山越の討伐に当たり、一ヶ月ほどの間にこれを平定した。212年、曹操が濡須に攻撃をかけたときにはその防備に当たり、偏将軍に任じられている。

219年、関羽征伐戦では朱然は潘璋とともに別軍を率いて、臨沮まで軍を進めて関羽を捕らえた。222年、劉備がその復讐のために宜都に進攻した際にはその先鋒を破り、さらに退路を遮断したため劉備は大敗し、白帝城に退却した。この戦功により朱然は征北将軍に昇進した。

孫権が劉備を破った年、曹丕は曹真、夏侯尚、張郃らに命じて朱然が籠る江陵を攻撃させた。城中では疫病が発生し、戦えるものは僅かに五千名であった。曹真らは土山を築き、やぐらを立てて、矢を雨のように射掛けた。一方は地下道を掘り、地中から攻撃しようと図ったが、朱然は恐れる色を見せず、機を見て反撃し敵陣を二つ陥れている。六ヶ月もの間、朱然は踏ん張り、ついに敵を撃退した。この攻防戦によって朱然の名は敵国まで鳴り響き、朱然は当陽侯に封じられた。

234年、諸葛亮は斜谷から五丈原に出て司馬懿と対峙した。呉は蜀と共同して大挙して軍事攻勢を起こす。孫権は自ら合肥に向かい、朱然と全琮はそれぞれ左右の督となり指揮を執った。しかし軍吏や兵士の間に疫病が流行し、魏の救援部隊が来る動きがあったため、孫権は退いた。呉が撤退した報せを聞いた諸葛亮の落胆は相当であった。

呂蒙が病になり死期が近づいたとき、孫権に呂蒙に代わる者は誰か尋ねられると、呂蒙は、朱然は胆力、実行力の点で十二分ですから、彼こそ相応しいと思いますと答えている。朱然は身長七尺にも満たない小男だった。朱然の性格はさっぱりして、日々の生活も清潔で武具以外の物は全て質素であった。危機に臨んでも慌てない点は誰にも真似できなかった。平穏な時でも朝夕ごとに非常呼集し、備えを怠らなかったので戦うたびに勝利を得た。

245年、陸遜が死去すると、功臣、名将の中で生存しているものは朱然一人となったため、礼遇の厚さは他に類を見ないくらいだった。朱然の病が重くなると、孫権は病状を上奏する使者を自ら引見して様子を尋ね、薬や食べ物を必ず送り届けた。創業の功臣が病んだとき、主君から心を配られたという点では、朱然は呂蒙、凌統に次ぐ物であった。朱然は68歳で死去した。

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朱損(しゅそん)

朱拠の息子で、孫綝の妹の妻を娶っていた。

孫亮が何故、孫魯育が殺害されたか姉の孫魯班に問うと、孫魯班は私は本当のことを知らず、全ては朱拠の二人の息子である朱熊と朱損とが申したところによるのです、と諫言した為、孫亮は朱損を殺したと正史三国志には書かれている。

しかし、この記述には矛盾することがあり、この件に関しては孫魯班伝を参照してもらいたい。恐らくであるが、孫綝と孫亮の争いに不幸にも孫綝と親族関係にあったために命を狙われたと思われる。

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朱治(しゅち)

字を君理(くんり)といい、丹陽郡故鄣県の人。

朱治は呉将としての経歴は古く、程普、黄蓋、韓当と並んで孫堅以来の宿将である。県吏の時に考廉に推挙され、やがて州に仕えたが、後に自分より一歳年上の孫堅の部下となり、188年には長沙、零陵、桂陽三郡の討伐戦に参加して功績をたてた。191年には孫堅に従って董卓を陽人で破り、別働隊として徐州の牧である陶謙を助けて黄巾賊の討伐に力戦した。

孫堅が戦死すると、朱治は孫策をたすけて袁術に身を寄せたが、後に袁術は政治能力も徳義も欠けていると見て取って、孫策に江東の地を平定するように勧めた。このころ、漢朝から揚州刺史を命じられた劉繇は曲阿にいたが、劉繇は孫策が袁術と手を組んでいると思い、孫策との間に反目が生じた。

孫策の家族は曲阿にいたため、朱治は人を送って、呉夫人と孫権兄弟を歴陽に迎え取らせた。途中、危害が及ばないよう朱治は周到に配慮した。195年、朱治は銭唐から呉郡に進出しようとし、行く手を阻んだ呉郡太守許貢を大敗させ、太守の職務に当たった。

196年、朱治は当時15歳だった孫権を考廉に推挙し、孫策の死後は張昭とともに孫権を守り立てた。202年、孫権は上表して朱治を呉郡太守とし、ヒ陵など四県を奉邑として与えた。朱治は山越など異民族を討伐して東南の地域を平定して、また黄巾の残党をあるいは虜にし、あるいは斬ってヒ陵侯に封じられた。翌年、安国将軍に任じられ郷里の故鄣に移封された。孫権は父以来の旧将である朱治を厚遇し、朱治が進見する際はいつも自ら出迎えて互いに拝礼を交わした。朱治への贈り物は常に他の者に比べて一段と厚かった。

孫堅以来の旧将朱治にとって、孫氏一族は身内のように感じた。折に触れては忠告した。孫権の弟の孫翊には、性急で自分勝手な行為を改めるように教え諭した。また、孫権の従兄弟の豫章太守孫賁の娘は曹操の息子に嫁いでいた。荊州を破った曹操の威が南方を震わせるようになると、孫賁はおそれて子を人質に差し出そうとした。だが、朱治は懇々と孫賁を説得して人質を送らせなかった。

当時、丹陽郡の奥地は服従を拒む賊が多かった。年老いて故郷が恋しくなった朱治は願い出て故郷に軍を駐屯して山越賊の討伐に従事した。224年、69歳で死去した。

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朱貞(しゅてい)

兼符節令で馬茂と共に謀をめぐらせ、孫権を暗殺しようとしたが、事が発覚すると、関係者の一族は皆殺しとなった。

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朱万歳(しゅばんさい)

朱治の息子で早世した。

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朱夫人(しゅふじん)

驃騎将軍朱拠と孫魯育の間に生まれた。そして、孫権は彼女を孫休の妃とした。つまり、孫休は姪を妃にしたことになり、識者から非難された。

孫魯育と言えば、二宮の変にて姉の諫言により殺害されるが、孫休は自分の身に禍が及ぶことを恐れて、魯育の娘である朱夫人を建業の孫峻の所へ送った。二人は手を取り合って泣いて別れたという。しかし、幸いにも孫峻が危害を与えず彼女を送り返した。

その後、孫権の後に孫亮が皇帝となるが孫綝にその座を廃されてしまう。すると、孫休が立てられ皇帝の座に付いた。

262年、朱夫人は皇后にたてられ、孫休が死去すると、朱夫人は皇太后になった。264年、孫皓が即位すると位を落とされて景皇后とされ、265年、孫皓から迫害を受け自殺をした。葬儀は宛内の小さな建物で行われ、人々はその死が病によるものでないことを知って悲しみ悼んだ。

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朱符(しゅふ)

会稽出身の人物で士燮が交州に勢力をつける前の交州刺史をしていた。

しかし、同郷の知り合いを大々的に用いて、彼らを分けてそれぞれの土地の長官にさせ、民衆を侵害し虐待し、厳しい課税を行った。そのため、不服住民たちが反乱を起こしたが、朱符は逃亡して船で海に浮かびうろうろと彷徨っているうちに死亡した。

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朱熊(しゅゆう)

朱拠の息子で虎林の督

孫亮が何故、孫魯育が殺害されたか姉の孫魯班に問うと、孫魯班は私は本当のことを知らず、全ては朱拠の二人の息子である朱熊と朱損とが申したところによるのです、と諫言した為、孫亮は丁奉に命じて虎林で朱熊を殺したと書かれている。

しかし、この記述には矛盾することがあり、この件に関しては孫魯班伝を参照してもらいたい。彼は不幸にも孫綝と孫亮の争いに巻き込まれ命を落とした。

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周異(しゅうい)

周瑜の父で洛陽県の令であった。

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周遺(しゅうい)

古くからの不服住民で諸葛恪に兵糧攻めをされ、せっぱつまって山から出てきて故抗に捕らえられた。心中では機会をうかがって反乱を起こそうと企てていたと思われたため、故抗は捕縛し諸葛恪の役所に送った。

しかし、諸葛恪は飢えで降参してくる不服住民には手を出すなという命令を出していたため、逆に故抗が斬刑にされた。

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周胤(しゅういん)

周瑜の次男。

はじめは興業都尉に任ぜられ、皇室の女性を妻に娶り、兵千人を授かり公安に駐屯した。その後、都郷侯に封ぜられたが、罪を犯し流刑された。

諸葛瑾と歩隲が連名で過去の周瑜の偉業を再考し、もう一度、周胤に機会を与えるべきだと上表した。孫権は諸葛瑾と歩隲の意見は分かるが、事情もありすぐに従うわけにはいかないと一度却下する。しかし、再度、諸葛瑾と歩隲は上表し、そのごは朱然と全琮も周胤の罪を許して欲しいと上陳したので孫権は許すことを決めた。しかし、ちょうどそのころ、周胤は病気のため死んだ。

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周奕(しゅうえき)

孫休時代の光禄大夫で、孫休に命令され国中を巡って、武将や官吏が清潔な政治を行っているか視察に出かけた。そして彼らの報告に基づいて、地方官たちの昇進と左遷とを命ずる詔が出された。

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周賀(しゅうが)

孫権に命じられ、裴潜と共に海路を取って使者として遼東に行ったが、魏の武将の田豫と交戦し成山で斬られた。

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周昕(しゅうきん)

字を大明(たいめい)といい、若い頃に都にのぼり、大傅の陳蕃に師事して、広く種々の書物を読み、風占いに通じており、災異による未来予知に巧みであった。

太尉の役所に招かれて職務に就き、そこから正式の官に推挙されて高い席次で及第した後、丹楊太守にまで昇進した。

曹操が義兵を起こすと、周昕は何度か合わせて一万人以上の数の兵士を派遣して曹操の征伐を援助した。袁術が淮南に根城をはると、周昕は袁術の残虐性を嫌って交わりを絶った。

すると袁術は丁度その頃、孫堅が死去したために旗下にいた呉景に周昕を攻めることを命じた。呉景は周昕をなかなか落とすことが出来なかったため、民衆に周昕の命令に従ったものは全て処刑するとのふれを出すと、周昕は、私は不徳であるにしても、民衆たちに何の罪があるのだ、と言いそのまま兵士を解散されると、故郷の郡に帰った。

だが、その後は王郎軍に参加し、孫策が攻めてくると敗北し首を斬られてしまった。

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周喁(しゅうぐ)

字を仁明(じんめい)といい、周昕の弟である。

曹操が義兵を挙げたとき、曹操は人を送って周喁を自分の軍に加わるように招かせた。周喁は直ちに軍勢を集めて二千名の兵と共に行くと、曹操の下で征伐に従い、軍師に任ぜられた。

その後、自分の勢力拡大を狙った袁紹は周喁を豫州刺史に任じ、周喁によって豫州の勢力を奪い取ろうとしたようである。

袁紹のその行動を知った孫堅は今まで義軍として仲間として漢王朝のために働いていたものが、逆賊が敗れかかると自分勝手な行動をする、と涙ながらに言い、憤った。

その後、周喁は豫州をかけて孫堅と荒らせ甥、たびたび戦闘を交えたが負け続けた。その後、孫堅は死去するが、今度は九江太守であった、次兄の周昴が袁術の攻撃を受けたため、周喁はその救援に赴いた。

しかし、その戦いで破れ、郷里に帰ったところを許貢に殺された。

曹操のもとで軍師にまでなった人物である。兄の周昕と共にそれなりの人物であったようにも感じるが、孫堅にも袁術にも負け続けたところをみると戦は弱かったのかもしれない。

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周京(しゅうけい)

士燮一族が交州に勢力をつける前の、九真太守であった儋萌の義理の父親。

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周景(しゅうけい)

周瑜の従祖父(父の同姓の従兄弟)で、字を仲嚮(ちゅうきょう)という。

若くして清廉で有能だという評判があり、学問に通じているということで考廉に推挙され、交府にまねかれ官職についた。

周景は昇進に昇進をかさねて尚書令となり、太尉の位にまで昇った。

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周護(しゅうご)

周瑜の兄の子である周峻の子供。

周峻が死去すると、全琮は子の周護に後を継がせるように上表したが、孫権は周護とはその性格と行いが陰険であった、彼を用いればかえってその身に禍を招かせるといい、用いらなかった。

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周昴(しゅうこう)

周喁の次兄で九江太守であった。後に袁術の旗下にいた孫賁に攻められ陰陵で打ち破られる。

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周谷(しゅうこく)

孫策が孫呉軍を率いてた頃、孫権は功曹の周谷が帳簿に書き加えをして自分のために金を工面してくれたことから喜んでいたが、実際に自分が国を運営する立場になると、周谷のように帳簿を勝手に書き改めたりする人間は信用できないと任用しなかった。

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周祗(しゅうし)

中郎将で鄱陽において徴兵を行いと願い出たが、陸遜は鄱陽郡は安定しておらず、そのようなことをすれば民衆がゲリラ化する恐れがあるので反対した。

しかし、周祗は強く自分の意見を主張して許可を取り付けた。だが、結局は郡民の反乱にあい、周祗は殺されてしまった。

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周峻(しゅうしゅん)

周瑜の兄の子で、周瑜に国家層創業に勲功があったということで、偏将軍に任ぜられ、軍吏や兵士を一千人あずかった。

陸遜が襄陽に攻めた際、使者を魏に捕らえられ手の内がばれる恐れがあり、軍を引いたが、その帰りに周峻と張梁をやって江夏の小さな県を急襲させた。

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周循(しゅうじゅん)

周瑜の息子で孫魯班と結婚をする。

騎都尉に任じられ、その姿には父親である周瑜の風があった。だが、残念ながら早世した。

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周処(しゅうしょ)

周魴の息子で文事武事をかねた才能があり、後に東観令、無難の督になった。のちに呉が滅びた後も晋の朝廷仕え活躍した。

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周条(しゅうじょう)

孫登が歩隲に才能ある人材を聞いたとき、歩隲は当時、荊州の領域で仕事に手腕を発揮している十一人の名前をあげたが、その中の一人である。

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周尚(しゅうしょう)

周瑜の叔父で袁術の旗下で丹楊太守となる。その後、袁術が袁胤を周尚のかわりの太守として丹楊に送り込んでくると周瑜と周尚は共に寿春に戻った。

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周承(しゅうしょう)

周泰の息子で、兄の周邵が死去すると兵を預かり侯の爵位を継いだ。

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周邵(しゅうしょう)

周泰の息子で、周泰が死去すると騎都尉に任じられ兵士を引き継いだ。

曹仁が濡須に攻めてくると、これと戦い功績をたて、さらには曹休の討伐に参加してこれを破り、裨将軍まで昇進した。

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周昭(しゅうしょう)

字を恭遠(きょうえん)といい、潁川の人。

韋昭、薛瑩、華覈らとならんで呉書を編集した人物である。後に中書郎となるが、韋昭の事件に連座して獄に入れられてしまう。

この事件であるが、いまいち何の事件かは、はっきりと分からない。ただ文章の流れでは歩氏の反乱後に書かれているので歩氏に加担して晋に投降をしようとしたのかもしれない。

周昭はこの呉書以外にも著をあわらしており、その中では諸葛瑾、歩隲、張承等、呉にいた有能な人物を見事に称賛している。

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周忠(しゅうちゅう)

周瑜の従兄弟で周景の息子。

漢の王朝で太尉に任ぜられている。

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周朝(しゅうちょう)

区星が反乱を起こすと、それに呼応して零陵郡で反乱を起こしたが孫堅に征伐された。

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周鳳(しゅうほう)

張昭が指揮した軍に負けた数少ない人物。豫章の賊徒の頭領で南城において張昭に破れた。

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周魴(しゅうほう)

字を子魚(しぎょ)といい、呉郡陽羨の人。

考廉に推挙され、寧国県の県長から転じて懐安県の県長となった。銭唐の賊である彭式らが略奪を働くと、周魴は銭唐侯の相に任じられ一ヶ月ほどで平定した。また227年には胡琮とともに鄱陽の大頭目彭綺を捕まえ身柄を武昌に送り昭義校尉となった。若い頃から学問好きだったと言われる周魴は、軍を率いても見事な人物であった。

孫権はそれを認めたのか、228年、魏の大司馬曹休が歩騎兵あわせて十万を率いて南下すると、周魴に大役を与えた。山越の元締めで敵にも名の知られた者に命じて内応するふりをさせ領内に曹休をおびき寄せて殲滅する作戦であった。

しかし、周魴は山越の頭目には荷が勝ち過ぎるからと、自分の身内に七通の手紙を持たせて誘い出したいと上表し、草稿を亭主した。それをみた孫権は即座に許可をした。

手紙には周魴はまず魏の民になることが自分の宿題だったと伝え、呉に仕えた上は二心を抱くまいと誓ったのに理不尽な譴責を受けて、いつ殺されるかもしれないと訴える。そして呉軍の配置を示し、本拠が手薄であることを教え、内応が許されるなら直ちに行動を起こすと言い、魏軍はどの道を辿れば良いかも教えた。更に、魏の将軍や侯の印綬を送ってもらえば、それを自分に同調した者に与えたいと書き記した。周魴伝の六割が実はこの手紙に費やされている。

実は魏と呉の間には度々偽降の計が用いられている。隠蕃の件などが良い例である。しかし、大半の計は失敗に終わっている。そういう意味では周魴の場合は珍しい成功例で、赤壁の戦役における黄蓋の偽降と双璧をなしている。

周魴が密計を曹休に献策したのち、しきりに呉の中央は勅を奉じた郎官を派遣し、諸事について詰問をした。周魴も詰問をされた一人で、役所に赴いて剃髪して謝罪したことがあった。曹休はこのことを伝え聞いていたので、周魴の申し入れに疑いを持たなかった。

何も知らない曹休は周魴を信じ皖に進んだ。呉は陸遜を大都督とし、朱桓と全琮を左右の督として各三万を率いて迎撃した。周魴も部下を集め、陸遜に従って側面から攻撃をする。曹休の軍は石亭で壊乱し一万人余りの丙を失った。

大勝して軍が凱旋すると、孫権は盛大な酒宴を開き周魴に向かって、君は剃髪までして義を尽くし、私のために大事を成し遂げてくれた。君の功名はまさに竹帛に書きしるさねばならぬ、と言い感謝をした後、裨将軍を加官し、関内侯に封じた。

その後、賊の頭目である董嗣が険阻な地に根城を設け、しきりに豫章、臨川の地を荒らしまわった。吾粲と唐咨は三千の兵で防ぎ戦ったが、何ヶ月経っても埒があかなかった。周魴は上表して、自分の一存でやらせてほしいと申し出た。許可が下りると周魴は間者に策を授け、董嗣を誘い出して暗殺させた。董嗣の弟はそれを知って震え上がり、武昌まで来て陸遜に降伏した。以降、近辺数郡は平穏になった。

周魴は郡に在ること十三年で亡くなった。善を賞し、悪を罰し、威恩並び行われた。

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周勃(しゅうぼつ)

山陰を根城にしていた賊徒で黄龍羅と共に徒党一千人ほど集めていたが、孫策と共に討伐にきた董襲にその首を斬られてしまう。

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習温(しゅうおん)

襄陽の人で荊州の大公丙となる。人物評論家で潘秘が習温の元に訪れたときに潘秘の出世を言い当てた。

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習氏(しゅうし)

李衡という人物の妻で、李衡が孫休の過失を糾問するようなことがしばしばあったが、常に習氏はそのようなことをしないように諌めていた。

後に孫休が皇帝の座に就くと、李衡は報復を恐れて魏への逃亡を企てるが、やはり習氏はそれを諌め、李衡に孫休は天下の人々によく見せたいと願っているので自ら過去の過ちを表明し罪を受けたいと申し出れば逆に手厚い待遇を受けると助言をした。

李衡は妻の言うとおりにすると、罰を受けることも無く威遠将軍を加官された。

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脩允(しゅういん)

孫皓時代、晋に奪われた交州を呉は取り返し、毛炅を捕らえた。呉軍は毛炅の武力が優れていることから殺さずにおこうとしたが、脩允は父親である脩則を毛炅に討たれた事もあり、どうしても死刑にして欲しいと願いでた。

また、毛炅も恭順する可能性が無かったので斬首した。

その後、脩允は桂林太守となり転任することになったが、病気のために広州に留まり、その地で死んだと思われる。

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脩則(しゅうそく)

全部督として交趾に進軍したが毛炅に打ち破れ死亡する。

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襲粛(しゅうしゅく)

もと益州の武将で孫呉軍が江陵に向けて曹仁を攻めようとしていたときに呉に帰順してきた。

周瑜は襲粛の兵を全て呂蒙に預けようとしたが、呂蒙は襲粛とは肝っ玉が大きく将来役に立つ人物だと賞賛し、またこのように帰順してきた人間の兵を奪い取ってはならないと助言した。

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淳于式(じゅんうしき)

会稽太守で陸遜が不法に民衆を徴用して自軍に編入するため、民衆はそれを嫌がり各地で騒いでいると告げ口をした。

一方の陸遜は淳于式は、そのような上表がありながらも淳于式とは立派な人間だと賞賛し、言いあいにならないように話を断ち切った。

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徐逸(じょいつ)

陳瑀が江東の孫策反対勢力を焚きつけ諸郡を奪い取らせようとした際、孫策はこの企みに気づき、呂範と徐逸をおくって陳瑀を攻めさせ大いに撃破した。

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徐楷(じょかい)

徐盛の息子で、徐盛の死後、爵位を継いで兵士を預かった。

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徐旗(じょき)

広州の刺史で郭馬が反乱を起こしたとき追い払われた。

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徐矯(じょきょう)

孫権の妻である徐夫人の兄で、父の徐琨のあとを継いで広徳侯になり、山越を平定すると偏将軍に任ぜられた。

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徐元(じょげん)

孫翊の旗本の一人で媛覧と戴員を殺した。

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徐原(じょげん

字を徳淵といい呂岱と親しい交わりを結んでいた。

徐原が気概を備え才能と志をもっていることから呂岱は徐原の成功を見抜き衣服などを与えて親しく議論を交わした。

後に、徐原は推薦を受け抜擢されると御史の官にまで昇った。

徐原は真心があり、なにものにも畏れず、ずけずけと物を言う人物であった。そのため、呂岱が過失を犯すことがあると、徐原はそのたびに諫言して人々の前でも遠慮なく呂岱を論難した。

呂岱にことのことで告げ口するものがいると、呂岱は逆に、そうしてくれるからこそ私は徳淵殿を尊ぶのだと言い、徐原が死ぬと、呂岱は、徳淵殿はこの私にとって益友であった。いま不幸にして彼に死なれたあとは私は誰から自らの過ちについて指摘を受けられるのだろう、と深い悲しみをこめて慟哭しながら言った。

また、徐原は陸瑁と同じ呉郡の出身で、会稽に住んでいた。陸瑁とは全く面識がないにもかかわらず、陸瑁の評判を聞くと徐原は死に臨んで手紙を残し後に残す幼い子供たちを陸瑁に託した。

陸瑁は徐原のために墓を作り子供たちを引き取り教育を与えた。

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徐顧(じょこ)

徐顧が死去すると、孫権はその軍を呂蒙に与えようとするが、呂蒙は徐顧らは国家のために力を尽くした人物ということでそれを固辞した。

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徐琨(じょこん)

孫呉軍の中では大物ではあるが謎の多い人物である。

徐琨とは孫堅の妹と孫堅の友人であった徐真の間にできた息子で、孫策や孫権とは従兄弟であり、後に孫権の妻となる徐夫人の父親でもある。

若くして州や郡の役所に出仕したが、漢末に天下が乱れると役人を辞めて孫堅のもとで征伐に従事して功績を立てて偏将軍に任ぜられた。

さて、徐琨とは先に述べたように孫策とは従兄弟という関係である。その徐琨は孫堅のもとで征伐に従事して功績を立てているが、黄巾賊征伐では時期的に早すぎると思われるので、191年ごろの董卓との戦いから参加したのであろう。

このとき、孫堅は36歳なので徐琨が18歳ぐらいで参戦したとしたらギリギリの計算が成り立つ感じである。だが、孫策はこの時16歳である。因みに孫堅は妹を徐真に与えたと書かれている。つまり、長男の孫策が徐琨より後に生まれている可能性が高いことを考えれば、自分が結婚する前(18歳ごろだろう)に妹を徐真に与えたと考えるのが自然である・・・。どうも、徐琨の年齢や徐家と孫家の関係がピンとこない。

また、徐琨は偏将軍に任ぜられている。この時の孫堅の肩書きが破虜将軍である。つまり、推定18歳の小僧が36歳のおじさんとほとんど同レベルの存在なのである。これは凄いことである。また、孫堅が偏将軍を任じる立場ではないと思われる。つまり、反董卓軍のそれなりの立場にあった人物から任命されているのだろう。徐琨の活躍がそこまで凄かったとは考えにくい。そうなると、徐家という家柄の凄さのような気もするが、これもはっきりしない・・・。謎なのである。

さて、その後間もなくして孫堅は死亡する。そして、徐琨は突然、孫策の江南攻略戦に登場するのだが、その間がはっきりしない。普通に考えるのであれば孫賁と共に行動したのが自然である。だが、徐琨は偏将軍である。袁術の下で孫賁や呉景が活躍したのは書かれているにも関わらず、その時の徐琨の活躍が書かれていないのはどうもおかしい。徐琨は袁術のもとに行かなかったのだろうか?だが、袁術は徐琨の存在を見逃すような人物ではないと思われる。やはり謎なのである・・・。

さて、徐琨は江南攻略戦に参加した。丁度、一番最初の侵攻戦のとき、孫呉軍は当利口というところで河に阻まれた為に船の手配をしようとする。しかし、徐琨の母親は軍中にいて徐琨に、そんなに時間をかけては不利になります。すぐに葦を刈って筏を作り本物の船を補いつつ軍を渡せば良いのですと助言をした。

徐琨は自分の母親の助言を孫策に伝えると孫策はそれを実行し軍を素早く渡河させるのに成功した。そこから孫策は江南で快進撃を始めるのである。つまり、孫策の覇業は徐琨の母親(孫策の叔母)の一言から始まったのである。

その後、孫策は上表して徐琨を丹楊太守の職務に当たらせるが、その後、どうも徐琨の勢力が強くなるのを嫌ったらしく丹楊太守は呉景に変えて、徐琨は督軍中郎将に任じて兵士を預けたと書かれている。恐らく、孫策が監視できる場所にさりげなく配置したのだろう。だが、中郎将という立場は孫策軍では周瑜、程普らと同等である。このことから徐琨の存在の大きさが分かるかと思う。

さて、この後の徐琨に関する正史の書き方が最大の謎である。

“徐琨は孫策に従って廬江太守の李術を打ち破り、広徳侯に封ぜられて、平虜将軍に昇進した。のちに孫策のもとで黄祖討伐に参加したとき流れ矢に当たって死去した”

これの何が謎かと言えば、まず孫策は李術を廬江太守に任じてはいるが、李術を討伐していない。李術は孫策が死んだ後に反乱を起こし、孫権に討伐されているのである。

つまり、強引に考えれば正史三国志のこの記述は孫策と孫権を間違えているのでは無いだろうか?つまり徐琨は孫権のもとで李術を征伐し、第一次から第三次の間の黄祖征伐戦で死んでいると考えられる。

因みに黄祖討伐戦で流れ矢に当たって死んだ人物といえば凌操である。もし、徐琨もこの戦いで命を落としているのであれば、甘寧伝に書かれていても良さそうである。となると・・・圧勝した第三次黄祖討伐戦で不運な死に方をしたのだろうか・・・。ん~~流れ矢で死ぬのであれば、やはり孫策時代の黄祖討伐戦の方が可能性があるようにも感じる。

これだけ大物にも関わらず、謎の多い人物なのである。

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徐粲(じょさん)

奚煕が賀恵を讒言した際、奚煕は徐粲を使者として遣わして事実を調べさせたが、奚煕は今度は徐粲が賀恵の肩を持っていると讒言したため、孫皓は宛陵に使者を送って徐粲を斬らせた。

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徐紹(じょしょう)

元々、呉の武将で魏に寝返った。その後、晋の使者として呉を訪れ孫皓に降伏するようにと脅迫をする。

孫皓はこれに対し、へりくだり形式的には晋の臣従を受け入れる。

すると、徐紹は呉に送り返させられるのだが後に殺されてしまう。理由は徐紹が以前に魏の称賛していたという上言をしたものがいたからとされている。恐らく、孫皓は徐紹に対して怒りを持ち続け、難癖をつけて昔の罪として徐紹を斬ったのだろう

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徐詳(じょしょう)

字を子明(しめい)といい、呉郡鳥程の人である。

是儀、胡琮と並んで孫権の治世にあって国家経営に大きな業績を残した人物として評されている。特に徐詳は、しばしば使者として遣わされてその役目を見事に果たしていた。因みに、217年、曹操との濡須の戦いの停戦を行ったときの使者は徐詳である。

また、是儀、胡琮、徐詳は軍事や国政全般の機密事項の処理を主な仕事としていた。そして、その仕事振りにより、この三名は亭侯に封ぜられる。

中でも胡琮と徐詳は軍才もあったらしく軍の指揮官にも抜擢されており、軍部での活躍もあったため、後に侍中に任ぜられ、爵位を進めて郷侯に封ぜられる。また、二人は左右の領軍将軍の職も兼ねた。

諸葛恪伝によると、徐詳が死ぬと、その軍は諸葛恪に引き継がれた。

文武に優れた才能を発揮した彼の伝が立てられていないのは非常に残念である。

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徐真(じょしん)

孫権の妻となる徐夫人の祖父である。

孫堅と親交があった為、孫堅は自分の妹を徐真の妻として与える。そしてその二人の間に出来た子供が徐琨である。

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徐盛(じょせい)

字を文嚮(ぶんきょう)といい、琅邪国の莒の人である。

世の中が乱れてきたのを機に故郷を捨てて長江を渡り呉郡にやってきた。当時、中原から見れば江南は漢民族にとっては開拓地だった。彼はここで一旗揚げようと考えたのであろう。200年、孫権が立つと徐盛はその部下となって別部司馬に任じられ、柴桑において黄祖の進出を食い止めることになった。ある時、黄祖の子である黄射が数千の兵を率いて襲ってきた。徐盛側は軍吏と兵士を併せても二百人に満たない数であったが、一歩も退かずに戦って千人余りを傷つけた。更に門を開いて敵に突入し、黄射の兵を痛みつけたため、黄射は二度と進攻しなくなった。

222年に曹丕が濡須を攻撃したとき、徐盛は他の武将と共に横江に駆けつけて迎撃した。徐盛が乗った蒙衡は激しい風にあって敵方の岸辺に漂着した。武将達は狼狽して誰も船から出ようとしなかったが、徐盛は兵を率いて上陸し、敵を散々に打ち破ったため、その勇敢さを孫権に称えられた。

224年、曹丕は呉討伐の軍を起こし、広陵まで進出した。ここから呉の首都建業はほど近い。呉の人々は震え恐れた。徐盛は献策して長江沿いに偽の城壁を構え、魏軍の目を欺いた。建業近くの石頭から江乗まで数キロに渡って木材で骨組みを作り、それに葦の筵をかぶせて、ところどころに仮設の城楼を立てたものである。さらに長江に警備船を浮かべ、敵が近づいても偽城と見破られないようにした。呉の武将たちはそんなことをしても無駄だと言ったが、魏軍は一晩で作りあげたこの城壁を偽者とは思わなかった。

折から長江も増水してきたため、曹丕は、魏には武装した騎兵集団が千もあるが、これでは用いようもない、と嘆息し、軍を引き返した。孫氏の一族でも勇名を謳われた孫韶はこの機を逃さず、五百名の決死隊に魏軍を夜襲させた。不意をつかれた曹丕は副車と羽蓋を捨てて辛うじて脱出した。呉の武将達も、ここに至って徐盛の奇計を認めざるを得なかった。この功績により徐盛は建武将軍から安東将軍に昇進し、蕪湖侯に封じられた。

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徐祚(じょそ)

徐琨の息子で、兄の徐矯が早世したため、その爵位を継ぎ、戦功によって蕪湖の督、平魏将軍に任ぜられた。

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徐宗(じょそう)

豫章出身の人で中郎将まで昇進している。

評判の高い人物で、孔融と交わりを結んだこともある。しかし、文人気質で放胆な性格であって、その手下の者たちを放任した結果、手下の者たちは掟を守ろうとはせず、人々の嘆きのたねとなっていた。

そのため、潘濬に斬刑にされた。

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徐存(じょそん)

269年、督軍を率いて交趾に攻め込んだが、道程が難渋することから軍を引き返した。その後、何定の諫言により、軍を勝手に引き返した罪として一家眷属はすべて誅殺された。

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徐忠(じょちゅう)

劉備が荊州返還を拒否した際、呂蒙が荊州の南郡を攻めたのだが、その呂蒙軍の配下にいた。

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徐彪(じょひょう)

字を仲虞(ちゅうぐ)といい、広陵の人。

選曹郎の位におり、曁豔と共に厳しい人事を行った。こうした処置により、恨みと憤りの声がつもり始めると、陰にまわった者の誹りが広く行われるようになり、徐彪と曁豔は自分の気持ちに任せて専断を行い、他人に与える恩恵と処罰は公平な道理に基づいてないと口々に言い立てた。

徐彪と曁豔はこの件で罪を問われると自殺をした。

彼らのこの事件は張温失脚にも繋がっていく。

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徐夫人(じょふじん)

孫権の妻で呉郡富春の人、孫堅と同郷である。徐氏の祖父、徐真と孫堅は親交があり、孫堅は自分の妹を徐真に嫁がせ、徐琨が生まれた。徐琨の娘が徐氏で、徐氏は初め同郡の陸尚に嫁いだが未亡人となった。

孫権が討虜将軍として呉郡にいた時、これを妃として息子の孫登の養育に当たらせた。孫登は成人後もその恩を忘れなかったという。

彼女は嫉妬深かったため廃され、そのまま呉郡に留め置かれた。229年、孫権が帝位に就き、孫登が太子に立てられると、群臣は徐氏を皇后に立てるよう進言したが、孫権の意は歩夫人に在り、それを認めなかった。徐氏は寂しい晩年を過ごして亡くなった。

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徐平(じょへい)

字を伯先(はくせん)といい徐陵の息子。

幼いうちから評判が高く、虞翻は深く徐平の才能を愛し、しばしば称賛した。諸葛恪が丹楊太守となり、山越を討伐した際、徐平には人々のあいだに威信があり、思慮深く、力をあわせて仕事を進めることができると考え、願い出て徐平を郡の丞に任ずるように許可を得た。

のちに徐平は武昌の左部督にまで昇進した。徐平は心をこめて全ての者と接したため、士卒たちはみな彼のために死力を尽くして任務にはげんだ。

徐平が諸葛恪の属官であったとき、諸葛恪は心中で徐平をひどく軽んじており、諸葛恪が主君を補佐して政治を牛耳るようになると、徐平をますます粗末に扱った。

のちに諸葛恪が殺害されると、息子の諸葛建は逃亡したが、徐平の部曲に捕らえられた。徐平はそれを逃してやり、のちに再び別の軍に諸葛建は捕らえられた。

徐平の一族の二人の女性が離縁をされて家にもどってきたが、彼女たちを大切にし、過度なほどに思いやりをかけてやったという。

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徐陵(じょりょう)

字を元大(げんだい)といい会稽郡、太末の人。

もともと、県の役人の間に身を処したりして、人々からは少しも認められていない境涯にあったのだが、虞翻はそんな彼に出会うと、すぐさま友人として交わりを結び、虞翻は彼の名が人々の間に知られるようになるように守り立てた。

徐陵はその後、三つの県の長を歴任したが、どこでも評判が良かった。

後に零陵太守に昇進すると、その当時、朝廷ではやがて徐陵は列卿の位に昇るべき人材として徐陵を評価し遇していた。

そうしたことから虞翻は手紙の中で、元大どのは上卿としての待遇を受けておられるが、叔向が晋で受けた手厚い待遇も、これに勝るものではない”と書いている。

徐陵は死んだ後、その小作人や田畑が他人に奪われるということがあった。駱統が徐陵の遺族のために訴訟をおこし、丁覧やト静の遺族に与えられたと動揺の優遇を与えて欲しいと願い出ると孫権はそれを許可した。

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舒邵(じょしょう)

舒仲膺(じょちゅうよう)とも呼ばれ、兄である徐伯膺の親しくしていた友人が殺されると、仲膺がその仇をとった。事が発覚すると、兄弟は互いにかばいあい、自分が死刑になろうとしたが、最終的には二人ともその罪を許された。

舒邵は袁術が勢力を誇っていた時代に阜陵県の長になっている。

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舒燮(じょしょう)

重安県の長であった陳留出身で、罪を犯したために獄に下された。

すると潘濬は以前に舒燮を見損なったことがあったので、舒燮を法に定めて処刑してしまおうとしたが、多くのものが舒燮の取りなしをした。

潘濬はかたくなに気持ちを変えようとしなかったが、孫鄰が説得をした。

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舒伯膺(じょはくよう)

舒邵の兄で、弟が自分の親友の仇を取ったため、その罪をかばおうとした。しかし、最後は二人とも罪を許された。

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諸葛壱(しょかついつ)

孫権が諸葛壱に命じて、偽って呉に叛いた様子を見せて諸葛誕をおびき寄せようとした。諸葛誕は歩兵と騎兵を一万率いて諸葛壱を高山で迎えいれようとしたが途中で孫権軍の存在に感づき諸葛誕は軍を引き返した。

諸葛壱が実際に誰の子なのか、甥なのかは正史では分からない。だが、当然、諸葛という姓から諸葛誕とは親戚筋の人間で孫権はそれを利用して呉に叛いたように見せさせたのだろう。

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諸葛恪(しょかつかく)

字を元遜といい、諸葛瑾の長男である。身長七尺六寸、髭や眉が薄く、鉤鼻で口が大きく、声が高かったという。若い頃から才名が高く、才知あふれた言葉遣いと臨機応変の議論に対して、うまく応酬できるものはいなかった。

父の諸葛瑾は面長で驢馬に似ていた。ある日、孫権は大勢の臣下が集まった席上で驢馬を引き出し、長い札に「諸葛子瑜」と書き記した。すると諸葛恪はどうか二文字を加えさせて頂きたいといい、「之驢」(のロバ)と書いた。驢馬にされた父親が、たったの二文字で持ち主に変わった訳である。一座の人々はどっと笑い、驢馬は諸葛瑾に下賜された。

その後、再び目通りしたとき、孫権は、そなたの父と叔父とではどちらが賢いか?と質問すると、諸葛恪は私の父が勝ります、と答えた。すると孫権が理由を尋ねると、臣の父は仕えるべきところを知ってるのに、叔父は知らないからです、と答えた。孫権はそれを聞いて大笑いした。

ある時、頭の白い鳥が宮殿の庭に飛んで来た。何の鳥だろうという孫権の問いに、諸葛恪は白頭翁ですと答えた。席には張昭がいたのだが、張昭は自分の高齢を当てこすっているのではないかと思い、諸葛恪は陛下を欺いております。そんな鳥がいるならば、試しにそれと対なす白頭母を捜させてはどうでしょうか、と言った。すると諸葛恪は、鸚母(おうむ)という鳥はろいますが、その対となる名の鳥はおりません。もしいるなら、張将軍に鸚父という鳥を探していただきたい、と言い返し張昭を返答に詰まらせた。

諸葛恪の噂は遠く蜀の叔父孔明にも聞こえたらしい。222年、孫権が呉王となり、それまで軍糧を司っていた徐詳に代わって諸葛恪を任用しようとした。しかし孔明は陸遜に手紙を送り、諸葛恪は大雑把な性格ゆえ、軍事の糧穀を扱わせるのは不安である。あなたから呉王にこの旨を伝えて、役目を代えさせて頂きたい。と伝えている。父の諸葛瑾は謹直な人柄で知られていたが、諸葛恪は正反対で、人を人と思わない性格である。こうした性格では緻密な事務処理能力を要求される食糧管理には向かないと考えたからであろう。

241年、諸葛瑾は死去した。彼は諸葛恪の才はじける様子を見て苦々しく思い、我が家を大いに盛んにするのもこの子ならば、我が家を根絶やしにするもこの子であろうと、いつも心配していたという。

252年四月、孫権が亡くなった。その前年に病床で、誰に太子の後見を託したらよいかと臣下に論じさせた。彼らは諸葛恪こそ、その人物だと言い、中でも孫権の一族だった孫峻は何度も上表して推薦した。

孫権は諸葛恪の才能を愛していたが、才能を自負するあまり、他人の意見を聞かず、自分の意思を押し通そうとする性格を危ぶんでいた。しかし、他に目ぼしい者も見当たらず、結局諸葛恪に全てを託することになった。

諸葛恪は254年に死去した陸遜に代わって大将軍になっていたが、さらに太傅となり、内外の権力を一手に掌握した。未納の税金を帳消しにしたり、関税を廃止するなど、諸葛恪の施策は好評をもって迎えられた。252年、諸葛恪は東興に押し寄せてきた魏軍に大勝した。

これに味をしめた諸葛恪は翌年の春、再び軍を動かしたいと願い出た。朝臣たちは度重なる出兵で兵が疲れていると反対したが、諸葛恪は聞き入れずに合肥を攻撃した。城を囲む間に兵士は疲れ、疫病が流行ってしまい、この侵攻は何の成果も収めず失敗に終わった。

引き返す途中、多くの兵士が病死し、また敵の捕虜となった。諸葛恪に対する怨嗟の声は高まったが、彼は少しも意に介さなかった。都に戻った諸葛恪は身の回りを自分の息のかかった者で固め、さらに青州、徐州の攻撃を計画した。孫権の危惧は正しく、彼は他人の意見には全く耳を傾けなかった。

最初は諸葛恪を推薦した孫峻だったが、人々の心が諸葛恪から離れたのを見て、酒宴の席で諸葛恪を斬殺した。

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諸葛喬(しょかつきょう)

諸葛瑾の息子で、呉から蜀に移り諸葛亮の養子となった。

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諸葛瑾(しょかつきん)

字を子瑜(しゆ)といい、瑯邪郡陽都の人で、後漢の末年に戦乱を避けて江東に移った。継母に仕えて至って孝行だったという。孫策が200年に死去して間もなく、孫権の姉の婿に当たる弘咨に推挙され、魯粛らとともに賓客となった。後に孫権の長吏となり、中司馬に移った。

208年、曹操に対抗しようと孫権と劉備が共同したときも、215年に使者として蜀に行ったときも、弟の孔明とは公式の席で対面することはあっても、その場を退いた後、私的に話を交わすことがなかったという。

孫権を諌める場合でも決して強い言葉を用いず、自分の意見が受け入れられなかった場合は、後から他事に託して述べるのが常だった。温厚で謹直な人柄だったようだ。酒が好きで、かっとなりやすい孫権とは反対の性格で、これがかえって良かったのかも知れない。孫権はそんな諸葛瑾を深く信頼した。朱然の義父、朱治が孫権の不興をかったときも、やんわりと孫権を諌めて二人の関係を修復した。孫権は、その昔に孔子の弟子の顔回の徳は人々の間柄を親密にしたというが、それは君のような人のことである、と言っている。

225年、孫権と劉備の間で戦いが始まった。蜀の当初の勢いはすさまじかったため、ある人が、諸葛瑾はわが身を慮って蜀と気脈を通じている、と孫権に告げた。孫権は、私と子瑜とは死生を越えて心を変えぬと誓いあった間柄だ。子瑜が私に背かないことは、私が子瑜に背かないことと同じである、と言って少しも疑いを持とうとしなかった。

また江表伝には魯粛に代わって南郡太守となった諸葛瑾を讒言する者がいて、それが陸遜に漏れ伝わった。陸遜は上表して諸葛瑾の人柄を保証するとともに、孫権からも彼に安心するよう言葉をかけてやってもらいたい、と申し出た。

それに対して孫権は、子瑜は私に長く仕え、二人の間柄は肉親のそれと変わらず、深く互いを理解しあっている。かつて孔明が呉に来たとき、私は彼を呉に引きとめようとしたことがあった。しかし子瑜は、“いったん君臣の固めをした以上、二心を抱く道理はありません。弟が呉にとどまらないのは、私が蜀に行かないのと同様です”と言った。この言葉は天地神明を貫き通すに足るものだ。今になって讒言にいうようなことがあるはずもない。私と子瑜との間は、他人のそんな言葉で損なわれるものではない、と答えている。

諸葛瑾は実戦の指揮者としてはやや不向きであったようである。222年、曹真と夏侯尚が朱然を江陵に囲んだとき、長江の中洲にも別軍を置いて陣地を構築したので、諸葛瑾は大軍を率いて救援に向かった。しかし、彼はいつもの悠容迫らぬ性格で、臨機応変の処置を取らなかったため、中々埒があかず、孫権をやきもきさせている。やがて春の出水のころとなり、潘璋が上流に大きな筏を作って攻勢を示し、諸葛瑾も敵の浮き橋を攻撃したので、ようやく魏軍は撤退をした。

241年、諸葛瑾は齢六十八で病死した。

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諸葛建(しょかつけん)

諸葛恪の末の息子で歩兵校尉であったが、諸葛恪が殺されると兄の諸葛竦と共に逃亡する。

何とか長江をわたることが出来たものの、北方の魏に逃げ込もうとして数十里行った所で追っての兵に追いつかれてしまった。

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諸葛綽(しょかつしゃく)

諸葛恪の長男で二宮の変の際、孫覇に加担した。そのため、孫権はその身柄を諸葛恪に渡してもう一度教育しなおすように命じた。

諸葛恪は彼に毒を飲ませて殺害した。

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諸葛竦(しょかつしょう)

諸葛恪の息子で長水校尉であったが、父の諸葛恪が誅殺されると諸葛建と共に逃亡するが白都で捕まり斬られた。

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諸葛直(しょかつちょく)

衛温と共に夷州(台湾)と亶州(日本)を、武装兵一万を率いて探しに行く。しかし、卦曲は遥か遠方にあるこの土地を探し当てることができず夷州から数千人の住民を釣れて帰るのみに終わってしまう。衛温と諸葛直は、詔にそむいて成果を挙げなかったとのことで獄に下され、誅殺される。

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諸葛融(しょかつゆう)

諸葛瑾の息子で諸葛恪の弟。

父の諸葛瑾が死去すると、既に諸葛恪は自分の功績で侯に封ぜられていた為、諸葛融が父の爵位を継ぎ、公安に駐屯した。彼の部曲たちも、役人幕僚たちも諸葛融にはよくなついた。

当時は辺境地帯も平穏無事で、秋と冬には狩猟をして軍事訓練を行い、春と夏には賓客を招き盛んな宴会を開いたため多くのものがこの地を訪れた。

宴会の内容は派手で、宴会に参加した者の得意とする分野を競わせ、その場には美味な果物が次々と運ばれ、上等な酒が振舞われ、諸葛融はその間をまわって様子を眺め終日楽しんでいた。

諸葛瑾と諸葛恪は質素であり、軍征の途上にあっても、派手な服装は身につけることは無かったが、諸葛融はその逆で錦や緞子や刺繍文様の衣服をつけ、きらびやかであった。

だが、その軍事能力は非常に劣っており、朱績が魏の王昶を追い詰めたことがあったが、諸葛融が作戦通り軍を進めることをしなかったため、朱績は軍を引き返すことになった。これに対して孫権は相当憤ったが、兄の諸葛恪が重臣であるため官位を奪わなかった。

孫権が死去すると諸葛融は奮威将軍に転じる。その後、諸葛恪が淮南の征伐に向かうと、諸葛融には仮節を授け、軍を率いて漢水流域に入り、西方の魏を撃たせたと書かれているが、恐らく何かに乗じて攻め込んだのであろう。

その後、諸葛恪が孫峻に誅殺されたると、孫壱、全煕、施績に攻めこんできた。諸葛融は、急に兵士たちがやってきたと聞き、びっくりしておろおろして、なすすべを知らなかった。到着した兵が城を包囲すると、諸葛融は薬をあおいで死んだ。


ま~早い話、使えない二代目の見本である。

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仍弩(じょうど)

合浦郡、高涼の不服住民の頭で、略奪を働き住民を傷つけたため、鍾離牧に討伐された。

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尚広(しょうこう)

歩闡の乱が起きた際、陸抗の活躍により無事に反乱が鎮圧されたのだが、これに気を良くした孫皓は尚広に命じて天下統一について占わせた。

すると、尚広は庚子の歳に、青い蓋が洛陽に入るでありましょうと答えた。

つまり、孫皓が洛陽に入ると占った。そのため、孫皓は内政を整えることはせず中原だけを窺うようになり、呉は滅亡した。

孫皓が晋に降伏して洛陽に護送された歳、それは庚子の歳であったという・・・。なんとも皮肉なこの話は何故だか私のお気に入りである。

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邵疇(しょうちゅう)

字を温伯(おんはく)と言い、郭誕の部下であった。

会稽郡で孫奮が天子になると妖言が流行った際、郭誕はそのことについて上言しなかったということで逮捕された。そして、郭誕は気が動転したため無実を明らかにすることが出来なかった。

すると邵疇は郭誕に接見して、全ては自分の責任すると伝え、すぐさま役人のもとに出頭し、妖言について上言しなかったのは自分の処置によるものだと陳述した。

だが、孫皓の怒りは衰えなかったため、邵疇はこのままでは郭誕が処刑されてしまうと恐れ、自殺して自らの罪を証明しようとした。

そして、死に臨み、自分は妖言が流行った際、臭いものには蓋を閉めるべきだと郭誕に強く主張し、そのために郭誕は黙って自分の意見に従っただけである。今回の過ちは全て自分に非があるこ故、ここに謹んで死罪を覚悟の上で関係の役人に対し自分の罪を認めたしだいです。天子さまにはご聖鑑を垂れられ、事態を見通しいただきますようにと遺書を書いた。

役人が邵疇の死体を検分した際、この遺書を発見し孫皓に報告をした。その結果、郭誕は死刑をまぬがれて、建安に送られて船を作る労役に従うようになった。

孫皓は邵疇の節義を嘉して、全国の郡や県の役所に詔を下して、彼の姿を廟堂に描かせた。邵疇が死んだとき、彼は齢四十であった。

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邵南(しょうなん)

周魴が曹休を欺こうと、偽降の手紙を出したとき、邵南と董岑が曹休への使者となった。

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商升(しょうしょう)

元、王朗の部下で候官の長。

王朗が孫策に敗れて逃亡すると、王朗のために孫策討伐の兵を起こした。すると孫策は韓晏を送って商升を征伐しようとするが、これを逆に商升は撃破した。その後、孫策は賀斉を送ると、商升は賀斉の名前を聞き使者を送って降伏を申し入れた。

だが、商升軍の頭目である張雅と詹彊はその降伏に不満を抱き共謀して商升を殺した。

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常倶(じょうぐ)

鍾離牧に討伐された山越の頭目。

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章陵王(しょうりょうおう)

孫皓の息子。孫皓の息子は全員で十一名いたらしい。

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焦已(しょうい)

江南にいた孫策の反対勢力もしくは豪族で、実際に正史に討伐されたかどうかは書かれていないが、同時に出てくる祖郎や厳白虎等が討伐されているので、おそらく討伐されたと思われる。

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焦矯(しょうきょう)

征羌県の令であったことから焦征羌とも呼ばれた。

会稽郡の豪族で歩隲が若かった頃、焦矯の勢力下にある土地で衛旌と生計をはかろうと考え、焦矯に瓜を謙譲したという話が残っている。

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蒋壱(しょういつ)

蒋欽の息子で、父親が死んだ後、宣城侯に封ぜられ、兵士を預けられて劉備との戦いで手柄をたてた。その後、軍を還して南郡にむかい、魏との戦いを交えている最中に陣中で死去した。

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蒋延(しょうえん)

中散大夫で、諸葛恪が魏に無理に攻め込もうとしたとき、猛反対をしたが、朝会の場から連れ出されてしまった。

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蒋幹(しょうかん)

九江の人だが、曹操の命令を受けて周瑜がどのような人物かを調べさせた。周瑜は堂々と蒋幹に自分が今ある立場、孫呉から受けている恩恵を蒋幹に見せた上で呉を棄てる事は決してないと説明した。

蒋幹はその後、曹操に周瑜には大きな度量と高い精神的風貌とが備わり、言葉によって孫権との間を裂くことなどできないと称賛した。

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蒋休(しょうきゅう)

蒋欽の息子で、兄である蒋壱が死ぬと後を継いだが、罪を犯し、父親以来の所領と官位を失った。

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蒋欽(しょうきん)

字は公奕(こうえき)で九江郡寿春県の人。

孫堅の死後、孫策は194年に袁術に身を寄せ、蒋欽はこの頃に孫策の側仕えとなった。孫策に従って三つの郡を平定し、さらに会稽の東治の賊、呂合、秦狼を捕らえ、討越中郎将となった。215年、合肥に侵攻した孫権は撤退するときに魏将張遼の手痛い追撃にあい、あわやという危機に陥った。蒋欽は力戦して孫権を救い、盪冠将軍に昇進し、濡須を守ることになった。ここは呉の前線基地として重要なところである。

初め蒋欽が宣城に軍を置いて豫章の賊を討ったときのこと、蕪湖の県令徐盛が、蒋欽の駐屯地で留守を預かっていた役人を捕らえ罪をただし、上表して斬刑に処そうとした。孫権は、その役人の上司である蒋欽が遠征中だということで許可しなかった。この後、徐盛は蒋欽の報復を恐れるようになる。

217年、曹操が濡須へ軍を進めてくると、蒋欽は呂蒙とともに総指揮に当たった。徐盛はことにかこつけてひどい目に合わされるのではないかと不安だったが、蒋欽は徐盛の長所を取り上げて称賛した。以来、徐盛は彼の特に心服した。

蒋欽はまた、高い位にいても奢侈にふけらなかった。ある時、孫権が彼の家を訪れたところ、母親も妻妾たちも粗末な衣服を身に着けていた。これを見た孫権は御夫に命じて、きらびやかな品に取り替えさせたという。

219年、関羽が江陵から北上して襄陽を攻撃した。孫権は呂蒙の計に従ってその背後をついた。蒋欽は水軍を率いて軍を進め、その帰還の途中で病死した。

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蒋康(しょうこう)

張温失脚の原因となった人物。張温は蒋康に御史のポストを約束し取り入れたと言いわれていた。だが、駱統はこの件に関しては濡れ衣だと庇っている。

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蒋纂(しょうさん)

沛郡の人で、後ろ盾も無く貧しい境遇にあったが、陸瑁を頼り生活の苦楽を共にした。

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蒋脩(しょうしゅう)

留賛の配下で諸葛誕の軍に敗れ殺害された。蒋脩自身は才能のあった人物らしく、孫登が死ぬ間際の遺言で才ある人物であると紹介されている。

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蒋秘(しょうひ)

将軍で239年に南に軍を進めて呉に反抗する異民族を討伐している。

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鍾離禕(しょうりい)

鍾離牧の長男で父親が死んだ後、爵位を継ぎ、兵士をそのまま預かった。

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鍾離駰(しょうりいん)

鍾離牧の兄で、上計吏となり、謝賛や顧譚と等しく名声があった。だが、弟の鍾離牧は逆に若い頃は評判が悪かったが、鍾離駰は人に牧は必ず私より立派になるだろうと言っていた。

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鍾離徇(しょうりしゅん)

鍾離牧の三男で偏将軍の官を授けられて西陵の守備に当たった。

監軍使者の唐盛と西陵一帯の土地の形勢を論じたとき、鍾離徇は信陵に城を築くべきだと言ったが、唐盛は名将の施績や留平がその場所を通りながらそのような意見を言ったことがないので、取り上げなかった。

その後、晋は呉に攻めてくると信陵に城を築いた。更に、晋の軍が本格的に呉の平定に向かってくると、鍾離徇は水軍の指揮をつとめ、晋軍を迎え撃ったが戦いの中で死んだ。

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鍾離緒(しょうりしょ)

鍾離牧の父で楼船都尉であった。

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鍾離盛(しょうりせい)

鍾離牧の次男で敬意と謙譲をもって人に接し、尚書郎の官についた。

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鍾離斐(しょうりひ)

陸機の弁亡論に登場しており、丁奉と共に果敢な軍事行動で名があったと紹介されている。

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鍾離牧(しょうりぼく)

字は子幹(しかん)といい、会稽郡山陰県の人。

兄の鍾離駰は上計吏となり、同郡の謝賛や呉郡の名士顧譚と名声を等しくした。これに比べて鍾離牧は幼い頃は動作が鈍く、口下手ではあったが、兄は常々、牧は必ずや私に勝であろう。軽んじてはいけない、と人々に言ったが、当時は誰もそう思わなかった。

242年、鍾離牧は郎中から太子輔義校尉となり、南海太守となった。後に中央に戻って丞相長史を経て中書令に昇進した。このころ、建安、鄱陽、新都三郡の山越の民が叛乱した。鍾離牧は監軍使者として派遣されて叛乱を平定、降伏した賊を兵役にあてた。この功で泰亭侯に封じられ、越騎校尉の官を得た。

鍾離牧は兎に角、呉の国内平定に追われた。

遠く、交州の高涼郡の賊である仍弩を討伐してこれを降す。同じく南海郡掲陽県の賊である曾夏は数千の配下を集め、十数年の間、呉の懐柔を拒んできた。だが、鍾離牧は使者を送って慰喩すると、曾夏は行いを改めて従順な民となった。

始興太守である羊衜はよく人物を見分ける能力で名声があった。彼は滕胤に、鍾離子幹のことは昔余り知らなかったが、南海郡での様子を見ると部下に威恩が行きわたり、智勇が分明に示されている。これに加えて操行が純粋で古人の風格があると書き送っている。

263年、蜀が魏に併呑されると、武陵郡の五谿蛮がこれを機に叛乱するかと懸念し、呉は鍾離牧を平魏将軍、武陵太守として、任地に送る。果たして魏は郭純に兵を与えて武陵に向かわせ、その二県を占拠した。

鍾離牧は、禍根が深くならないうちに抜きとろうと言い、わずか三千の兵を率いて、昼夜兼行で険阻な山道を二千里ほど走り、魏に応じた頭目百余人と、その一味千余人を斬った。郭純の兵は四散し、この功によって鍾離牧は揚武将軍に昇進、都郷侯に封じられた。

後に濡須の督に移っり、さらに前将軍、暇節に昇進し武陵太守も兼任した。

鍾離牧は在官のまま死去した。没年は明らかでない。家には余財は無く、士人は彼の徳を偲んだ。鍾離牧はこれだけの名将でありながら三国志演義には登場はしていない。

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聶友(じょうゆう)

字を文悌(ぶんてい)といい、豫章の人である。

聶友には弁舌の才があり、若くして県の役人となる。虞翻が交州に配流されると、県令は聶友に命じて虞翻の出発を見送らせた。その時、虞翻は聶友と語り合ってその才能を高く評価し豫章太守の謝斐に手紙を送ると、聶友を功曹に任ずるように勧めた。

豫章郡にはこのとき先任の功曹がいたが、謝斐はその功曹に会って、県の役人の聶友はいかなる職務が務まるだろうか?と尋ねると、功曹は、この者は県にいる小役人にすぎませんが、曹佐は勤まりましょうと答えた。すると謝斐は、聶友を功曹にするべきだと主張するひとがいるが、実はあなたに彼のために現在の職を譲ってもらいたいと頼み、聶友は功曹に用いられることになった。

後に聶友は使者として都に出た際に、諸葛恪と対等の友人としての交わりを結ぶ。そして、これが聶友の名を世間に知らせることとなった。

242年、陸凱と共に兵三万を率いて珠崖と儋耳を見事に討伐している。

その後、丹楊太守となり、諸葛恪が魏に対して無謀な戦いを挑もうとすると、すぐに諸葛恪を諌めようとしたが、諸葛恪をその助言を聞き入れず魏に攻め、大敗して孫峻に暗殺される。

孫峻は聶友が諸葛恪と親しかったのを当然知っていたので、警戒して聶友を鬱林太守にしてしまおうと企てたが、聶友は病気を発して三十三の若さで死去する。

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饒助(じょうじょ)

孫瑜に襄安県の長に任じられ、廬江の郡を呉へ帰属するように呼びかけ配下に入れることに成功した。

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任奕(じんえき)

句章出身の人で、文章の士として、創作した言葉が鮮やかで力に溢れていたと言われている。

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任度(じんど)

朱異の配下の将軍で諸葛誕が反乱を起こした際、張震と共に諸葛誕を救うべく決死隊を募り夜陰にまぎれて偃月塁を築いたが魏の攻撃を受けて敗退した。

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岑昏(しんこん)

ずるがしこく立ち回り、孫皓に気に入られて厚い寵愛を受け、九卿の位まで昇った。

岑昏は土木工事などを無意味に起こすのを好み、民衆を労役に借り出したため、人々は苦しみ国は悪化していった。

だが、結局は殿中の孫皓の親近の者たち数百名が叩頭して、孫皓に岑昏を殺すように頼み、岑昏は捕らえられ殺された。

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沈瑩(しんえい)

丹楊太守で呉の末期にその命を散らした名将。

晋が呉を平定するべく大軍を送ってきたとき、沈瑩は呉の丞相である張悌の指揮下に入り、晋軍と対峙した。

沈瑩の率いる軍団は、青巾兵と呼ばれ、丹楊の精鋭兵で、その名は呉国でも最強と謳われていた。沈瑩はその五千の青巾兵と共に、何十万といる晋軍に三度に渡り突っ込んだが敵を崩せなかった。

最後は、張喬が背後から反乱を起こし、張喬軍に単身で突っ込み死亡したが、その死に様は、何か武士道に通じるような感動さえ覚える。

呉の最後を命をかけて戦おった、張悌、諸葛靚、沈瑩に関しては諸葛靚伝で参照ください。

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沈珩(しんこう)

字を仲山(ちゅうざん)といい、呉郡の人。

若い頃から経書を初めとする学芸全般に通じ、なかでも春秋左氏伝と国語とを善くした。

魏帝が孫登に爵位を授けようとした際、孫権はまだ幼すぎるということで辞退し、沈珩がその使者として魏に向かった。孫権が沈珩を使者として選んだのは、沈珩に智謀があって、外交手腕も見事であったためである。

沈珩が魏に言った際、文帝より呉は魏が東に兵を進めるのではないかと疑っておるのか、と尋ねた。すると、沈珩はそのような事はありませぬ。信に旧き盟約を恃み、ここに旧き好に帰すとありますとおり、疑いはいたさぬのです。ただもし、魏が盟約を違えられるときには、もちろんその備えはあります。

文帝が呉の太子が人質としてこちらに来ることになったと聞いたが、確かにそうなのだろうか、と尋ねると、沈珩は、臣は東の朝廷にあって、朝会に列座することもなく、御宴にも与らぬ身ゆえ、そうした議論については何も聞いておりません、と答えた。

文帝はこうした沈珩の対応を喜び、沈珩を側近くに招くと、終日語り合った。沈珩は全てについて素早く受け答えをして言葉につまったりすることがなかったという。

沈珩は呉に戻ると、自分の調査によると、魏とは同盟があるとはいえ、劉曄あたりが奸計をめぐらせており、魏に対して備えを怠ってはならず、今は兎に角、内政を充実するべきだと上表した。

沈珩は使者としての使命をよく果たしたということで、永安郷侯に封ぜられ、官位は少府にまで昇った。

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沈〔目昬〕(しんぴん)

高岱の友人で、高岱が許貢に命を狙われたとき、彼のために逃げるための船を用意した。

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沈友(しんゆう)

字を子正(しせい)といい、呉郡の人。

華歆が朝廷から使者として各地の政治教化の成績を尋ねて巡察をしていた際に、沈友をみつけて非凡な人物だと見抜いた。

沈友が成人するころには広く学問を修めて、多くのことに精通し、文章にも巧みになる人物と育つ。加えて、武事も好み、孫氏兵法に注をつけた。沈友は弁舌にも優れており、沈友が参加した場では人々はみな口をつぐみ、彼と議論を応酬できるものはいなかった。全ての人々は沈友の筆の妙、口舌の妙、刀剣の妙、この三者は人よりずば抜けていると評判を立てた。

その評判を聞いて、孫権は礼をあつくして沈友を招いた。沈友は、孫権のもとにやってくると、王者や覇者として取るべき方略や、目前の急務について論じ、孫権も顔つきを改めて慎み深くそれに耳を傾けた。荊州を併合すべきだとの計をのべ、孫権をその意見をいれた。

沈友はきびしい態度で朝会に臨み、妥協を許さぬ正義の論陣を張ったため、無能な臣下たちに讒言をされ、謀反を企てていると誣告された。

孫権も沈友がやがては自分の命令どおり働かなくなるであろうと考えて、沈友が朝会の席で孫権のやり方を非難する意見を述べたときに殺害をした。

齢わずか二十九であった。

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晋宗(しんそう)

戯口の守備にあたっていた武将で、王直を殺すと部下を引き連れて魏に寝返った。魏は晋宗を蘄春太守に任じると、晋宗は度々、呉の国境地帯に侵犯して攻撃してきた。

孫権は賀斉に命じて、蘄春を攻めさせ晋宗を捕らえさせた。

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秦晃(しんこう)

中郎将で、全琮の配下として芍陂で王凌と会戦し、そこで戦死した。

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秦松(しんしょう)

字を文表といい、張紘と同郷である。

秦松は孫策の参謀で張昭、張紘の名前に続いて出てくることからNo.3の立場にあったと思われるが、早くして死去したようである。

張紹と同様に保守的であったらしく、208年に曹操が呉に進軍してきた際、曹操に降伏することを孫権に勧めている。

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秦旦(しんたん)

232年、遼東に独立国家的な勢力を持つ、公孫淵が呉の藩国になりたいと申し入れてきた。孫権は大いに喜び、公孫淵を燕王に封じ、九錫の恩典を与えることにし、大勢の使者と金品を載せて海路で遼東に向かわせた。

顧雍、張昭らは、これは公孫淵の陰謀に乗せられていると猛反対したが、結局、孫権は彼らの言うことを聞かずに使者を送った。

結果は、案の定、公孫淵の陰謀で、使者は捕らえられた。そして、その使者の中に秦旦がいたのだが、秦旦は張羣、杜徳、黄彊らと共に玄菟郡におかれた。

秦旦たちは民家に仮住まいして飲食物を与えられ、四十日ほど経った。秦旦は黄彊らに、国家の使命も果たせず、こんな状態では死んだも同然だ。郡は手薄のようだから力をあわせて立ち上がり、城郭を焼き、役人を殺し、国の恥を雪ぐならば、たとえ死んでも心残りはない。いつまでも囚われている身でいるよりは余ほどましである、と言った。

反乱を決行しようとした日、部下の一人が密告をしてしまったため、城門は閉じられてしまった。秦旦ら四人は城壁を越えて脱走した。この時、張羣は膝に腫れ物を作っていて、杜徳の手を借りて山谷を越えて、七百里も進むうちに歩けなくなってしまった。

張羣は、私の死は迫っている。君たちは速やかに進んで、どこかに辿りついて頂きたい。こんな所で一緒に死んではいけない、と言った。だが、杜徳は、万里も離れた遠い所でさすらい、生死を共にした仲間をどうして見捨てて行けようか、と答えると、秦旦と黄彊を先に出発させ、自分は残って張羣のために看病にあたり、山菜や野生の果物を取って食べさせた。

秦旦と黄彊は別れて数日、高句麗の地に達した。そして、句麗王位宮に孫権の詔を伝えて、位宮の賜り物を遼東において奪われてしまったと伝えた。当然、嘘であるが。これを聞いた位宮は喜び、部下を山中に送らせて、張羣と杜徳を救出した。

この年、位宮は使者二十五人をつけて秦旦たちの帰国に送って行かせ、呉に着くと上表して臣下の礼を取り、多くの献上品を贈呈した。孫権は秦旦たちの行動を義であると讃え、四人に校尉の官を与えた。

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秦博(しんはく)

呂壱と同時期に中書となり、諸官庁および州や郡の公文書の検査監督にあたった。恐らく秦博は呂壱と一緒になり職掌を利用して勝手な権限をふるい、諫言を繰り返すようになる。

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秦狼(しんろう)

会稽・東治の不服住民の頭領で、蒋欽に討伐され捕まった。

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随春(ずいしゅん)

会稽郡東治の賊徒で呂岱に攻められる。

その後、随春は罪を認めて降伏すると呂岱は何と随春を扁将軍に任じ、それまでの裴かをそのまま指揮させた。

後に、随春は呉国の列将の一人にまでなった。

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鄒他(すうた)

鳥程の反乱勢力で孫策に討伐された。

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鄒臨(すうりん)

不服住民の頭領で蓋竹に本営を置いていたが賀斉に打ち破られる。

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成紀王(せいきおう)

孫皓の息子。彼が王になったとき、合計で十一の王が立てられていることから、孫皓には十一人の息子がいたことが分かる。

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成当(せいとう)

成当が死去すると、孫権はその軍を呂蒙に与えようとするが、呂蒙は成当らは国家のために力を尽くした人物ということでそれを固辞した。

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芮玄(ぜいげん)

字を文表といい、丹楊の人である。

兄の芮良のが死去すると兵士を継ぎ奮武中郎将に任ぜられる。そして、順調に手柄を立てると溧陽侯に封ぜられる。

孫権が息子の孫登のために人柄のよい女性を妻に選んでやろうとしていたとき、群臣たちは口を揃えて芮玄はその父親の芮祉や兄と共に三代に渡って名声があると称賛し、その結果、芮玄の娘が孫登の妃に選ばれたのであった。

226年、芮玄が死去したとき、孫権はひどくその哀惜したという。世にあまり知られていない名将の一人である。

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芮祉(ぜいち)

字を宣嗣(せんし)といい、孫堅のもとで各地の征伐に従って手柄を立てた。孫堅は芮祉をを推薦して九江太守に任じ、のちに呉郡太守に転じたが、ゆくさきざきで評判が高かった。

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芮良(ぜいりょう)

字を文鸞(ぶんらん)といい、孫策に従って江東の平定のために働き、孫策は芮良を会稽東部都尉に任じた。

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盛匡(せいきょう)

盛憲の息子で父親が孫権に殺害されると、魏へ逃亡した。

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盛憲(せいけん)

字を考章(こうしょう)といい、立派な度量を持つ人物であった。

考廉に推挙されると尚書郎の任にあてられ、後に呉郡太守にまで昇進をする。

呉郡太守を在官しているとき高岱の才能に気づくと彼を上計の役目にあてて、考廉に推挙した。だが、その後、許貢に呉郡を乗っ取られると高岱に助けられる。恐らく、その後、許貢が討伐されると呉郡太守の任に戻ったと思われるが、病気のために官を去っている。

孫策が呉郡、会稽の一帯を平定すると、その地の実力者たちを次々と誅殺していったが、盛憲は以前から高い名声を持っていたことから
特に目の敵にされてしまう。

もともと、盛憲は孔融と親しい交わりがあり、孔融は盛憲の危険を感じると曹操に手紙を送り盛憲を登用するように伝える。曹操は盛憲を召し寄せようとしたが、その前に盛憲は孫権に殺されてしまう。恐らく、これは孫策の死後のことだと思われる。

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盛暹(せいせん)

凌統と同郡の出身で、盛暹の気宇の大きさは凌統に勝るものだとして推挙された。

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盛沖(せいちゅう)

博士で孫休に学問を教えており、韋曜と共に孫休にも気に入られていた。しかし、盛沖も韋曜も歯に衣をきせぬ意見を吐いていたので、当時の左将軍であった張布が自分の過失が暴かれるのではないかと不安になり、二人を退けようとした。

孫休は張布の言い分を退けたが、また張布が邪推をして盛沖に被害がかかるのではないかと考え、盛沖らを側近くに招くことをしなくなった。

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盛曼(せいまん)

建平太守で陸抗と共に蜀の巴東の守備隊長の羅憲を包囲したが、呉は羅憲を攻めきれずに軍を引き上げた。

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石偉(せきい)

字を公操といい、南郡の人。

若くして学問を好み、自らの行いを修め正して怠ることなく、しっかりとひとり立ちして、何者にもその志操を乱されることがなかった。

茂才と賢良方正とに推挙されたが、それには応じなかった。

孫休が即位すると、特別に石偉を召し寄せ、石偉は官位を歴任して光禄勲にまで昇進した。孫休のもとでは、周奕と国中を巡って、各地の民風を観察し、官吏たちが民衆を苦しめるような政治をしていないか調べている。

孫皓が即位して世が乱れ始めると、石偉は年を取って持病が発したことを理由に退職を申し出た。そして光禄大夫の名誉職を与えられた。

呉が滅ぶと晋が石偉に爵位と官を与えようとしたが、石偉はいつわって精神に異常がきたし目が見えなくなったふりをして、決して晋が与えようとする爵位を受け取らなかった。そして、八十三で死去した。

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石印三郎(せきいんさんろう)

歴陽県に高さ百丈ほどある岩山が石印と呼ばれ、巫女の話ではその石印の神として三郎なるものがいるということであった。

その石印三郎は天下は太平になると告げていると巫女が孫皓に伝えると、孫皓はそれを喜び、三郎に印綬を与え、王に封じた。

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石幹(せきかん)

荊州領域で仕事に手腕を発揮している人物の一人として歩隲に名前を挙げられている。

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薛瑩(せつえい)

字を道言(どうげん)といい薛綜の息子。

孫休が即位すると散騎中常侍に任ぜられる。しかし、それから数年後に病気のために官職を辞職した。だが、孫皓が皇帝の座に就くと、再び官職に就き、左執法となり、選曹尚書となり太子が立てられると太子少傅を兼任した。

孫皓は薛瑩の父である薛綜が残した文章を読んで心を打たれ、薛瑩に父親の後をうけて同様の文章を作るように命じると、薛瑩はそれに応えて見事な詩を作った。

薛瑩はまた韋曜、華覈等と呉書の編集に携わった人物であり、韋曜と同様に獄に下されている。しかし、陸抗の必死の懇願もあり薛瑩は無事に助かったようである。

多くの有能な武将が死んだ孫皓時代に生き残った薛瑩は幸運であったといえるであろう。

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薛珝(せっく)

薛綜の息子で官位は威南将軍にまで昇った。

269年の冬、虞汜、陶璜らと共に荊州から交趾に遠征に出た。しかし、その帰路で死去した。

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薛兼(せつけん)

薛瑩の息子で字を令長(れいちょう)という。

優れた素質と大きな気宇を備えており、呉が晋に降伏した後は晋に仕え太子少傅も任ぜられる。

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薛綜(せつそう)

字を啓文(けいぶん)といい、沛郡の竹邑の人である。

薛綜は若い若い頃、沛郡を去り、一族の人を頼って交州に避難し、その地にいた劉煕のもとで学んだ。当時、交州では士燮とその一族が各郡を支配し、半独立国的存在になっていた。210年、孫権が歩隲を交州刺史として派遣すると、士燮らはその支配下に入った。

220年、呂岱が歩隲と交代する。孫権は薛綜を五官中郎将に任じ、合浦と交趾の太守とした。薛綜は呂岱と同行して九真まで遠征し、やがて呉に戻って謁者僕射を兼務した。

南方の情勢が安定したので231年、呂岱を召還して長沙の守備を命じた。薛綜は呂岱の後任に人を得られぬことを憂えて、過去の長官が私利を図って人々の叛乱を惹き起こした例を挙げ、国の安危は任用する人物の良否にかかっていると上訴した。

この年、建昌侯孫慮が鎮軍大将軍となり、薛綜はその長史として諸般は中央政府に入り、やがて尚書僕射に昇進した。

遼東の公孫淵は呉の藩国になると伝えたにも関わらず、翌年、孫権が派遣した使者を斬って魏へ送った。孫権は激怒して自ら公孫淵を討伐すると言い出した。薛綜は上書して、遼東を討って人民が逃散した地を得ても益はないこと、海路の風波の難は計り知れないこと、脚気の発症を妨げないこと、と三点を挙げて薄氷をを踏むような危険は避けるべしと諌めた。他の群臣も反対したため、孫権はやっと思いとどまった。

薛綜は文章に巧みで、孫権に命じられて作った皇祖に対する祝詞は見事な出来栄えで孫権を初め人々の称賛を得た。

240年、薛綜は選曹尚書の官に移り、242年に太子少傅に任じられ、選曹尚書も兼任したが243年に亡くなった。

薛綜が機敏に応対に長じていた逸話があるので紹介する。

ある時、蜀の使者である張奉が孫権の前で尚書の闞沢の姓名を分解して皮肉な解釈をつけて嘲笑した。しかし、闞沢はやり返さなかった。すると、薛綜は、そうおっしゃるなら、蜀とは何でしょうか?犬があれば獨り(ひとり)となり、犬が無ければ蜀となります。目を横にして身を屈め、お腹には虫が入っています。と言った。張奉は、では呉はどうなるか?と問うと、薛綜はたちどころに、口がなければ天となり、口があれば呉となります。万邦に君臨する天子の都ですと答えると一座の皆は喜んで笑った。

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薛礼(せつれい)

彭城国の相で劉繇を盟主としてたより、秣陵城に本拠を置いていたが孫策に攻められ敗走した。

その後、薛礼は笮融に殺害される。

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全禕(ぜんい)

全緒の息子で、呉が諸葛誕の救出に向かった際、母親を連れて魏に逃亡した。

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全懌(ぜんえき)

全琮の息子で、父が死去すると爵位と兵を継いだ。後に呉に帰属しようとした諸葛誕の救援のために寿春に赴いたが、魏の攻撃が厳しくなると城を出て真っ先に魏に降伏した。

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全紀(ぜんき)

全尚の息子で、黄門侍郎であった。孫亮から孫綝のクーデター計画を知らされるが、それを父親である全尚に告げた事から孫綝に計画が漏れてしまった。

自分のせいで孫亮が失脚したため全紀は責任を取って自殺をした。

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全寄(ぜんき)

全琮の息子で孫覇のもとに客分として身を寄せていた。二宮の変では当然、父親と共に孫覇側に立ち反対者に対する讒言を毎日のように行い顧譚、吾粲などを陥れている。

二宮の変で孫覇が自殺を命じられると、全寄も自殺を命じられた。

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全煕(ぜんき)

諸葛恪が孫峻に殺害されると、全煕は孫壱と共に諸葛融を攻めた。

後に諸葛誕の救援に向かった際、ほとんどの全家の武将が魏に降伏したが、全煕だけは陰謀がもれたため降伏する前に殺害された。

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全儀(ぜんぎ)

全緒の息子で、寿春で諸葛誕の救援に行った際に、全禕と共に魏に逃亡した。

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全呉(ぜんご)

全琮と孫魯班の間に生まれた子。都郷侯に封ぜられた。

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全柔(ぜんじゅう)

全琮の父親で、漢の霊帝の時代に考廉に推挙され尚書郎右丞に当てられたが、董卓が朝廷を乱すと、官位を棄てて故郷に帰った。

揚州の役所が彼をめしよせて別駕従事に任じ、のちに詔書がくだされて会稽東部都尉の官に任ぜられる。

孫策が呉郡にやってくると、全柔は配下の兵を引き連れて真っ先にその配下に入り、孫策は上表をし許可を得て彼を丹楊都尉に任じた。孫権が車騎将軍に任ぜられると、全柔を長吏に任じ、のちに桂陽太守となった。

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全緒(ぜんしょ)

全琮の息子で幼いときからその名を知られていた。奉朝請として出仕し、地方に出て兵権を授けられ、やがて昇進して揚武将軍となり、牛渚の督に任ぜられた。

孫亮が即位すると全緒は鎮北将軍に昇進した。東関の戦役では、全緒は丁封とともに建策をし、自ら兵を率いて真っ先に進んで魏を打ち破った。だが、全緒は齢わずか44で死去した。

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全尚(ぜんしょう)

娘は孫亮に嫁いでいる。

孫綝の専横が激しくなると、孫亮と共にクーデターを企てたが、事が漏れて先に捕らえられてしまい、零陵に移されるが後に殺害された。

因みに江表伝では、全尚が全紀の母親にクーデターの内容を話してしまった為に孫綝に漏れてしまったとされている。

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全静(ぜんせい)

全禕、全儀らと共に魏に降伏した。

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全琮(ぜんそう)

字を子璜(しこう)といい、呉郡銭唐県の人。

全琮の父の全柔は漢の霊帝の時代、考廉に推挙されて官途に就いたが董卓が政治を乱すと郷里の呉郡に帰り、会稽東部都尉に任じられた。194年、孫策が呉郡に来ると、全柔は兵を率いて真っ先にその配下となり、丹楊都尉に任じられた。

全柔はある時、全琮に命じて米数千石を呉に運び、交易させようとした。ところが、全琮は米を人々にわかち与えて船を空にして帰ってきた。怒る父に対し全琮は、空腹に苦しむ人々を見過ごせなかったと釈明した。全柔は前にも増して我が子の非凡さに感じ入った。

この当時、大勢の中原の人士が戦乱を避けて南方に移住した。全琮は家財を傾けて救恤し、その数は何百家族にものぼり、全琮の名は遠近に聞こえ渡った。孫権は全琮を奮威校尉に任じ、数千の兵を預けて山越の討伐を命じた。

219年、関羽が江陵から軍を北に進めて樊と襄陽を囲んだ。全琮は関羽討つべしと上訴して、その計を陳べた。すでに孫権は呂蒙との間で関羽襲撃案を練っていたので、事がもれるのを恐れて、その上訴に返事を与えなかった。

関羽を斬った後、公安で催した祝賀の席上で孫権は先の上訴を高く評価して、今日の勝利はまた君の手柄でもあると言って、全琮を陽華亭侯に封じた。

222年、孫権が劉備を夷陵にて倒すと、直後に魏は曹休に張遼、臧覇らを二十余軍を率いさせ建業の西南の洞浦に兵を進めた。孫権は呂範に命じて諸将を指揮して防がせる。全琮は敵が長江の中洲に渡って来たところを攻撃して、将軍尹廬の首級を挙げ、綏南将軍に昇進、銭唐侯に封じられた。

228年、周魴の計略にかかって皖に進んできた曹休を全琮は朱桓と各々三万の兵で迎え撃ち、石亭において大勝した。翌年、衛将軍、左護軍、徐州牧に昇進し、孫魯班を妻に賜った。

233年、呉は孫権自ら合肥を攻撃し、一方、全琮は五万の兵を率いて六安に向かった。六安の民は逃散したため、諸将は兵を分けてそれらの者を捕らえ呉に連行しようと建策した。全琮は僥倖を期待して危地に入るのは万全ではないと言って許さず、そのまま帰った。

246年、全琮は右大司馬、左軍師に昇進した。全琮は恭順な性格で、他人に決してきつい言葉で反対しなかった。孫権に深く信頼され、一族の子弟も各々取り立てられたが、少しも驕る態度は見せず、謙虚に人々に接した。

二宮の変が起きると、全琮は子の全寄とともに魯王に与した。陸遜は全琮に手紙を送り、全寄の行動を擁護するのは家門の禍いになると忠告した。全琮はそれに従わなかったばかりか、以後、陸遜とは険悪な仲になった。後に全寄は孫和を貶めた罪で死刑になる。

全琮の不幸は子供たちや一族の出来が揃って悪かったことにある。彼のほとんどの一族は諸葛誕の乱の際に魏に下った。

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全端(ぜんたん)

全琮の息子。

将軍の地位であったが、諸葛誕の救援に行った際、他の全家の者と共に魏に降っている。

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全夫人(ぜんふじん)

全夫人は全尚の娘で従祖母に当たる全公主(孫魯班)に愛され、全公主が孫権に進見する時はいつもお供した。全公主は孫和の母の王夫人と不仲であったため、あらかじめ手を打とうと考え、全氏を潘夫人を生んだ孫亮の妃に迎えるように孫権に勧めた。

孫亮が太子になると全氏はその妃となり、孫和と王夫人は廃されて全公主の思惑通りになる。252年、孫亮が帝位に就くと、全夫人は皇后となり、全尚一族は外戚として、呉始まって以来の権力を誇った。258年、孫亮は孫綝の専横が目に余り、これを誅殺しようとして失敗、廃されて候官侯とされ、全夫人も夫の任地に同行した。夫人は頭もよく、容姿に優れ、280年の呉滅亡後、候官から戻り、晋の永寧年間に死去した。

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単甫(ぜんほ)

江南の八絶と言われた趙達に学問を教えた人物。

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宣威王(せんいおう)

孫皓の息子で、全部で11名の王がいたことから、皇太子の1人を入れて孫皓には12名の息子がいたことが分かる。

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詹彊(せんきょう)

賀斉が商升を攻めた際、商升は賀斉に降伏することを決意したが、詹彊と張雅はそれを不服として商升を殺害して賀斉に抵抗した。

だが、後に内部分裂を起こしてしまい、その隙を狙われて賀斉に一度の攻撃で打ち破られると部下たちを引き連れて賀斉に降伏した。

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詹廉(せんれん)

孫皓の宦官の一人で、孫皓から恩賞として高い爵位と兵士を指揮する権限を与えられていた。

当然、呉は孫皓の代で滅んだ。

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銭欽(せんきん)

呂壱と同様、中書典校の地位にいたと思われ、校事(監察制度)を行い人々から恨まれ、結局は誅殺されてしまう。

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銭銅(せんどう)

鳥程に元々いた勢力で、孫策が江東を制圧したときに討伐された。

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銭博(せんはく)

交州刺史の張津の部下であったが、その後、張津が殺害されると交州の反乱勢力となった。

だが、呂岱が交州刺史になると呂岱に降伏を申し入れ、高涼西部都尉に任じられた。

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鮮于丹(せんうたん)

鮮于丹の活躍は正史三国志にて随所に見られる。

-劉備が蜀を手に入れた際、呉は荊州の返還を求めたが、劉備が返還をしなかったため、呂蒙は鮮于丹、徐忠、孫規らを指揮して長沙、零陵、桂陽の三郡を攻め落とした。

-222年、劉備が関羽報復戦で夷陵にせめてきた際、陸遜は鮮于丹、朱然、潘璋、宋謙、韓当、徐盛、孫桓らを率いて蜀軍を降した。

-223年、賀斉が孫権に命じられ、晋宗を攻めた際、鮮于丹と糜芳を率いて難なく晋宗を生け捕りにしている。

-226年、孫権が石陽を攻めた際、孫奐は鮮于丹に命じて淮水流域への通路を遮断させ、自らは高城を攻め落とした。

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沮山(そざん)

黟の反乱勢力の頭目で陳僕と二万戸を集めて林歴山に籠った。林歴山は険阻であったが、賀斉は別働隊を険しい崖に登らせると一斉にドラを叩かせ大勢の兵士が山を登ったと欺かせると沮山らは敗北した。

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祖郎(そろう)

涇県の大帥(一揆の頭目)で、孫策が袁術の元に居た頃、呉景を頼って数百人の部下を集めたが、祖郎の襲撃を受け全滅に近い被害を出した。

その後、孫策は祖郎の討伐を行うが、祖郎軍の中に一人取り残されてしまい危機を迎えるが程普の活躍により祖郎軍の包囲網から命からがら脱出できた。この討伐戦で孫策は祖郎を撃破している。

後に孫策が袁術と手を切ると、袁術は祖郎たちに印綬を授けて山越を扇動して孫策に攻撃をかけるように謀った。だが、孫策は逆に祖郎を討伐し、生け捕りにした。

すると、孫策は自分は有能な人材を必要としている時期であると言い、祖郎の枷を外し門下賊曹に任じ、軍が凱旋帰国するときは祖郎と太史慈を先頭に立たせた。

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蘇馬(そば)

長沙、零陵、桂陽三郡の不服住民の首領の一人で朱治に討伐された。

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蘇飛(そひ)

黄祖軍の都督で、甘寧の友人。

蘇飛は度々、甘寧の目覚しい活躍もあり、黄祖に甘寧を重く用いるように進言したが黄祖はそれを聞かなかった。甘寧は黄祖の下で働くことに嫌気をさしていたが、黄祖の下から脱出が不可能であったため悶々としていた。そこを蘇飛は甘寧を孫呉軍の領土に近い県の長に置き、甘寧を孫呉軍に逃亡できるように導いた。

後に、黄祖は孫呉軍に敗れると蘇飛は捕らえられ首を落とされそうになったが、甘寧が孫権に命乞いをして蘇飛は助かった。

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宋謙(そうけん)

孫策が曲阿にて劉繇の陣営を岡の上から見ているとき、十三名の騎兵を従えているが、その中に宋謙の名前がある。宋謙は韓当、黄蓋と名前を並べて勇猛な士として紹介されている。

合肥の戦いでは張遼の急襲により、宋謙と徐盛軍は混乱をしてしまい我さきと逃げ出してしまう失態を演じている。

222年、劉備が関羽報復戦と称して呉に攻め込んでくると、宋謙は陸遜に率いられ劉備軍と対峙した。そして、持久戦の末に、蜀の五つの駐屯地を攻め、全ての駐屯地を破り、そこの武将を斬った。

更に、宋謙は徐盛、潘璋と共に劉備を白帝城にまで追い詰め、攻撃をすべく上表したが、これは魏の侵攻を見通していた陸遜によって却下されている。

宋謙の名前は残念ながらメジャーではない。だが、彼は孫策時代から使えている忠臣で、孫策時代は韓当、黄蓋と名前を並べ、孫権時代になると常に徐盛と名前を並べている印象がある。

もっと評価されるべき武将ではないかと個人的に感じる。

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宋豪(そうごう)

元々、魏の謝奇の配下であったが、謝奇が呂蒙の襲撃により恐れをなすと、宋豪は孫子才と共に老弱を引き連れて呂蒙のもとに降服してきた。

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宋寿(そうじゅ)

江南の八絶の一人で、夢占いをすれば十のうち一つも外すことがなかった。

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宋定(そうてい)

呉の武将で呂蒙の駐屯地の側に居た。宋定が死ぬとその軍は孫権の命令により呂蒙軍に組み込まれようとしたが、呂蒙はそれを拒み、宋定の息子が引き継ぐべきだと上表した。

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曹不興(そうふこう)

江南の八絶の一人。

絵画に巧みな人物であり、孫権の命を受けて屏風に絵を描いたとき、誤って筆を落として白絹の上に汚点をつけてしまった。しかし、曹不興はその汚点を利用して、それを蝿の絵にする。その屏風が進上されて使用に供されたとき、孫権は本物の蝿だと思い、手でそれを払おうとした。

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曹輔(そうほ)

器量の小さい小役人と陸凱に評されている人物。当然、孫権時代は用いられなかったが、孫皓には気に入られたようである。

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曾夏(そうか)

南海郡、掲陽県の不服従民の頭で、数千人の配下を集めて十数年も反抗をしていた。呉政府も侯の爵位を約束し、何とか呉に編入するように務めてきたが結果が出なかった。

しかし、鍾離牧が使者を送って気持ちを和らげると、すぐに帰順して従順な民となった。

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臧均(ぞうきん)

臨淮の人で、諸葛恪が孫峻に誅殺されると、上表して諸葛恪の遺骸を収めて葬りたいと願い出た。

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臧宣(ぞうせん)

琅邪の相で、張鉱の知り合いである趙昱が笮融に殺害されると、その一族の者を張鉱から委嘱された。

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孫安(そんあん)

孫賁の子で孫賁死後、しかるべき地位に就いた。

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孫怡(そんい)

将軍で239年に遼東に赴き、魏の守備将の張持と高慮らを撃ち、その配下の男女を捕虜とした。

孫怡は東方の州の人ではあるが、孫権の一族ではない。

孫怡は孫登の遺書にもその名が出ており、立派な人物の一人として紹介されている。

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孫偉(そんい)

孫賁の弟である孫輔の息子。父親の死後、しかるべき地位に就いた。

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孫異(そんい)

孫韶の子で領軍将軍まで昇進をしている。

丁奉と共に漢水流域に軍を進めて、蜀を援護すべく魏を牽制したが、蜀は魏に降伏してしまった。

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孫彧(そんいく)

元々、呉の武将であったが魏に降り、後に晋の使者として文帝の手紙を持ち孫皓に降伏するように勧告をしにきた。

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孫壱(そんいつ)

孫奐の息子。

孫峻が諸葛恪を誅殺すると孫壱は全煕や施績とともに諸葛恪の弟の諸葛融を攻め自殺させた。

その後、孫壱は鎮南将軍から鎮軍将軍へと昇進し、仮節を授かって夏口の督となった。

だが、孫峻が死去するとその後を継いだのが孫?であり、その孫?は滕胤と呂拠を誅殺した。すると、滕胤も呂拠も孫壱の娘を娶っていたこともあり、孫?は朱異を遣わして極秘裏に孫壱を襲撃させようとした。だが、孫壱はこの企みに気づき魏へと亡命をした。

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孫壱(そんいつ)

二宮の変の原因の一人である孫覇の息子。

宛陵侯となったが、孫皓が即位すると孫覇が孫和と仲が悪かったことを取り上げ、孫壱は爵位と封国を削られ会稽郡の鳥傷県に強制移住させられた。

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孫胤(そんいん)

孫皎の息子で孫皎が死去すると丹楊侯に封じられた。

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孫英(そんえい)

孫登の息子で孫登が死去すると呉侯に封ぜられた。

254年、孫英は孫峻が権力を欲しいままにしていることから孫峻の暗殺を企てたが発覚し自殺をした。だが、呉歴には孫峻の専横に怒った人々が孫峻を殺して代わりに孫英を立てようとしただけで、孫英は実はその謀りごとを知らなかったようである。

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孫奕(そんえき)

孫韶の息子で宗正卿となっている。

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孫越(そんえつ)

孫韶の息子で孫韶の跡を継ぎ、右将軍にまで昇った。

戦歴としては、264年、魏の武将で新附督の王稚が海から句章に侵入すると、これを迎え撃って船一隻を拿捕し、三十人を捕虜としている。

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孫恩(そんおん)

孫綝の弟で武衛将軍。

孫亮の謀に孫綝が気づくと、孫恩が軍を率いて劉丞を蒼龍門外で攻め殺し、孫亮を退位させて会稽王とした。その後、孫休を皇帝として迎え入れると、孫恩は丞相代行として百官を用意して永昌亭まで孫休を出迎えた。その後、孫恩は御史太夫、衛将軍、中軍督に任じられ、県侯に封じられた。

その後、孫綝は誅殺されており、孫綝の一族も全て殺されていると書かれているため、孫恩はその時に殺されたと考えられる。

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孫河(そんか)

孫韶の叔父で字を伯海(はくかい)といい、もともとの姓は愈氏でこの愈氏も呉の人であった。

呉書には、孫河は孫堅の族子で、叔母の愈氏の養子となり、のちにまた孫の姓に戻っている。孫河は実直な性格で、議論よりも行動をたっとび、積極的に自分の職務に力を尽くした。

若い時代から孫堅のもとで征伐に従事し、常に先鋒を務めている。のちに孫堅の近衛兵を指揮し、宮中のことを取り仕切るなど、腹心として信任を受けた。

孫堅死後、孫策の下にいた武将はたったの二人で呂範と孫河のみである。そして、この二人のみが孫策が一番苦しい時期を共にしている。

孫河は孫策のもとでは呉郡、会稽の平定に従事し、孫策が死去すると孫権のもとで李術の討伐に従い、李術が敗れると、孫河は威冠中郎将に任ぜられ、廬江太守の職務にあたった。

その後、孫翊が殺害されると、孫河は宛陵からかけつけて、媛覧と戴員に問題があると厳しく責め立てた。すると媛覧らは自分等の立場が不利であることから孫河を殺害した。

孫河の死は、孫呉政権では痛手であっただろう。孫河は人を見る目もあり、吾粲がまだ名を知られてないときから彼の非凡さに目をつけ取り立てた。その孫河の血は孫桓へと継がれていく。

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孫恢(そんかい)

孫韶の子で武陵太守となった。

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孫楷(そんかい)

孫韶の子で、武衛大将軍、臨成侯となり、弟の孫越にかわって京下の督に任ぜられた。

孫楷は永安で反乱を起こした施但らが孫皓の弟の孫謙を脅して建業を襲撃したとき、讒言により二股をかけていたと言われ孫皓に難詰されていた。

その後、孫楷は宮下鎮の驃騎将軍に任ぜられて都に呼ばれると、命の危険を感じて妻子と子飼の兵士等を数百人引き連れて晋に逃亡した。

呉録では孫楷は厳格に身を処したという点では同じく晋に亡命した孫秀に及ばなかったが、世間的にな名声は孫秀より高かったとされている。

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孫諧(そんかい)

孫賁の孫で城門校尉となった。

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孫闓(そんかい)

孫綝の弟で長水校尉、亭侯に封ぜられ、都の周りに軍営を張って孫綝が朝廷を牛耳るように助けた。

後に孫綝が誅殺されると、船で魏に降ろうとしたが追手に捕まり殺された。

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孫幹(そんかん)

孫綝の弟の一人で偏将軍。恐らく孫綝が誅殺されたときに殺害されたと思われる。

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孫希(そんき)

孫登の息子で早世している。

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孫奇(そんき)

二宮の変のとき、孫覇に加担して孫和を讒言していた。しかし孫覇が自殺を命じられると誅殺された。

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孫基(そんき)

孫覇の息子で呉侯に封ぜられた。宮廷に仕え孫亮の側近くに侍していたが、皇帝の馬を盗んだと言うことで獄に降され裁判に付された。だが、孫亮の恩赦で死刑は免れた。

しかし、孫皓が即位すると、孫皓の父の孫和と孫基の父の孫覇が仲が悪かったことを理由に会稽郡に強制移住させられた。

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孫晞(そんき)

孫皎の息子で兄の孫胤が死去すると、その爵位と兵を継いだ。だが、その後、罪を犯し自殺をした。

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孫規(そんき)

呂蒙に率いられ荊州三郡を攻略している。

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孫熙(そんき)

孫瑜の五人の息子の一人。

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孫熙(そんき)

孫賁の子で、父親の死後、しかるべき地位に就いた。

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孫儀(そんぎ)

孫皎の息子で無難の督となった。

しかし後に孫峻の暗殺を企て、事が発覚してしまい自殺をした。

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孫誼(そんぎ)

孫河の息子で海塩県の長となったが、若くして死去した。

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孫休(そんきゅう)

字は子烈(しれつ)

258年、弟の孫亮が孫綝のクーデターに失敗して廃されると、孫休は任地の会稽から迎えられて帝位に就いた。孫休が齢二十四のときである。孫休は孫綝を丞相の地位に任じると共に、その弟たちも昇進させ、それぞれ侯に封じた。

孫休はその前に孫権の死後、実権を握った諸葛恪によって丹楊郡に移された経験を持つ。これは諸葛恪が諸王たちの長江ぞいの要所駐屯を好まなかったためであり、自分の政治のやり方に介入されることを警戒したからだった。

丹楊太守の李衡はしばしば法によって孫休の過失を糾問した。たまりかねた孫休は願い出て任地を会稽郡に替えて貰ったくらいの厳しさだった。孫休が帝位に即くと、李衡は魏に逃げようとしたが、妻の習氏にその非を諌められ、獄に赴いて罪を乞うた。帝位に即いたばかりの孫休は、私怨によって李衡を殺せば人心を得られぬことを懸念して、詔を下して許した上、威遠将軍を加官した。

孫綝の一門から五人の侯が出て禁衛の兵を指揮下に置き、権勢は主君を凌ぐ有様で、彼が上陳する事柄は全て聴許されたうえ、変事を恐れた孫休からは度々賞賜があった。

そうしたある日、孫休は孫綝から献上された牛肉と酒を受け取らなかった。孫休としては異例の態度である。これは孫綝がどう反応するか、憤激のあまり廃位を口走らないか、もし口走ったら機先を制して殺害しようという狙いがあった。

そうとは知らず、孫綝は張布を訪れ、私を軽んじるなら廃位を考えなければと言ってしまった。張布はこれを孫休に伝えると、確証を得た孫休は孫綝誅殺の機会を狙う。そして、冬至後の祭事にて丁奉らの協力を得て孫綝を捕らえ、その罪状を数え上げ誅殺した。これにより権臣による専横は終わりを告げたように見えた。

しかし、今度は孫綝に代わって張布や濮陽興が権力を握るようになった。二人とも以前から孫休と親しい間柄にあり、濮陽興は丞相として軍事や行政を取り仕切り、張布は左将軍に任じられて宮省の事を司ることとなった。孫休は彼らに政治の実務を委ね、自分は典籍の研究に意を集中し、百家の学説すべてに目を通そうとしていた。

そして韋昭や盛沖と共に道徳や六藝について語り合いたいと望んでいた。しかし、張布は、彼らが側近くに侍るようになると、隠していた自分の過失が暴かれ、政治を専らにすることが出来なくなるのを恐れ、いろいろ口実を設けて近づけないようにした。孫休もこれを分かっていて、心中不愉快であったが無用な摩擦が君臣の間に生じることを恐れ、韋昭らを招くのを断念した。

263年、蜀の使者が訪れ、魏の侵攻が始まったことを伝えた。孫休は魏を牽制するために、丁奉が軍を率いて寿春に軍を進めたが、その前に蜀は魏に降伏をしてしまった。

264年、孫休は陸抗、歩協、留平、盛曼らに命じて、蜀の永安を守る羅憲を攻撃させた。しかし羅憲はよく守って屈せず、七月、魏の胡烈が二万の兵を率いて救援に駆けつけたため、陸抗らは兵を還した。

間もなくして孫休は急死する。臨終に際して孫休は濮陽興を呼び、皇太子である自分の息子を指差して後事を託したが、その甲斐もなく、濮陽興は孫皓を皇帝として立てた。

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孫拠(そんきょ)

孫綝の弟で右将軍。孫綝の命により蒼龍門内にあって宿衛にあたり、朝廷の動きを封じていた。

しかし、孫綝が誅殺されたときに殺されたと思われる。

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孫羌(そんきょう)

字を聖台といい孫賁の父親で、孫堅とは同母兄。

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孫恭(そんきょう)

孫静の孫で、孫峻の父親。散騎常侍となる。

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孫昕(そんきん)

孫賁の弟である孫輔の息子。父親の死後、しかるべき地位に就いた。

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孫歆(そんきん)

孫賁の孫で楽郷の督となった。

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孫瑾(そんきん)

孫皓の息子で269年に太子に立てられた。呉が滅びると晋で中郎に任ぜられた。

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孫建(そんけん)

孫桓の弟の孫俊の息子。父親の爵位を継ぎ、平虜将軍となった。

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孫権(そんけん)

後日UP予定

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孫謙(そんけん)

孫皓の弟で永安侯に封じられた。

その孫謙は、永安の山賊に施但囚われ、脅迫され、孫皓を倒した後の皇帝にされようとした。

その後、施但軍は建業まで兵を進めたが丁固と諸葛靚に敗れ孫謙を置いて敗走した。孫謙は囚われたとき馬車の中にポツン・・・といたという。

孫謙は結局、孫皓の命により毒殺された。

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孫謙(そんけん)

孫静の息子で恐らく末っ子。

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孫弘(そんこう)

会稽の人で中書令。

本性をかくして上にへつらい、陰険で腹黒い人物であり、二宮の変の際には孫覇派についている。

張休はそんな孫弘に対して憤りを感じていたが、二宮の変で孫和、孫覇派の人間が両成敗されると孫弘はその機に乗じて張休に自殺を命じるよう仕向けた。

その他に、孫弘は孫権が病気であることを良いことに、詔をでっち上げ朱拠に自殺を命じている。

その後、孫弘と仲が悪かった諸葛恪が呉政権の中心になると、報復を恐れた孫弘は偽の詔で諸葛恪の命を狙ったが、事が漏れて誅殺された。

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孫香(そんこう)

字を文陽といい、孫策とは親戚である。

郡の役所に出仕して主簿や功曹となった。孫香は、孫堅の配下で征伐に従い手柄を立てて郎中に任ぜられた。のちに袁術の為に奔走し、征南将軍を加官されて寿春で死んだ。

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孫鉱(そんこう)

孫瑜の五人の息子のうちの一人。

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孫高(そんこう)

孫翊の旗本で孫翊が媛覧、戴員に謀により殺害されると、孫翊の妻である徐氏に媛覧が手をつけようとした。

そこで徐氏は孫高と傅嬰と共に謀り、逆にこの二人を殺した。孫高はその功として牙門将に抜擢された。

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孫皎(そんこう)

字を叔朗といい、初め護軍校尉に任じられ二千の兵を預かった。曹操は212、214、215、217年と度々呉に兵を向けてきたが、孫皎はその都度駆けつけて、曹操に付け入る隙を与えず、精鋭の名を謳われた。

都護・征虜将軍に昇進し、程普に代わって夏口の軍の総指揮に当たり、215年、黄蓋と兄の孫瑜が死去すると、彼らの配下の軍も併せて指揮した。

孫皎は財を軽んじてよく施し、広く交友関係を結んだ。諸葛瑾とは特に厚く交わり、廬江の劉靖には時勢の利と不利を学んだ。江夏の李允には諸事務を広陵の呉碩と河南の張梁には軍事をそれぞれ委ね、親身になって待遇したので彼らは進んでこれに応えた。

こんな孫皎だが気性の荒い部分もあったようで、甘寧とは酒の席で大喧嘩になった話が残っている。そんな孫皎の性格を危惧して、孫権は、慎み深く身を処し、細かなことに気をつけ、広い心を持たねば人の支持は得られない。過ちのない人はいないが、大切なのは過ちを改められるかどうかだと反省を促した。孫皎はこの手紙を読むと陳謝をして、甘寧とは厚い交わりを結んだ。

219年、関羽の背後を衝いて江陵を襲撃することになった。孫権は孫皎に命じて呂蒙とそれぞれ左右の軍の指揮を取らせようとしたが、これは呂蒙が赤壁の戦いの時の周瑜と程普の例を挙げて反対をした。孫権もすぐそれに気づき孫皎を後詰めとした。関羽を捕らえ荊州を平定したこの戦いにおいて孫皎の働きは大きかったと思われる。

関羽が捕らえられて首を切られたのは219年の冬であるが、孫皎もその後すぐに死去している。

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孫暠(そんこう)

孫静の5人の息子のうちの一人。恐らく長男だと思われる。

孫策が死去すると、定武中朗将だった孫暠は鳥程に駐屯していたが、孫権が跡継ぎに任命されたにも関わらず会稽郡を自分の支配化にしようとした。

だが、会稽郡を守る兵士により説得をされたようである。因みに会稽典録には虞翻が説得したとされている。

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孫興(そんこう)

孫賁の甥で、父親の孫輔が死去するとしかるべき地位についた。

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孫觥(そんこう)

孫休の次男である。本来は雷(上)大(下)を組み合わせた造語を使っている。発音が觥と同じであるため、ここではその文字を使っている。

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孫子才(そんしさい)

元々は魏の謝奇の配下であったが、その謝奇が呂蒙に敗北すると、老弱を引き連れて呂蒙に降伏した。

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孫咨(そんし)

孫皎の息子で羽林の督となった。

滕胤が孫綝に対して反抗をした際、滕胤に呼び寄せられている。

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孫綽(そんしゃく)

孫静の孫で、孫綝の父親で安民都尉となった。

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孫孺(そんじゅ)

字を仲孺(ちゅうじゅ)といい、孫堅のまた従弟で郡の役所に出仕して主簿や功曹となった。

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孫秀(そんしゅう)

孫匡の孫にあたり、前将軍で夏口の督に任ぜられた。

孫秀は皇族の中でも特に孫皓とは血の繋がりが近く、その孫秀が夏口の兵権を握っていることに孫皓は不安を禁じえなかった。

すると孫皓は殿中列将の何定に兵士五千人を率いらせ長江を遡らせた後、夏口で巻狩りを行わた。

もともと、孫秀は孫皓が快く思っていない噂も聞いており、命の危機を感じたため、妻子や子飼の兵士数百名を連れて晋に亡命した。

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孫述(そんじゅつ)

孫賁の孫で武昌の督となり荊州の統治にあたった。

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孫俊(そんしゅん)

孫桓の弟で字を叔英(しゅくえい)といい、度量が大きく、文武両面に才能があった。

定武中郎将に任ぜられ、薄落に駐屯して守備にあたっていたが、残念ながら早世したようである。

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孫俊(そんしゅん)

孫和の四人いた息子

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孫峻(そんしゅん)

字を子遠(しえん)といい、孫静の曾孫にあたる。

孫権の晩年、孫峻は武衛都尉、侍中となり宮中の警護を担当していた。孫権は病状につくと、後事を誰に託すべきか群臣に問うた。朝臣は皆、諸葛恪を推し、孫峻は上表して諸葛恪の器量は補政の大任に担う相応しい人物であると述べた。孫権は諸葛恪の自分の意見を押し通す意見を危ぶんだが孫峻は彼をおいて他にはいないと強く推薦した。

諸葛恪は後事を託されると快く思わない孫弘は詔を偽造して諸葛恪を嵌めようとした。しかし、孫峻がこれを諸葛恪に告げ、孫弘は誅殺された。

諸葛恪は東興で魏に大勝したのに気を良くして、群臣の反対を押し切って翌年、強引に魏に出兵した。そして、その戦いで多くの兵を失った。

孫峻はその時、自分の職掌に干渉されたことを怒っていたため、この機に乗じて宮廷において諸葛恪と誅殺した。このクーデターにより孫峻は丞相、大将軍に昇進し中央と地方の軍事を統括する立場になる。

諸葛恪を殺してから孫峻は驕り高ぶり悪政を始めることとなる。そして、その事態に憤った人々は孫峻を暗殺しようとしたが全て失敗に終わってしまう。因みにクーデターを起こそうとした人物の名に、孫英、孫魯育などがある。

256年、孫峻は魏に向けて兵を進める。だが、味方である呂拠の軍が整然と統率されているのを見て何故か警戒心を起こしてしまい、気分が良くないといって早々に軍を引き上げた。

度重なるクーデターで精神的に衰弱していたのだろうか?孫峻は諸葛恪に殴打された夢を見て、これが原因で病状に就き齢三十八で死んだ。

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孫遵(そんじゅん)

公安の督で陸抗の命により、羊祜が攻めてきた際、長江の南岸を移動しつつ進出を防いだ。

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孫助(そんじょ)

孫河の長男で曲阿県の長となったが若くして死去した。

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孫諝(そんしょ)

交趾太守で徴用令を出して技術者を選び千余人を建業に送った事があったようで、その後、視察のために中央から役人がやってくると、人々はまた徴用されるのではないかと怯えた。

そこで呂興はこの動揺に乗じて兵士や民衆を扇動し反乱を起こし孫諝を殺した。

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孫丞(そんじょう)

孫河の曾孫で字を顕世(けんせい)といい、学問を好み、文才があって、孫丞が作った“蛍火の賦”は世間に流行した。

黄門侍郎に任ぜられると顧栄とならんで皇帝側近となった。孫皓が皇帝の時代には多くの者が罪を得たり咎められたりしたが、幸いにも孫丞と顧栄はそういうことを受けずに無事に過ごすことが出来た。

孫丞は数少ない孫皓に用いられた親族であった。

後に呉が晋に平定されると、晋にて涿県の令に任ぜられて人々の称賛を受けるような治績を挙げた。

永安年間、陸機が成都王の大都督となると孫丞をまねいて司馬の任につけたが、後に陸機とともに殺害された。

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孫承(そんしょう)

孫奐の息子で父親が死去すると爵位を継ぎ、昭武中郎将として父に代わって兵を率いて郡の太守の職務にあたった。だが早世だったようである。

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孫松(そんしょう)

字を子喬といい、孫翊の息子で射声校尉、都郷侯に任ぜられている。

孫松は人との交わりを大切にし、財貨をおしみなく与えて人々のために用立てた。彼がは巴丘の駐屯軍の司令官であったとき、しばしば陸遜に対し自分の施策の可否を尋ねた。

ある時、孫松が小さな失策をした際、陸遜は面と向かって孫松を責めた。孫松が不愉快そうな顔を見せたので、後に陸遜が何故か尋ねると、孫松は笑いながら自分に対して激しく腹を立てただけで、どうしてあなたに恨みを持ったりするのでしょうと言った。

孫松は諸葛亮にも評価されていたようで、彼が死去すると諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送り、呉国の若い方々には親しい感情をもっておりますが、中でも子喬どのは立派な器量を持っておられましたので、彼の他界の報せには心を痛めておりますと書いた。

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孫邵(そんしょう)

不思議な人物である。ほとんど名前が知られていない人物だが実は呉の最初の丞相である。

字を長緒(ちょうしょ)といい、北海郡の人である。つまり孫という苗字ではあるが、孫呉の孫家とは全く違う血筋の孫家である。

身の丈は八尺あり、最初は孔融のもとで功曹の官についていた。その後、劉繇の配下となるが、孔融は孫邵のことを朝廷に立つべき人材と絶賛していた。

孫権が江東を支配すると孫邵は度々献策をし、孫権の事を認めさせるためにも朝廷に対して献上物を送るべきだと進言すると、孫権はその意見にすぐに従った。

又、孫邵はその他の功績としては張昭と共に朝廷の儀礼制度を改めている。

孫邵は廬江太守に任ぜられるとその後、車騎長史に昇進し、孫権が皇帝の座につくと丞相、威遠将軍となった。因みに孫邵が丞相となったとき、呉国内では張昭が丞相になるべきだという意見が強かったらしい。

その後、孫邵は張温等に自分のことをあげつらった上奏をされたため、官位を辞して罪を請うが、孫権はその罪を許してもとの職に戻らせている。

孫邵は齢六十三で死去するが、それだけ生きて丞相の位に就いたにも関わらず彼の伝は立てられていない。

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孫昭(そんしょう)

孫輔の息子で、父親が死去するとしかるべき地位についた。

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孫紹(そんしょう)

孫策の唯一の息子。

孫権が皇帝となると呉侯に封じられ、後に上虞侯に改封された。

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孫紹(そんしょう)

正史三国志には張昭らと共に儀礼制度を制定したと書かれている。だが・・・この人物は孫邵の間違いなのか、それとも孫邵が実際に儀礼制度制定に加わっていなかったのか・・・事実は分からない。

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孫韶(そんしょう)

字を公禮(こうれい)といい孫河の甥になる。

孫河が殺害されたとき孫韶は齢十七だったが、廬江郡に残された伯父の兵士をまとめるとともに、長江を降って京城を補修し、敵の侵攻に備えた。孫権は丹楊の変事を聞くや豫章郡から取って返し、途中、丹楊に立ち寄って混乱を沈め、呉郡に帰還した。

夜、孫権は京城に到着、これを攻撃するふりをして、孫韶がどんな対応をするか、試してみた。城兵は城壁に登って味方に檄を飛ばして敵襲を報じ、同時に激しく矢を浴びせかけた。孫権が敵ではないと告げると、矢はぴたりと止んだ。

翌日、孫韶を引見して昨夜の備えを大いに褒め、即座に承烈校尉に任じ、孫河の部局を委ね、曲阿、丹徒二県を封邑として与え、自分の判断で県の幹部を任用できるなど、孫河と同じ待遇を与えた。

孫権が呉王となると孫韶は揚威将軍に昇進し、建徳侯に封じられた。225年冬、前年に続いて魏の文帝曹丕は十万余の兵を率いて広陵に進出した。しかし寒さが厳しくて長江は結氷し、船を乗り入れられなかった為、曹丕は嘆いて軍を引き返した。すると孫韶は武将の高壽らに決死の兵を五百を与え、夜陰に紛れて襲撃させた。曹丕は大いに驚き副車や羽蓋を捨てて遁走した。

孫韶は二十数年もの間、国境守備の将軍を務めてきた。彼は士卒を手厚く待遇してその死力を得、斥候を送って敵の動性を探り、備えを固めたので、滅多に敗れなかった。

孫権が青州、徐州の駐屯地や要害、遠近の人馬の多寡、魏将の姓名などを孫韶に問うと、孫韶は全ての質問に答えた。孫韶は身長八尺、温雅な風貌を具えていた。孫権は喜んで、私は久しく公禮を見なかったが、図らずもこんなに立派になっていたとは、と言った。

この年、孫権は帝を称し、孫韶は鎮北将軍に任じられ、幽州の牧、假設を加えられた。

241年、齢五十四で孫韶は死去した。

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孫慎(そんしん)

孫河の孫で夏口の督で鎮南将軍となる。277年に江夏から汝南に攻め込み、焼き討ちをかけてその地の住民を略奪して帰還している。

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孫震(そんしん)

孫賁の孫で無難の督となり、護軍将軍として呉と晋の最後の戦いに参戦している。圧倒的な晋軍を相手に奮戦するものの、最後は張喬の裏切りに合い討ち取られる。

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孫盛(そんせい)

222年、曹真、夏侯尚、張郃等が江陵に侵攻してきた際、孫権の命により一万の兵を率いて長江の中洲に陣取り外側から朱然を援護したが、張郃の攻撃に耐えられず退却している。

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孫静(そんせい)

字を幼臺(ようたい)といい、孫堅の末弟である。

孫堅が董卓討伐の兵を挙げると、孫静は同郷の人や同族の者を五、六百人糾合して後の守りを固め、人々はよくその指示に従った。

196年、孫策は軍を進めて会稽の攻略に向かうと、孫静は呼ばれて一家眷属を引きつれ銭唐にて合流した。会稽太守の王朗は長江対岸の固陵を堅守し、孫策は攻めあぐねていた。すると孫静は敵の備えがない査瀆に足場を築くのが先決だと言い、先鋒を買って出た。

孫静は、連日の雨で水が濁り、兵士はそれを飲んで腹痛を起こすものが多い。急いで甕を集め、水を澄ます用意をせよ、と命じ数百の甕を集めた。そして日が暮れると甕に油を入れて火をつけた。遠望した王朗は敵襲かと目を奪われていると、その隙をついて一軍を率いて査瀆をめざし、途中、高遷にある敵陣を破り、救援に駆けつけた敵将周昕らを斬って、ついに会稽を手に入れた。

孫策は喜んで奮式校尉に任じ、これに重任を授けようとしたが、孫静は軍務に就くことを望まず、故郷に帰って祖先の墳墓を守った。200年、孫権が孫策の跡を継ぐと、昭義中郎将に昇任したが、官を退いた跡、家で亡くなった。

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孫績(そんせき)

孫賁の孫でしかるべき地位に就いた。

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孫泰(そんたい)

孫匡の息子で長水校尉となる。234年、孫権の配下として合肥新城の包囲作戦に参加し、流れ矢に当たって死去した。

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孫耽(そんたん)

孫亮が孫綝の誅殺に失敗して失脚した際、孫綝に命じられ会稽まで孫亮を護送している。

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孫超(そんちょう)

孫静の孫で偏将軍となった。

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孫徳(そんとく

孫皓の弟で銭唐侯に封じられている。

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孫覇(そんは)

字は子威(しい)という。

孫和の同母弟で、孫和が大使に立てられると同時に、孫覇は魯王に封じられた。孫権は彼を寵愛して、待遇は孫和と変わらなかった。孫和と孫覇の兄弟の仲が良くないことを聞き知ると、孫権は賓客が二人のもとに行き来するのを禁じ、学問に打ち込むように命じた。

督軍使者羊衜は上表して、賓客を断つことは二人のために忠を尽くそうとする人の望みを絶つことになります。早々に詔を発して立派な人物と接触できるようにすべきです、と意見を述べた。

その後、色々な人物が二人のもとに行きかうと、世に言う孫和と孫覇の間で跡継ぎ争いの二宮の変が起きてしまう。

孫覇派には全奇、呉安、孫奇らがおり、彼らは孫覇と共謀して孫和の地位を危うくするように讒言を繰り返した。このため、250年、孫和は太子を廃されてしまうが、孫覇は自殺を命じられてしまう。

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孫弥(そんび)

孫瑜の五人いた息子のうちの一人。

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孫弥(そんび)

孫皓の息子で将軍となり侯にも封ぜられた。

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孫苗(そんびょう)

孫賁の孫で父親の孫鄰が死去するとその跡を継いだ。

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孫布(そんふ)

中郎将で魏に降ると見せかけて魏の武将である王凌を誘い出したが、孫権が大軍で待ち伏せしたのに気づいた王凌は逃げ去った。

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孫賁(そんふん)

字を伯陽(はくよう)といい、孫堅の同母兄孫羌の長男。

孫賁は早く両親を亡くし、弟の孫輔はまだ幼児だったので、自分が親代わりになってよく面倒を見た。やがて出仕して県の督郵となる。190年、孫堅が董卓討伐の義兵を挙げると、孫賁は孫堅に随って活躍、191年に孫堅が戦死すると、残された兵を率いて郷里に棺を送り届けた。

193年、袁術が寿春に根拠地を移すと、孫賁はその配下となり、袁紹の将軍周昴を破って豫州刺史となり、後に征虜将軍に任じられ、山越の平定に当たった。揚州刺史劉繇の部下である樊能、張彌の討伐を袁術に命じられたが、しかし一年余りを経てなお決着が付かなかった。

194年、従兄弟の孫策が江東に渡ってくると、孫賁、呉景を助けて一気に劉繇軍を撃破した。197年、袁術が寿春で自ら皇帝を称すると孫策は袁術と決別する。そして孫賁も妻子を捨てて孫策に従った。

当時、孫策は呉郡と会稽郡の平定を終えており、孫賁は孫策と共に廬江太守劉勲と江夏太守黄祖を攻撃し、凱旋の途中、劉勲が死んで主のいない豫章も平定した。孫策は孫賁を豫章太守の職に当たらせ、後に都亭侯に封じた。

208年、漢王朝は使者を送って孫賁を征虜将軍に正式に任命し、太守の職務は元通りに行うよう命じた。孫賁は在官十一年で死去した

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孫奮(そんふん)

字を子揚(しよう)といい、母は仲姫という。

252年、斉王に立てられ、武昌に移る。この年、孫権が死去して孫亮が帝位に就き、諸葛恪が遺詔によって実権を握った。諸葛恪は諸王が長江沿岸の軍事的な要地にいることを好ましくないと考え孫奮を豫章郡に移そうとした。当然、この背景には将来、万が一政権が乱れたときに、それらの王が軍事的要塞にいると反乱されたときリスクが高いからである。

この意図に気づいたのか、孫奮は命令に従わず、怒りの余り法律を犯す行為も度々おこす。それを知った諸葛恪は手紙を孫奮に送って彼を諌めた。

その手紙を読んだ孫奮は南昌に移ったが、遊びにほうけて属官を苦しめた。253年、諸葛恪が殺されると孫奮は長江を降って蕪湖にとどまり、成り行きによっては建業に乗り込んで帝位に即こうと考えた。しかし、孫奮は結局、自分を諌めた謝慈らを殺して罪に問われ、庶民に身分を落とされた。後に孫亮は憐れんで章安侯に封じた。

270年、孫皓の左夫人王氏が死去すると、孫皓は悲しみのあまり、夫人の棺の前で哭して人々の前に姿を見せなかった、そして、祖の為、人々の間に孫皓が死んだのではないかという噂が流れた。そして同時に孫奮か孫奉のどちらかが帝位を継ぐのではないかという噂も流れた。

豫章太守の張俊はその噂を聞くと早とちりし、孫奮が帝位に即位した場合に備えた。孫皓はこのことを聞くと大いに怒り、張俊を車裂きの刑にし、その一族を皆殺しにすると孫奮と五子も殺した。

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孫輔(そんほ)

字を國儀(こくぎ)といい、孫賁の弟である。

揚武校尉として、孫策が会稽、丹楊、豫章三郡を平定するのを助けた。孫輔はまた、孫策が丹楊郡内の七県を討ったときには歴陽に駐屯して袁術の侵攻を防ぐと共に当地に残った民衆や逃げ散った民衆を呼び集め孫呉の配下とした。

197年、孫策が廬江太守劉勲を襲撃した際も孫輔はこれに従い、士卒の先頭に立って奮戦した。孫策は豫章郡を分割して廬陵郡を設け、孫輔をその太守とし、郡内の諸城に長吏を分置して統治に当たらせた。孫輔は平南将軍に昇進し、假節、領交州刺史となった。

孫策死後、孫権が跡を継いだ。孫輔は使者を送って曹操と連絡をつけた。しかし、これが露見して捕らえられ、流罪に処され数年経って孫輔は死去した。

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孫奉(そんほう)

孫策の孫で父の孫紹の死後その爵位を継いだ。

孫皓が皇帝の時代、左夫人の王氏が死去した為、孫皓はその悲しみの余り棺の側で哭して人々の前に姿を見せなかった。

すると、その帝位を孫奮か孫奉が即ぐであろうという妖言が流れたため、孫奉は孫皓に誅殺された。

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孫茂(そんぼう)

215年、孫呉が劉備と荊州の扱いについて対立すると呂岱は孫茂など十人の武将を指揮して長沙三郡を奪取した。

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孫封(そんほう)

孫壱の弟で、滕胤と呂拠が孫綝に反乱を起こし敗北した際、孫封は滕胤等の企てに関与していたことから自殺した。

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孫褒(そんほう)

孫休の四男。発音は“褒”ではあるが、孫休がつけた本当の字は造字で存在しない字である。

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孫曼(そんまん)

孫瑜の五人いた息子のうちの一人で、将軍まで昇進し、侯に封ぜられている。

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孫莽(そんもう)

孫休の三男。発音は“莽”ではあるが、孫休がつけた本当の字は造字で存在しない字である。

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孫嘿(そんもく)

中書令で諸葛恪が魏に遠征して敗北して戻ってくると何故偽の詔を送って帰国を促したのかと叱責されている。

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孫瑜(そんゆ)

字を仲異(ちゅうい)といい、恭義校尉として初めて兵衆を領した。当時の賓客、諸将は江北の合肥、寿春の出身が多かったが、孫瑜は己を虚しくして彼らに接しその歓心を得た。

204年に丹楊太守となると、彼を慕う人々が一万余人も集まって配下に加わり、綏遠将軍に任じられた。206年、周瑜と共に麻と保の二屯を撃破した。更に、212年、曹操が濡須を攻撃すると、孫権は撃って出ようとした。孫瑜は自重を促したが孫権は従わず出戦、結局得るものはなかった。

奮威将軍に昇進し、部下の饒助と顔連に命じて九江、廬江二郡の人々を安撫させ、呉に帰属させることに成功した。その一方で、深い学識を持つ済陰郡の学者馬普を丁重な礼で迎え、部下の諸将や管吏の子弟数百人に教えを請い、また自分も一緒になって学んだ。

当時の将軍はもっぱら軍務にかかりきりだったが、遠征の間にも孫瑜の書物を誦する声は絶えなかった。

孫瑜の才能を周瑜も高く評価していた。210年、周瑜は孫権に、孫瑜殿と私が益州に入って劉璋と張魯を滅ぼし、これが成功した後、孫瑜殿にはそのまま残って北の馬超と同盟し、私は戻って曹操に当たりましょう、と言った。

孫権はこの周瑜の壮大な案を承諾したが、遠征の準備中に周瑜は死去した。孫瑜も寿命には恵まれず215年、齢三十九で死去した。

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孫燿(そんよう)

孫瑜の五人いた息子のうちの一人。

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孫翊(そんよく)

字を叔弼(しゅくひつ)といい、孫権より二歳年下だった。勇猛果敢で兄孫策の風があり、孫策の臨終の際、張昭たちは兵馬の権は孫翊に託すべきだと言った。しかし、孫策は孫権を呼んで印綬を佩びさせ自分の後継者とした。

203年、二十歳の時、孫翊は偏将軍として丹楊太守となった。これより先、孫権は呉郡太守だった盛憲の高い名声を嫌って彼を殺害した。かつて盛憲に考廉に推挙された嬀覧と戴員は山中に逃げ隠れたが孫翊は礼をもって招きよせ嬀覧を大都督として兵の指揮を委ね、戴員を郡丞として行政に当たらせた。

嬀覧、戴員と親しかった辺洪は孫翊にしばしば苦しめられていたため、これも恩義のある盛憲を殺された恨みを持つ嬀覧と戴員と組んで機会があれば孫氏に一矢酬いたいと時期の到来を狙っていた。

そして一年後のある日、孫翊は丹楊郡内の諸県の県令や県長を集めて宴会を催した。占いに精通している妻の徐氏は不吉な卦が出たと言って日を改めさせようとしたが、孫翊は聞き入れなかった。宴が終わり、客を見送るといきなり孫翊の背後から辺洪が孫翊を斬りつけた。役所の中は大混乱となり、この日に限って刀を携えていなかった孫翊はついに斬り伏せられてしまった。享年二十一であった。

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孫旅(そんりょ)

孫賁の孫でしかるべき官位に就いた。

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孫慮(そんりょ)

字を子智(しち)という。

孫慮は幼い頃から賢明で、孫権はその才能を高く買っていた。228年に建昌侯に封じられ、その二年後、丞相である顧雍らは孫慮は聡明かつ事理に通じ、日々向上を目指しているので漢朝の例からみても爵位を進めて王とすべきだと上奏した。

しかし、孫権はその意見に従わなかった。そのため、尚書僕射の存は上訴して、肉親をに国王に封じるのは国家の基盤を安定させるためです。孫慮様は生まれつき聡明で文武に通じておれいますので、それに相応しい称号を与えるべきだと思われます。今日のように世が乱れているのであれば陛下の腹心となり手足となって働くのは近親と賢者のみでございます、と述べた。

そこで孫権は孫慮に九江近辺に幕府を開かせた。孫慮は若くして高い身分になった為、側近も遠方にいる者も、しっかり任務を果たせられるかどうかを心配したが、いざ孫慮が実務に当たると法律を尊守し、師友の意見をよく聞きいれ、人々の期待以上に優れた統治を行った。

しかし、これから更に才能が発揮されるという矢先、齢二十歳という若さで死去し孫権を落胆させた。

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孫慮(そんりょ)

孫憲とも言い、孫綝の従兄弟。

孫峻が死ぬ際に軍事権を孫綝に託すと、それに憤った呂拠が反乱を起こす。その際、孫慮(孫憲)は孫綝に命じられて兵を率いて江都にて呂拠を迎え撃っている。

孫慮(孫憲)は孫峻の諸葛恪誅殺の企てに加担していたため、孫峻には厚遇され右将軍、無難督まで昇進し中央の九つの役所を総括する任に当てられている。

ところが、孫綝は孫峻ほど孫慮(孫憲)を大事にしなかったため、孫憲はそれに腹を立て王惇と一緒に孫綝の誅殺を企てた。しかし、事が露見してしまい孫慮は毒薬をあおいで死んだ。

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孫亮(そんりょう)

字を子明(しめい)と言い、孫権が六十二の時の子供である。それが故に孫亮はかなり孫権に寵愛された。

二宮の変が起きると太子であった孫和は廃され、孫覇は自殺を命じられる。そのため、250年孫亮が太子に立てられ、252年に孫権が死去すると孫亮は第二代目の皇帝となった。

帝位に就いたときの孫亮は僅か十歳にしか過ぎず、そのため、政治に実権は諸葛恪の手にあった。諸葛恪は才能を自負して他人の意見を用いず孫権は生前からそれを危ぶんでいた。252年12月、東興において魏に大勝した諸葛恪は、翌253年3月、群臣の反対を押し切って合肥を囲んだが攻めきれず多くの兵を失った。

その諸葛恪の失策により孫峻はクーデターをおこし、諸葛恪を誅殺すると呉の実権を握ると思うままにふるった。しかし、その孫峻は256年に変死してしまい、死に際して従兄弟の孫?に全てを託した。

孫?が実権を握ると、それに憤った呂拠等が反乱を起こすが、孫?は皇帝の詔を発して反乱軍を打ち破る。その後、大将軍に任じられると孫峻にも増す専横ぶりを見せた。孫亮は皇帝の座についてから諸葛恪、孫峻、孫綝らが次々と実権を握ったため、皇帝は名のみの存在になっていた。

しかし、孫亮が15歳になると、それを期に正殿に臨み、自ら政治を執ることにした。孫綝の上奏にも反論を加えるようになり、時には聴きいれないことも度重なった。また兵士の子弟で15歳以上18歳未満の者三千人を選抜して、将軍の子弟で年若く勇気あるものにこれを指揮させた。

この年の七月、魏の征東大将軍諸葛誕が司馬昭の専横に怒って淮南で挙兵し、救援を呉に求めてきた。しかし、孫?は諸葛誕を救出できないばかりか多くの兵まで失った。同時に諸葛誕とともに寿春に立て篭もっていた全氏一門が一斉に魏に下る事態にもなってしまった。

258年、寿春は陥落し、犠牲に見合うだけの成果を得られなかった孫綝に人々の恨みが集中した。それを機として孫亮は孫綝を誅殺しようと計略を巡らせたが先に事が露見してしまい、孫綝に捕まり皇帝の座を廃され会稽王として会稽に流された。

その後、孫休が第3代皇帝として座に就くと、孫亮は都に還って天子になるだろうという噂が流れた。するとこれを聞いた孫休は孫亮の位を候官侯におとした。任地に向かう途中で孫亮は絶望して自殺をした。

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孫楞(そんりょう)

留賛と共に菰陂において魏の蔣班に打ち破られ殺害されている。

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孫綝(そんりん)

字は子通(しつう)といい、孫峻と同じく孫静の曾孫に当たる。

256年、孫峻が死ぬと侍中、武衛将軍、領中外諸軍事として朝政を与ることになる。そして、この事態に反対し反乱軍を起こした呂拠と滕胤を勝手に詔を出して征伐する。

この年の十一月に孫綝は大将軍に昇進すると貴位について驕り始め礼に背くような行動が目立ち始めてきた。

257年、魏の大将軍諸葛誕は寿春にて司馬昭の専横を憤って挙兵し呉に救援を求めてきた。呉は文欽、唐咨、全端等に三万の兵を与えて寿春の諸葛誕軍に合流させた。一方の魏は二十万の大軍で合肥を包囲した。すると孫綝は朱異に三万の兵を預け外側から魏軍を牽制させたが朱異は逆に魏にしばしば敗れた。そして、孫綝は朱異に決死の戦いを挑ませたが、無謀な攻撃を朱異が拒んだため、孫綝は朱異を誅殺した。

258年、諸葛誕は戦死し、寿春は陥落した。孫?は諸葛誕を救い出せなかったばかりか、多くの兵士を失った上に、名将まで殺害したため日増しに怨嗟の声が強まった。

そのため、同年、孫亮は孫綝を排除すべくクーデターを起こす決意をするのだが、これは先に事が露見してしまい、孫亮は位を廃された上に会稽に流された。

すると、孫?は孫休を帝位に即けた。孫?は益々増長して、民が崇める朱雀橋畔を焼き、仏教寺院を破壊して僧侶を惨殺した。更に、自分の弟4人を候に封じ重職に置き、権勢は君主を圧倒した。

だが、そのような専横も長続きするはずもなく、孫休は張布と丁奉に相談して孫綝を誅殺することを決める。そして258年12月、冬至の後に行う祭事の場で孫綝は捕らえられ処刑された。

孫休はその首を配下に示し、孫綝に与していた者でも赦免すると宣言すると五千の兵士が武器を捨てて降伏した。その後、孫綝の一族を皆殺しにするとともに、孫峻の棺を発いて印綬を奪い、棺の材木を削って埋め戻した。棺材の厚薄は身分の高下によって異なるものであり、孫峻の身分を貶めたことを示すため薄く削ったのである。

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孫鄰(そんりん)

字を公達といい、生まれつき鋭敏な頭脳を備えて若いときから令名があった。

その孫鄰は9歳の年で父親にかわって豫章太守の職務に当たったと書かれている・・・・。そんなこと在り得るのだろうか?と考えてしまうが、誰かに補佐されながら太守の地位にいたのかもしれない。

豫章で20年近く職務をしており、その間に反乱者を討ち平らげ治績を挙げている。その後は、武昌に召還され繞帳督に任ぜられる。

その頃、潘濬は荊州を治めていたが重安県の長であった陳留出身の舒燮が罪を犯して獄に下されると、潘濬は舒燮を見損なっていたため法に定めて処刑をすることを決意した。

多くのものが舒燮の命乞いをしたが潘濬はかたくなに気持ちを変えようとしなかった。

そんなとき、孫鄰は潘濬に舒燮の兄は中原でも名声があり、後に陛下が天下統一して中原に行けば舒燮はどうしたと尋ねられることもあるでしょう。しかし、そんな時、尋ねられたものは潘濬殿に処刑されてしまいましたと答えざるえません。それで宜しいのでしょうか?と尋ねると、潘濬の気持ちは即座に解け舒燮はそのため無事であった。

孫鄰は夏口、沔中の督に昇進し、威遠将軍となったがそれぞれの職務において手腕を発揮したが、249年に死去する。恐らく齢50であったと思われる。

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孫朗(そんろう)

孫堅の末息子で庶子であり、一名を孫仁ともいった。

江表伝には曹休が洞口まで軍を進めて来た際、孫匡が呂範の命令に背いて火を放ち軍用の資材不足を招き孫匡は死ぬまで禁固にされたと書かれているが裴松之はこれは孫朗の間違いでは無いかと考察している。

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孫和(そんわ)

字を子考(しこう)といい、孫和の母である王氏が孫権の寵愛を受けていたことから孫和も幼いときから可愛がられていた。孫登の死の翌年、242年、19歳で太子に立てられ、闞沢が太傅に、薛綜が少傅となって教導に当たった。

孫和は頭脳明晰で学問を好み、師傅を尊敬し優れた人物に喜んで接した。また騎馬や射術も巧みにこなした。孫和は常々、今の世に必要とされるものは学問、射術や馬術であるのに、当時の人々が博打に熱中している風潮を憂えていた。

その後、母親の王夫人と腹違いの姉の孫魯班の仲が悪くなると、孫魯班は王夫人と孫和の行動を孫権に讒言しはじめる。そのため、孫権は立腹し、王夫人は憂いのあまり病死した。すると孫権の孫和に対する愛情も徐々に薄れていった。

魯王であった孫覇は、自分も太子と同様の扱いを受けていることから孫権の孫和に対する愛情が薄れていくのを見て、自分が太子に取って代わろうとした。いわゆる、二宮の変である。そして、その為、激しい権力争いが勃発し呉政権も真っ二つに分かれてしまった。

孫権はその後、この事態を憂慮して侍中の孫峻に、このままではわしは袁紹親子の轍を踏んで、天下の笑いものになってしまう。どちらを即位させても混乱は生じるだろう、と言い、別の太子を立てることを考えはじめる。

250年、孫権は孫和を廃して孫亮を立てて太子にした。孫和は丹楊郡の故鄣に移住させられ、孫覇は自殺を命じられた。さらに252年、孫和は南陽王に封じられ長沙に追いやられた。

この年の四月、孫権は死去し、諸葛恪が政治の実権を握った。諸葛恪の姉妹が張承の後妻になり、その間に生まれた娘は孫和に嫁いだ。従って、諸葛恪は孫和の妃の張氏の叔父になる。

張氏は都に弔問の使者を送り、帰りに諸葛恪を訪れさせた。諸葛恪はその使者に、妃にお伝えさせていただきたい、他人より優れた地位にお就きになるのを待たれよと、と伝えた。この言葉には孫和を天子にしようという含みがある。

しかし、この発言はいくばくか世間に漏れ、加えて諸葛恪は遷都を計画して武昌の宮殿を整備させていたので、人々は孫和を武昌に迎える用意をしているのだとも噂した。

252年、諸葛恪は孫峻に誅殺された。すると孫峻は先の諸葛恪の発言を根拠に、不軌を計画していたと言いがかりをつけて、孫和から南陽王の璽綬を奪って新都郡に移し、さらに孫和に自殺を命じた。齢29で孫和は死去した。

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孫湾(そんわん)

孫湾のわんの字は実際には孫休が造字であり、発音は湾と同じである。

孫休の息子で262年に太子に立てられている。しかし、孫休は死に際して言葉を発することが出来ず、孫湾を指差して死んだのであるが、張布はまだ頼りなく呉政権が不安定であることから孫湾に即位させず孫皓を即位させた。

その後、孫湾は豫章王に封じられた。

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