全呉将紹介
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チョウイ
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チョウイ
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チョウイン
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チョウエイ
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チョウエイ
張詠
チョウエキ
張奕
チョウオン
張温
チョウガ
張雅
チョウカン
張咸
チョウキ
張夔
チョウキュウ
張休
チョウグン
張羣
チョウゲン
張玄
チョウゲン
張儼
チョウゴウ
張剛
チョウコウ
張紘
チョウシ
張氏①
チョウシ
張氏②
チョウシ
張氏③
チョウシ
張祗
チョウシュク
張俶
チョウシュン
張俊
チョウシュン
張恂
チョウジュン
張純
チョウショウ
張尚
チョウショウ
張承
チョウショウ
張松
チョウショウ
張昭
チョウシン
張津
チョウシン
張震①
チョウシン
張震②
チョウセイ
張世
チョウセイ
張靖
チョウセキ
張碩
チョウセツ
張節
チョウテイ
張悌
チョウトン
張惇
チョウトン
張敦
チョウハク
張白
チョウヒン
張邠
チョウビン
張旻
チョウフ
張布
チョウフン
張奮
チョウヘイ
張秉
チョウヤク
張約
チョウリョウ
張梁
チョウスウ
徴崇
チョウイク
趙昱
チョウキン
趙欽
チョウシ
趙咨
チョウシュウ
趙楫
チョウセン
趙泉
チョウタク
趙濯
チョウタツ
趙達
チンエイ
陳永
チンエン
陳延
チンカ
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チンキ
陳紀
チンキン
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チンセイ
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チンセン
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陳端
チントウ
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チンビョウ
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チンヒョウ
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陳武
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陳奉
チンホウ
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チンボク
陳僕
チンユウ
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チンリュウオウ
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テイアン
丁晏
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丁固
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テイフ
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テイホウ
丁封
テイホウ
丁奉
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テイホウ
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トウコ
唐固
トウシ
唐咨
トウセイ
唐盛
トウコウ
陶璜
トウシュン
陶濬
トウシ
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トウシュウ
董襲
トウシン
董岑
トウチョウ
董朝
トウトウ
董桃
トウホウ
董奉
トウワ
董和
トウシ
僮芝
トウイン
滕胤
トウシュウ
滕脩
トウタン
滕耽
トウチュウ
滕冑
トウフジン
滕夫人
トウボク
滕牧
トウガイ
鄧凱
トウゲンシ
鄧玄之
トウトウ
鄧当
トウリュウ
鄧龍






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太史享(たいしきょう)

字を元復(げんふく)といい、太史慈の息子である。

尚書を経て越騎校尉になり、呉郡太守にもなっている。

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代王(だいおう)

孫皓の息子で十一いる王のうちの一人

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戴員(たいうん)

盛憲がかつて考廉に推挙した人物で、盛憲が孫権に殺害されると嬀覧と共に逃亡して山中に隠れ潜んだ。

その後、孫翊が丹楊太守となると、二人を礼をもって招きよせ戴員は郡丞に任じられる。しかし、辺洪という人物と親しく付き合っていたことを孫翊から強く責められると反逆の心を抱き始める。そして、孫権が出征した機会をとらえ辺洪に宴の席で孫翊を斬らせた。

孫翊が殺害されると孫河が宛陵にかけつけて、嬀覧と戴員とが職務を十分に果たさなかったため良からざる変事が引き起こされてしまったとして二人を強い調子で責めた。そのため、二人は丹楊で反乱を起こして魏に内応すべく画策するが、その計略が実行される前に、孫翊の嫁である徐氏を筆頭とした孫翊の旗本に殺害された。

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戴顒(たいぎょう)

孫亮が孫休に自殺を命じられ死ぬと、その亡骸を引き取って頼郷に葬った。

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戴良(たいりょう)

士燮が死去すると戴良は交州の刺史に任じられた。

任地に向かった戴良ではあったが士燮の息子である士徽が自らを交趾太守を名乗り配下の部族兵を動かして戴良の着任を阻止しようとした。そのため、戴良は道を進めぬまま合浦に留まった。

その後、呂岱が詔を受けて士徽の誅殺を命ぜられると呂岱に合流して一緒に軍を進めた。その後はどうなったか書かれていないが、士徽は呂岱に斬られることから交州刺史の任に就いたのではないかと思われる。

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戴烈(たいれつ)

呉の将軍で250年に魏の王昶が南郡を包囲し、荊州刺史の王基が西陵に攻撃をかけてくると、陸凱と共に魏の攻撃を防いだ。

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卓氏(たくし)

医者である。凌統が合肥の戦いで孫権を守るためひどい傷を負ってしまったが、卓氏の良薬のききめで死なずに済んでいる。

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儋萌(たんぼう)

九真太守で、妻の父の周京のために宴を設けたとき、部下の番歆が嫌がる周京を無理して踊りに誘ったため儋萌は番歆を刑棒にしたところ番歆は死んでしまった。

それを知った番歆の弟である番苗は手勢を引き連れて役所に攻撃をかけ毒矢を儋萌に射当て殺した。

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譚紹(たんしょう)

孫権の嫁である藩夫人の姉の婿で藩夫人は孫亮の母でもある。

孫亮が即位すると譚紹は騎都尉に任ぜられ兵を授かった。孫亮が廃されると、譚紹は一家眷属をあげて出身地の廬陵郡に移住させられた。

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中山王(ちゅうざんおう)

孫皓の息子で十一いる王のうちの一人

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仲姫(ちゅうき)

孫奮の母親。死んだ後、豫章に葬られている。

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褚逢(ちょほう)

陸遜が今の法令では孫権に自分を売り込もうとしている賤しい臣下達の意見が上聞に達していると忠告した際、孫権は法令をもう一度、陸遜と諸葛瑾に内容を調べてもらうべく朗中であった褚逢に法令の写しを持って行かさせている。

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刁嘉(ちょうか)

江夏太守をしていた人物で呂壱が刁嘉は国政を誹謗していると讒言した為、刁嘉は捕らえられ獄に繋がれ、関係者すべては査問にかけられた。

連座したものは呂壱を畏れて、皆、誹謗の言葉を聞いたことがあると言ったが、是儀だけは孫権の追及が厳しくなろうとも聞いていないと答え、刁嘉は罪を免れることが出来た。

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刁玄(ちょうげん)

丹楊の人で、孫登が太子になった際、孫登の賓客に任ぜられている。その刁玄は孫登には度量の広い人物で、ひたすら道の真髄をふみ行ってますと評されている。

五郎中郎将の時、孫憲が孫綝の暗殺を企て失敗に終わると、刁玄は蜀に使者としていき呉で反乱が起きたことを告げている。

その後、侍中となり孫亮の側近となる。その時、孫亮の甥にあたる孫基が皇帝の馬を盗んで捕まった。孫亮は法に照らして孫基を斬ろうとしたが刁玄は孫亮を説得して孫基を救っている。

孫皓時代にも使者として蜀を訪れており、その際、司馬徽と劉ヨクとが論じ合った国家の命運と帝位の行方に関する議論を手にいれた。すると刁玄はそれに手をいれ、黄色い旗と紫の蓋とが東南に出現し、最後に天下を有するのは荊州、楊州の主君であろうと悪戯を施した。

これに加えて、刁玄は孫皓に寿春では呉の天子がまもなく上ってくるという流行歌が唄われていると報告した。

孫皓はその気になり、これぞ天命だ!というと後宮の数千人の宮女たちを車に乗せて牛渚から陸路を取って西に向かったが、進むうちに大雪にあい、道路は壊れ散々な思いをして結局、都に戻った。

孫登の賓客に任ぜられ、孫亮の側近にもなった刁玄が最後に取った行動が不可解である。果たして彼は孫皓という人物に幻滅して悪戯をしたのだろうか?彼の最期がどうなったから正史三国志には書かれていないが、孫皓が彼を許すわけはなかったと想像する。

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張怡(ちょうい)

蜀の使者が公式訪問の為に呉にやってきた際、その会見の席上で孫峻の暗殺を孫儀等と企てたが、事が露見して処刑された。

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張異(ちょうい)

周瑜が麻と保の屯所を攻略したとき、督として凌統と共に麻の屯所を包囲している。

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張允(ちょういん)

張温の父親で、物惜しみすることなく立派な人物たちを丁重に遇したので故郷の州や郡では評判が高かった。

孫権のもとで東曹掾となり死去した。

因みに高岱の友人として張允という人物が登場しているが、恐らく張温の父親とは別の人物だと思われる。

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張英(ちょうえい)

劉繇の配下の武将で当利口に駐屯して袁術の侵攻を食い止めさせていた。袁術は孫賁、呉景に命じて張英を攻撃させているが幾年たっても攻め落とせなかった。

だが、その後、孫策が叔父の孫賁を援軍するという名目で江東に進出すると、一気に張英を破っている。

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張詠(ちょうえい)

孫皓時代の湘東太守で税金を上納していないということで、斬首に処せられている。

しかしこの時期、旱魃に見舞われているところも多く、それが故に税金を上納していなかった可能性がある。

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張奕(ちょうえき)

楼玄が孫皓にその名声を妬まれると交阯郡に強制移住させられた。

そこで孫皓は交阯の武将である張奕に楼玄の身柄を預けさせ機会があったら楼玄を殺害するように命じた。しかし、楼玄は身ひとつで張奕に従って不服住民たちの討伐にあたり、武器を手に山野を跋渉し、張奕に会うといつも丁寧な礼をを取ったので張奕は楼玄を殺せなかった。

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張温(ちょうおん)

字を恵恕(けいじょ)といい、父の張允は材を軽んじて士を重んじ、名を州郡の間に顕し、孫権の下で東曹掾を務めた。張温は若い頃から節操高く、優れた容貌に恵まれていた。

孫権は評判を聞いて公卿たちに、温は今の人物では誰と比べられるか、と問うと大司農の劉基が、全琮と肩を並べましょう、と答えた。すると太常の顧雍は、劉基が未だ彼がそんな人物であるかよく知っておりません、張温に匹敵する人物は今の世に求められません、と答えた。

孫権は、もしそうならば、張允はその子の中に生きていて死んではいない、と喜び召し寄せて引見した。張温の言葉と応接のみごとさに、並み居る人たちは惹きこまれ、孫権も容を改めて礼待した。

退出するとき、長く孫権の補佐役を務めてきた張昭は、張温の手を取って、この老いぼれがあなたに気持ちを託していることをよく覚えていただきたい、とまで言っている。

224年、32歳のとき、張温は輔義中郎将として蜀に使いすることになった。これは前年に諸葛亮が鄧芝を呉に派遣、両国の修好をより深めたことに対する答礼だった。

その際、孫権は張温に、本来は君を送りたくないのだが魏と意を通じている真意を諸葛亮には知ってもらいたいので基本的には山越の者を全て除いたら曹丕と事を構えることだけ伝えてくれれば後は君の裁量に委ねると、言った。

張温は、謀に優れている孔明のことゆえ問題は無いと思われます、と答えて蜀に入り参内して上奏した。蜀人は張温の才能を高く評価した。帰国後しばらくして、孫権は張温に命じて豫章の兵の動員体制を整備させた。しかし、これは思うように上手くいかなかった。

孫権はその後、張温が蜀政を称美したことを不快に思い、また張温の名声が盛んで人々が幻惑され自分の言うままに動かなくなるのではないかと懸念した。そんな折、呉国で曁豔の事件がおきる。

この事件は張温が昇進をさせた曁豔という人物は無能な人を容赦なく降格して厳しい人事を行った。それが故に人々の恨みを買って讒言され、曁豔は罪に問われて自殺した。

すると、孫権は張温が彼を任用し交際していたことから獄に幽閉した。その後、孫権は色々と張温の揚げ足を取り最終的には本郡に帰らせ薪取りの小役人にしてしまった。

張温の失脚は蜀から戻った年だと思われるが、その六年後に寂しく病死した。齢38であった。

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張雅(ちょうが)

賀斉が商升を攻めた際、商升は賀斉に降伏することを決意したが、詹彊と張雅はそれを不服として商升を殺害して賀斉に抵抗した。

だが、後に張雅が娘婿の何雄と勢力争いを行ってしまい、賀斉が焚きつけた事もあり内部抗争が勃発してしまう。その隙を狙われて賀斉に一度の攻撃で打ち破られると部下たちを引き連れて賀斉に降伏した。

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張咸(ちょうかん)

江陵の督で陸抗の元で活躍した武人。

晋の羊祜が呉に攻めて来た際、陸抗は張咸に命じて大きな堤防を築かせて江陵の平野を水浸しにして敵襲を防止し、離反投降者が出るのを防がせた。

羊祜は堤防により水が堰き止められることを知ると呉には堤防を破壊すべく歩兵を動かすと見せかけ船で食料を江陵に運び込もうとした。しかし、陸抗は羊祜の動きの情報を得ていたので群臣の反対を押し切って張咸に命じて堤防を破壊させた。

その後、晋の楊肇が西陵に攻めてくると、陸抗は張咸に命じて城を堅く守らせた。

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張夔(ちょうき)

太常で孫皓が晋に降る際の使者となった。

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張休(ちょうきゅう)

字を叔嗣(しゅくし)といい、張昭の末子で張昭が死去すると既に兄の張承が侯に封ぜられていたので張昭の爵位を継いだ。

二十歳の頃は諸葛恪や顧譚らと共に太子であった孫登の僚友に選ばれ、孫登に漢書の講義をした。

呉書には張休が孫登に講義をするときは文章の趣旨を的確にし、事物の区別をはっきりつけていたので全てにわたって道筋が立っていたと書かれている。張休は物にこだわらぬ人柄であったため、孫登はそんな張休を寵愛して常に左右に付き従わせた。

孫登が死去した後は侍中となり、羽林都尉に任ぜられると三典軍の指揮にあたり、揚武将軍に昇進した。この点、父親の張昭には軍事センスは無かったが息子の張承と張休はセンスがあったようである。張休は実際に顧承とともに寿春を攻めたとき見事な活躍をしている。

だが、張休は不幸にも二宮の変に巻き込まれてしまう。張休は孫和を擁護したが孫覇派の讒言を受けて顧譚や顧承と共に寿春の戦い論功行賞を行ったおりに内々に示し合わせて勝手な判断で論功を増したのだと訴えられ、関係者は交州に強制移住させられることになった。

張休は孫弘という腹黒い人物を嫌っていたのだが、張休の失脚を機会に張休を讒訴したため詔が下され張休は命ぜられて自殺をした。齢41であった。

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張羣(ちょうぐん)

公孫淵の使者として遼東を訪れたとき、公孫淵は孫権の使者を殺害しようとして数百名いた使者をバラバラに諸県に配置して幽閉した。

張羣はその際、秦旦らと同じく玄菟郡に置かれた。張郡は秦旦らと脱出する計画を立てて見事に脱出した。だがその際、張羣は膝に腫れ物を作ってしまい他の者たちと一緒のペースで歩行するのが困難であった。

六、七百里も行ったところで張羣の傷口はますますひどくなって前に進めなくなってしまった。すると、張羣は脱出した面子に自分と付き合っても無意味であるのでおいていけと主張した。だが、その面子の一人の社徳は仲間を見捨てることはできないと言い、張羣に付添った。

その後、秦旦らは無事に句麗に逃げ、句麗王の力を借りて張羣を救出した。無事に呉に帰還すると張羣らは校尉の位を与えられた。

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張玄(ちょうげん)

張紘の息子で南郡太守、尚書などの官にまで昇進した。

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張儼(ちょうげん)

字を子節(しせつ)と言い、呉(蘇州)の人である。

二十歳そこそこでその名が知られると、顕職を歴任して博識で多くのことに通じていることから大鴻臚(外務大臣)に任ぜられた。

晋の文帝が死去した際、晋への使者に任じられた。その時、孫皓は張儼に、現在の晋との友好関係を保つのは最重要課題であり、あなたに使者になってもらうのはその交渉にあたる才があると思えばこそ、わざわざ行って貰うのでである、と言った。

それに対して張儼は、君名を輝かすべき使者として栄誉ある役目を賜りましたうえは、古人のごとく主君のほまれを遠くにまで輝かすといった立派な手柄は立てられぬまでも、武器を切っ先から根元まで磨き上げて、君名を辱めぬ覚悟でおります、と答えた。

張儼が晋に到着すると、晋の賈充や裴秀らが張儼が知らぬことを持ち出して論破しようとしたが、張儼は見事にそれに対応して論破されなかった。

そんな張儼の才能をかって、羊祜や何楨はそれぞれ張儼と厚い友情を結んだ。しかし、張儼は晋から呉への帰路の途中に病死した。

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張剛(ちょうごう)

校尉で管篤と共に使者として遼東に行っている。丁度、孫権が皇帝の座に就いた年で、恐らくその報告で向かったと思われる。

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張紘(ちょうこう)

字を子綱(しこう)といい、会稽東部都尉であったことから孫権には“東部”と呼ばれていた。

張紘は洛陽の大学で易経、書経、詩経、礼記、左氏春秋を学んだ。郷里に戻った後、茂才に推挙され三公の府から招かれたが、病気を理由にして出仕せず、江東に乱を避けた。

191年、孫策が戦死した父孫堅に代わって江東の士衆を率いることに成ると張紘はその部下となった。張紘は張昭と並んで参謀を務め、孫策はいつも二人のうち一人を留守役に、一人を征伐に同行させていた。

196年、呂布が徐州を襲って自ら州牧となると、徐州出身の張紘を茂才に推挙して孫策から引き離そうとした。張紘は呂布ごとき男の下につくことを恥じていたし、孫策は孫策で張紘を手放したくなかった。そこで孫策は呂布に謝絶の書簡を送った。

199年、張紘は孫策の命令で曹操に奉じられて許にいた献帝に上表を届けたが、そのまま引き止められて侍御史に任じられた。孫策が死去すると曹操はその混乱に乗じて孫呉に攻め入ろうとしたが張紘はこれを諌めて、この機会に恩義を与えたほうが得策であると進言した。曹操はこの言葉に従って孫権を討虜将軍、領会稽太守とした。そして張紘を会稽東部都尉に任じ孫権が自分の配下になるように張紘から勧めさせた。

こうして、張紘は再び江東に戻った。孫権の母親は張紘を深く信任し、わざわざ手紙を送って江東に君臨してまだ日も浅い息子の補佐を丁寧に依頼した。張紘はそれに応えて何か問題が起きると、常に適切に対処した。

人々の中には、張紘が北方で官職を授けられているので江東に長く留まる気が無いだろうと疑うものもいたが、孫権は少しも意に介さなかった。

208年、赤壁の戦いにおいて孫呉軍が曹操軍に大勝すると孫権は一軍を率いて合肥に遠征した。長史として従軍していた張紘は孫策のように逸る孫権を常に諌めていた。

張紘は都を秣陵に置くべきであると献策した。それまで都を置いていた京口と同じく長江沿岸の地で、京口の上流70キロに位置する。孫権はこの献策に従って、211年に都を秣陵に遷した。そして翌212年、秣陵の西の江辺に石頭城を築き秣陵の名を改め建業とした。

211年、張紘は呉郡に住む孫権の家族を迎えに行く道すがら病没した。危篤に陥ったとき、張紘は孫権あての手紙を子の張靖に託し君主として広く賢人を求め、諌言を快く受けいれ感情を抑え欲望を節しなければならないと言い遺した。孫権はこれを読んで涙を流した。時に張紘は齢60であった。

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張氏(ちょうし)

孫和の正妻で孫和が自殺を命じられて死ぬ際に今生の別れを告げると、張氏は、幸せも不幸も一緒にすべき身でございますから、独り生き残ることなどいたしません、と言い後を追って自殺して死んだ。

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張氏(ちょうし)

張布の娘で孫皓に嫁いだ。孫皓は張氏を美人(皇后の位の一つ)となして寵愛した。

あるとき孫皓が張氏に、お前の父親はどこにおるのか?と尋ねると張氏は、悪者に殺されました、と答えた。因みに張布は孫皓に殺されていた。

その答えにひどく腹を立てた孫皓は彼女を棒で打ち殺した。後になって彼女の容貌が懐かしくなり上手な工人に命じて木を彫って張美人の人形を作らせ、いつも座の傍らに置いていた。

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張氏(ちょうし)

孫皓が張布の娘である張氏を撲殺したあと、木の人形まで作り彼女を忘れられないでいた。

すると、張布にはもう一人娘がいることを聞いた。その娘張氏の姉で馮純のもとに嫁いでいたが、それを奪いすぐに後宮に入れた。その後は彼女を大いに寵愛し左夫人の位を与えて昼夜の別なく夫人と一緒に房中で宴飲し、朝政を聴くことが無かった。

その後、夫人が死去すると孫皓は悲しみと思慕の念から、後宛の中に夫人を葬り、大きな塚を築いた。そして工人たちに命じて柏の木で木製の人形を作らせ塚の中にそれを入れて墓を守る護衛兵とし、金銀や珍宝を夫人と一緒に葬ったがその数は莫大なものであった。

葬儀が終わった後、悲しみの余り孫皓は後宮に引きこもって喪に服し、半年も外に姿を見せることがなかった。

夫人が死んで、引きこもった孫皓の行動は王氏が死んだときにも見られる。

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張祗(ちょうし)

張温の弟で、有能だとの評判があったが、張温の失脚とともに官位を召し上げられた。

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張俶(ちょうしゅく)

孫皓に気に入られ、讒言誣告を盛んに行い昇進して司直中郎将となり侯にまで封じられたが、後に悪事がばれ誅殺された。

江表伝では、張俶の父親は、自分の息子の今生が曲がっているのを知っていて息子が司直中郎将になる際、上表して自分の息子を司直にして罪が犯したとしても連座せずに済むよう頼んだ。そして孫皓はこれを許した。

その後、張俶は上表して悪事の弾劾をする官二十人を置くことを上表し、認められるとこれらの官は判決は賄賂しだいとした。このようなことをして張俶は豪華な生活を飽く無く追い求め、妾を三十名も囲って無辜の者を気ままに殺したりした。

そのような悪事は結局ばれてしまい、張俶は父子ともども車裂きになった。

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張俊(ちょうしゅん)

孫皓の左夫人であった王夫人が死去した際、孫皓は悲しみの余り、数ヶ月人前に姿を見せることが無かった。

そうすると孫皓は死んでしまい、孫奮が代わりに皇帝になると根も葉もない風聞が行われた。

豫章太守であった張俊はその風聞を信じて、孫奮の母である仲姫の墓地掃除を行った。孫皓はそのことを聞くと、張俊は車裂きにされ一族を皆殺しにされた。

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張恂(ちょうしゅん)

張布の弟で、校尉に任じられている。

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張純(ちょうじゅん)

字を元基(げんき)といい、張敦の息子である。

若い頃から正しい行いに務め、広い学識と人に優れた才能とを備え、人と論議をするときは鋭い質問を発して打てば響くように返答をして、その挙措は見事であった。

朗中の官を授かり、広徳県の令に任じられ、際立った治績を挙げている。そして、孫和が太子となると、孫和のお相手役を務めるようになり太子輔義都尉となった。

二宮の変の際に命をかけて言葉を尽くして孫権を強く諌めた。それが故に、張純は幽閉され、のちに市場で処刑された。

張純には逸話があり、張儼と朱異と一緒に子供のころ朱拠に会いに行ったことがあった。朱拠は彼ら三人の子供の評判が非常に高いことから、詩を作らせ詠ませた。三人の詩はそれぞれに見事であったので朱拠は大変に喜んだ。

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張尚(ちょうしょう)

張尚は張紘の孫で、江表伝は人に抜きん出た才能があったと称賛している。

孫皓の時代に侍郎となり、気の効いた言葉を述べることで主君の知遇を受け、抜擢されて侍中や中書令を務めた。

孫皓が張尚に事を演奏させようとしたとき、張尚は、もともと演奏が出来ませぬと言って辞退すると、孫皓は勅命によって事を習わせた。

のちに気楽な席で話題が事の精妙さのことに及ぶと、張尚はそれと関連して、晋の平公は部下に清角の調子の曲を弾かせようとしたところ、部下はわが君の徳は十分に厚くはありませんので、これをお聴きになる資格はありませんと言いいました、と言ったところ孫皓は自分のことを暗に匂わせているのだと考え不愉快に感じた。

その後、孫皓は張尚に船の材料は柏の木だけかと尋ねると、張尚は松も使用されますと答え、孫皓が鳥で一番大きいのが鶴で小さいのは雀だろうか?と尋ねると、張尚は大きな鳥は禿鷲がおり、小さいものとしてはミソサザイがおりますと答えた。孫皓は他人が自分より優れていることを忌み嫌う性格であったので、このように一々訂正してくる張尚を苦々しく思い恨みを募らせた。

後に、孫皓が、わしの酒の飲みっぷりは誰と比較できるのであろうか?と尋ねると張尚は、陛下には孔子と同様に百の盃を飲み干す酒量がありますと答えると、孫皓は張尚は孔子が王者にならなかっとことを知っていて私と比較したと揚げ足をとり、張尚を捕縛して獄に下した。

張尚が捕縛されたことをしると、尚書の岑昏以下百余名が宮中に参内して叩頭して寛大な処分を乞うたため張尚は死一等を減ぜられることができた。

だが建安に強制移住させて船作りの労役に服させ、その後、送られた役人に誅殺された。

人に抜きん出た才能があった張尚であったが、その才能が故にその命を縮めることとなった。

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張松(ちょうしょう)

秦旦達が公孫淵に捕らえられて脱出計画を練った際、その計画を告発した人物。

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張昭(ちょうしょう)

字を子布(しふ)といい、彭城国の人で、後漢末、天下が大いに乱れると江南に避難した。196年、孫策が自ら会稽太守になると、張昭は召しだされて長史、撫軍中郎将に任じられ、文事、武事の一切を委ねられた。その業績が知れ渡ると北方の士大夫たちは張昭を称賛する手紙を書き送った。張昭はそれを黙っていれば北方の人と密かに連絡していることになり、かといって公表すれば自分の業績を誇ることになり苦慮していた。

これを聞いた孫策は張昭のそういう可愛げのある態度を益々気に入り、自分はそのような小さなことには拘らないと愉快気に笑った。

200年、孫策は弟孫権を張昭に託して死去した。孫権はまだ齢十九であった。当時四十五の張昭にしてみれば、孫権は自分の子供のようであった。悲しみに打ちひしがれている孫権を必死に励ました。

張昭は事あるごとに孫権に諫言した。孫権は狩りを好み、しばしば馬上から虎を射た。あるとき、虎が孫権の馬に突進したことがあった。すると張昭は、君主とは英雄、賢才を使いこなす者であり、猛獣と勇敢さを比べることではありません。万が一のことがあれば、天下の嘲笑をどうなさるおつもりか!と言った。

孫権の行動に小言、諫言を繰り返した張昭ではあったが、名士の常として既成秩序の権威には弱かった。202年、曹操が人質を要求してきたとき、張昭は体面に拘ってしまい形式に過ぎなくても曹操が献帝の名において下した命令である以上、これを拒む名分がないというのが張昭の考えであった。

しかし、周瑜の説得により孫呉軍は曹操軍と赤壁で会戦を行い、ここでの勝利により孫呉は江南、江東に磐石な基盤を築くことが出来た。そのため、孫権が帝位に就いた際、孫権は、もし張公の計に従っていたならば、今頃は人から食べ物を恵んでいる身の上だった、と述べている。

だが、よくよく歴史の結果を見ると、孫呉は張昭という老臣のお蔭で暴走しそうになる若さを押さえていた部分も大いにある。

そういう張昭の功績は大きいが、孫権にとっては煙たい存在でもあった。孫権は丞相を設置しようとしたとき、周りは張昭を推薦したが、それに逆らって孫邵を丞相とした。孫邵が死去すると、再び張昭を推す声が強かったが孫権は今度は顧雍を丞相とした。

236年、張昭は齢81で天寿を全うした。彼の遺言どおり葬式は質素にすまされた。

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張津(ちょうしん)

零陵と桂陽郡の任務を与えられ、後に交州刺史に任命されている。

しかし、荊州牧の劉表と行き違いを起こし、無駄に強敵の劉表を攻めた上に、部下に馬鹿にされ始め結局は殺害された。

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張震(ちょうしん)

張承の息子で諸葛恪が孫峻に誅殺された際、諸葛恪の外甥にあたるということで一族皆殺しにされた。

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張震(ちょうしん)

諸葛誕の乱の際、朱異の配下として任度と共に6千の決死隊を率いて対岸に渡り魏を攻撃しようとしたが逆に敗れてしまった。

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張世(ちょうせい)

孫権の従者で孫権が虎に襲われた際、矛を打ち込んで虎を捕まえた。

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張靖(ちょうせい)

張紘の息子で、張紘が死ぬ際に孫権への手紙を託された。

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張碩(ちょうせき)

黄祖の部下で孫呉軍が第三次黄祖討伐戦で攻めてきたとき凌統に斬られた。

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張節(ちょうせつ)

豫章の平民で264年に反乱を起こし、その反乱軍は1万人を越えた。

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張悌(ちょうてい)

字を巨先(きょせん)といい、襄陽の人。若くして文名があり道理に通じていた。孫休の時代に屯騎校尉になった。

263年、魏は大兵を催して蜀に進攻した。ある人が張悌に司馬氏の基盤はまだ確立してないから遠征は失敗するに違いないと言った。すると張悌は、司馬氏は曹氏歴代にわたる苛政の苦しみから民衆を救っており、彼らがその恩恵に心を寄せるようになって久しい。だから簒奪の奸計も成功するだろう。一方、蜀は宦官が朝政を専らにし、連年の戦役に兵も民も疲れ果てていて、魏、蜀の強弱の差は歴然たるものがある。魏の成功は我々の大患となる、と言った。呉人はこの言葉を笑ったが、蜀は果たして魏に降った。

279年、晋は6方面から呉に総攻撃をかえた。孫皓に命じられて、張悌は護軍将軍孫震、丹楊太守沈瑩、副軍師諸葛靚ら三万を率いて江陵を目指して南下する杜預軍を向かえ撃った。

軍が牛渚まで進んだところで沈瑩は長江を渡らないほうが良いと進言したが、張悌は、呉がまさに滅びようとしているのは賢愚みな知るところだ。益州から来る晋軍が押し寄せれば、民衆は恐慌状態に陥って収拾がつかなくなろう、私はそれを恐れるのだ、と言い続けて、江を渡って奮戦し、たとえ敗れたとしても国家と共に死ぬのであれば恨みはない。もし勝てば、勝ちに乗じて一挙に形勢を逆転できる、と堅い決意を示した。

そしてついに長江を渡り、呉軍は大敗した。

諸葛靚は5、6百人の兵と退却しようとして使者を張悌に出して兵を引くように伝えた。しかし張悌は飛行としない。諸葛靚は自ら張悌の陣に行き、巨先殿、国家の存亡には大きな運命があって、一人の力ではどうしようもない。何故わざわざ死のうとされるのか!と翻意を促した。

張悌は涙を流して、仲思、今日は私の死ぬ日だ。それに加え、私が子供のころ、あなたの親族の諸葛亮殿に評価していただいたことがあった。以来、常に死に場所を得ないで名賢の知遇に背くことを恐れて来た。今、身をもって国に殉じる覚悟である。どうしてこの決意を変えようか、と言って承知しなかった。

諸葛靚もまた涙を流して手を放したが、行くこと百余歩、乱軍の中、張悌の戦死するのを望見した。

張悌は襄陽の人で、当時荊州に住んでいた孔明に、幼い頃に会ったのであろう。

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張惇(ちょうとん)

張布の弟で兄が出世した際、その恩恵を受けて都亭侯に封じられ、兵士三百人を与えられた。

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張敦(ちょうとん)

字を叔方(しゅくほう)といい、呉郡の人。

張敦は厚い徳と深い度量とを備え、寡欲で淡白な性格であり、加えて文章をよくしたと書かれている。

孫権が車騎将軍になると、孫権に招聘され孫呉政権に加わり、西曹掾となり、やがて主簿に転じて幕府を出て海昏県の令に当てられると、心のこもった行政を行った。

だが僅か齢32で死去してしまった。

短命ではあったが、張敦は優れた人物として陸機の弁亡論の中でも紹介をされている。

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張白(ちょうはく)

張温の弟で陸績の娘である陸鬱生を娶っている。

張温が失脚した際に一緒に別の郡に配流されそこで死んだ。

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張邠(ちょうひん)

孫亮の侍中。

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張旻(ちょうびん)

士燮の配下の役人で貢納品をたずさえて京都に行っている。

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張布(ちょうふ)

長水校尉であったが、孫休が皇帝に即位するとそれまで諸国の王の一人であった孫休を良く補佐した人物だとして輔義将軍に任じられ永康侯に封じられた。

その後、孫綝の専横がひどくなると、孫休は密かに張布と丁奉とその対策を練った。そして百神の祭祀の日に百官たちが朝賀に集い公卿たちが昇殿したとき、兵に命じて孫綝を捕縛してその日の内に死刑にした。これにより、張布は奸臣を誅するのに功があったとして、中軍督を加官した。

後に張布は左将軍となり、孫休に完全に信頼され、宮中の官署を司った。しかし、特に厚い寵遇を与えられたため、張布は国権をほしいままにし礼に外れる行動が多かった。その為、張布はそれを気にして、韋曜や盛沖がそのことを上言ことを恐れ、それが故に彼らを孫休に近づけなかった。

孫休は、こうしたことを分かって張布の態度を不愉快に思ったが、しかし、余計な揉め事を起こすことを嫌い、韋曜や盛沖らを側近くに招くことはしなかった。

孫休が死去する際、孫休は自分の息子に跡を継がせようとしたが、まだ歳は若く不安であったため、張布と濮陽興はその遺言に従わず孫休の嫡子を廃して孫皓を即位させた。

だが、後に万彧によって張布は孫皓を即位させたことを悔やんでいると讒言されたため、張布は誅殺された。

恩ある孫休の息子を皇帝と立てなかった張布のその時の気持ちは国を思っての行動かもしれない。しかし、恩を仇で返した彼の結末は仕方のないことであろう。

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張奮(ちょうふん)

張紹の弟で、二十歳の時に城攻めに用いる大攻車を発案し歩隲の推奨を受けて軍に入った。

しかし、張紹は軍に入った弟に対して、お前はまだ歳が若いではないか、どうして進んで軍に入るのだ?と心配すると、張奮は、その昔、童子であった汪踦は国難に殉じ、子奇は二十歳になる前に阿の地で統治をいたしました。私は不才ではございますが、年齢の点では不足はしておりません、と言った。

張奮は兵士を預かって将軍となり、続けざまに手柄を立てて、平州都督にまで昇進し、楽郷亭侯に封じられた。

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張秉(ちょうへい)

陽羨出身の庶民の生まれであったが顧邵に目をかけられて見事に最期は雲陽太守にまで昇進した。

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張約(ちょうやく)

散騎常侍で孫峻が諸葛恪を暗殺しようとした際、諸葛恪にメモを渡して孫峻の動きが怪しいと忠告している。

しかし、諸葛恪は孫峻に暗殺されてしまい、張約は孫峻に斬りかかったがその左手を傷つけただけで、孫峻の返す刀で右腕を落とされてしまった。

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張梁(ちょうりょう)

河南の人で孫皎に軍事を任された。その後、孫皎が死去すると孫皎軍は弟の孫奐に引き継がれ、孫奐は張梁を礼遇した。

後に孫権が石陽を攻めると、孫奐もその地の太守であることから呉碩、張梁ら5千人を率いて高城を攻め落とし三人の将軍を捕らえている。

江表伝には孫権が武昌から建業への遷都で悩んでいたとき夏口で百官を集めてその件について議論させたと書かれている。あまり適切な策が出てこない中でほとんと無名の張梁が下座から出て、今こそ信賞必罰の規律をはっきりと立て、武将を漢水流域におくりこめば我々に地の利がありますので敵は簡単に攻めてまいりません。その上で智謀にたけた人物に1万の兵で武昌を守らせれば緊急の場合にはいつでもその地に駆けつけられます。また甘水に城を築き軽快な戦艦千艘と役に立ちそうな兵器をしっかりと補充しておけば、城門を開けていたとしても敵は攻めてくることは無いと思われます、と献策した。

孫権は張梁の策が最も適切だとして、その場で張梁に官位を破格に上げた。のちに功績により沔水の督にまで昇進した。

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徴崇(ちょうすう)

字を子和(しわ)といい、易や春秋左氏伝を収め学問に精通していた。

懲崇は元々、李という姓であったが世の中が乱れると、姓を徴に変えて会稽に隠遁して畑を耕して生活を送っていた。そういう生活を続けていると彼に心を寄せる者たちが集まってきて学問を受けたが、教えるのは数人であり、それ以上になると徴崇は弟子入りを断っていた。理由は自分の学生たちの学業が一人残らず大成するようにと願って、弟子を多くは取らなかった。

徴崇は丞相であった歩隲といった人物たちと交わりを結び、その交わりはみな心のこもったものであった。そこで、厳畯は徴崇の行いは人々を励ますに足り、その学問は師と仰ぐに足るとして推挙した。

齢77で徴崇は死去した。

徴崇のもとの苗字が李であったことから李崇という名前の人物は徴崇と同一にされている。李崇という名前は、神で人の姿をしていると言われた王表を向かいに行く使者として、孫亮から皇帝の印綬を奪い取る使者として登場しているのだが、違う人物なのではないかと思う。

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趙昱(ちょういく)

広陵の太守であり、張昭とも親交があった。また趙昱は張紘を考廉に推挙している。

笮融が数万の人数と馬三千匹を連れて徐州から逃げ込んでくると、趙昱は笮融を賓客として迎えた。

しかし、笮融は広陵が繁華であることに目をつけ、酒宴がたけなわとなったのに乗じて趙昱を殺害して代略奪を行い、広陵から逃亡した。

張紘は趙昱に恩があったことから、趙昱の子孫を何とか探し出し、何とか趙昱の一族である5歳の男の子に後を継がせるように許可を得た。

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趙欽(ちょうきん)

孫皓の側近で陸凱の上表の返事の使者として遣わされた。

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趙咨(ちょうし)

字を徳度といい、南陽の人である。

博聞多識で、人との受け答えに巧みであったことから、孫権が呉王に封ぜられると、趙咨を中太夫に抜擢して魏への使者に立てた。

魏の魏帝(曹丕)は趙咨を頼もしく思い、からかうつもりで、呉王は少しは学問が分かるのか?と尋ねると、趙咨は、呉王は長江に一万の戦艦を浮かべ甲冑を着けた兵士百万を率いており賢者を信任し能力ある者を手足として使い、その志すところは天下国家の計略にあり、暇があると経書やその注釈、また他の歴史書をご覧になられその中から優れたものを吸収しておりますが、学者のように一字一句調べるようなことはなさりません。

更に魏帝が呉は討伐することが出来るだろうか?と尋ねると、趙咨は貴国には征伐の軍がございましょうが、わが国にも防御の固めがございます。魏帝が、呉にはあなたほどの知識人はどれだけいるのか?と尋ねると趙咨は聡明にして飛びぬけた見識を持つものが8~90人。私程度の人材でしたら一斗ますで計るほどいて数え切れません。

趙咨はこうして毎年のように北方への使者に立ち、魏の人々は彼を尊敬して高く評価した。孫権はこのことを聞いて喜び趙咨に騎都尉の官を与えた。

後に劉備が呉に攻めてきた際に趙咨は再び使者として魏に派遣されている。

その時、魏帝(曹丕)に、孫権の君主ぶりはどうかと尋ねられると、聡明にして仁智、雄と略とを備えた主君であり、魯粛を平民から取り上げた、これが呉王の聡であり、呂蒙を兵士から抜擢された、これが呉王の明であり、于禁を釈放した、これが呉王の仁であり、荊州を無血で手に入れた、これが呉王の智であり、三つの州にいながら天下を窺っておられる、これが呉王の雄で、身を屈して陛下(曹丕)に臣事しておられますが、これが呉王の略ですと述べた。

趙咨は魏との使者の経験を通して孫権に、私が見ますところ、北方の者たちがわが国との盟約を最期まで守り通すことはあり得ません。現在なすべきは、わが朝が漢王朝四百年のあとを承け、東南の地が勃興する気運に乗じて、新たに独自の年号を定めて服飾の色を正して転移に応じ民意に従われるべきだと思いますと上言した。孫権はこの意見を取り入れて実行に移した。

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趙楫(ちょうしゅう)

恐らく元は魏の武将だと思われるが、呉に降ろうとした所、失敗したものと思われる。

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趙泉(ちょうせん)

呉にいた名医だと思われる。

顧雍が病にかかると趙泉がその病状を診たのだが、彼が助からないと診断をすると顧雍も自分の天命だとして諦めた。

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趙濯(ちょうたく)

江夏の功曹で陸遜のもとに身を寄せた。

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趙達(ちょうたつ)

趙達は河南郡の人である。若い頃、後漢の侍中單甫について学問を修めた。東南の地方は王者の気があるので、難を避けられると考えて長江を渡った。

趙達は“九宮一算の術”という占いの術を身につけ、飛んでいる蝗の数や隠された品物の名をぴたりと当てた。飛んでいるものの数など分かるはずが無いという人には、筵の上に小豆を撒かせ、その数を占った。一つ一つ数えてみると、占ったとおりの数だった。

ある時、知人を訪れて食事を振舞われた。食事の後、知人は、にわかなこととで酒も無く、よい肴もなくて十分におもてなし出きずに申し訳ありません、と言うと、趙達は箸を算木代わりにして占ったが、お宅の東壁のもとに一石の美酒があり、鹿肉も三斤あるのに、なぜ無いと言われるのか?と問うと、知人は恥じて、あなたの占いの実力を試そうと思ったからでした、とその場を取り繕った。

ある人が、何千何万という数を書いた札を空の倉庫に入れておき、趙達に当てさせた。趙達はその数を当てると共に、これは名ばかりで中身は無い、と言った。彼の術はこれほど精妙だったと言われている。

趙達は自分の術を惜しんで人に明かさない。闞沢、殷礼ら名だたる儒者や優れた人物が教えを請うたが駄目だった。太史丞の公孫滕は若い頃から趙達に師事し、一生懸命学んだ。趙達は一旦は彼に秘伝を授けようと考えたが、とうとう教えることはなかった。孫権は征伐の際、いつも趙達に占わせ、結果はいつも彼の言うとおりだった。孫権もまた彼の術を知りたがったが、趙達は教えない。そのため疎んじられ俸禄や官位は上がらなかった。

趙達は星占いや風占いをする者たちを笑い、幔幕の中で算木を廻らせ、戸外に出ずに天道を知るのが占いなのに、昼夜、戸外に身を晒して予兆を読み取ろうとするのは真にご苦労なことだと、言っていた。

あるとき、趙達は自分の命運を占った。そして私の運勢は某月某日に尽きると出た。その日に死ぬであろう、と呟いた。彼の妻は、夫の占いが的中するのをしばしば見てきたので、この言葉を聞いて声を挙げて泣いた。趙達は妻の心を和らげようとして、改めて算木で占い、さっきのは間違いだ。死ぬのはまだ先のことだ、と偽ったが、死んだのは初めに占ったとおりの日であった。

孫権は趙達が占術を記した書物を持っていると聞いたので、その死後、手に入れようとして娘を拘禁して糾明した。さらに棺まで開けて探したが、何も得られなかった。その術は彼の死によって失われた。

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陳永(ちんえい)

陳武の孫で将軍にとなり侯に封ぜられた。

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陳延(ちんえん)

陳武の孫で陳表の息子である陳敖が死去すると再び司馬に任ぜられて跡を継いだ。

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陳化(ちんか)

字を元耀(げんよう)といい、汝南の人。225年、太常の顧雍が孫邵に代わって丞相となったので、陳化は尚書令と太常を兼任した。彼は群書を博覧し、気性は剛毅で、しかも身長七尺九寸、生来、辺りを払う威風を持っていた。

これより先、郎令中として魏に遣いで向かった。曹丕は酒が回った勢いで、呉と魏が対立しているがどちらが海内を統一するか、と陳化に問うた。

陳化は、易の説卦伝には帝は震に出づとあり、天命を知る先哲は天子の儀杖は呉の星座の分野にかかり、運気は東南に在りと申しております、と答える。

曹丕はまた、昔、周の文王は西伯から立って天下統一をした。どうして東と言うのだ、と聞いた。

すると陳化は、周が国の基を築いたのは、その一族である太伯が東にいたからこそ、文王は西方より興ることが出来たのでございます、と言い返した。

曹丕は笑って反論せず、心中、その言葉を優れていると評価した。帰国の際には丁重な礼をもって送り返した。この間、魏と呉はしばしば交戦しておいり、盧弼は、使者が往来するのは異事である、と疑問を呈している。

孫権は使命を奉じて陳化が国の名誉を輝かせたということで、彼を犍為太守に任命した。そして、前述のように太常に昇進し、尚書令も兼任した。陳化は色を正して朝廷に臨み、自分の子弟たちには営利事業をやめさせ、官の俸禄だけで生活するよう命じた。早くに妻を失くしたが古例に従って再婚しなかった。

孫権はそれを知って感銘を受け、彼がまだ壮年だったので、宗正に命じて宗室の娘を妻に与えようとした。しかし、陳化は病気を理由に辞退したので、孫権も無理強いはしなかった。七十歳を過ぎたとき、上訴して退官を乞い会稽の章安で死去した。

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陳紀(ちんき)

袁術の配下で、袁術は九江の太守を孫策に任ずる約束をしていたが、守らずに陳紀を九江太守にした。

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陳勤(ちんきん)

孫呉郡が麻屯を攻めたときの、部隊の督であった。攻める前日の酒の席での振る舞いがひどかった為、若かった凌統に注意されると、凌統を侮辱しまくった。凌統は我慢できなくなり陳勤を斬っている。

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陳勲(ちんくん)

校尉で屯田兵と工兵三万人を率いて句容中道に運河を掘り曲阿の雲陽西城を結んで、そこに商人たちの交易場を配置し、食糧倉庫を建てた。

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陳敖(ちんごう)

陳武の孫で齢十七にして別部司馬に任ぜられ兵士4百人を預けられた。恐らく早世であった。

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陳氏(ちんし)

潘秘の妻。

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陳時(ちんじ)

士燮死後、孫権に任ぜられて交趾の太守となるが、士徽はそれに反対し部族兵を集めて着任を阻止した。

その後、呂岱軍に合流し、士徽を初めとする士一族を斬った後、交趾太守になったと思われる。

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陳熾(ちんし)

陳化の長男で字を公煕(こうき)といい、若い頃から志と行いを正しく持ち、事を見通す才能をそなえていた。

衛将軍の全琮は上表して陳熾は大将軍の任にもたえる人物だと称賛し、招請をうけて官に赴くことになったが、その途中で死んだ。

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陳脩(ちんしゅう)

陳武の子で父親の風があった。19歳の時、孫権は謁見して兵五百人を与え、別部司馬に任じた。当時、新兵の逃亡が多かったが、陳脩は彼らをよく処遇してその心を得、一人の逃亡者も出さなかった。

孫権はこれを高く評価して校尉を授けた。建安年間の末、功臣の整然の功を再評価して子孫に恩賞を与えたとき、陳脩は都亭侯に封じられ、解煩(精鋭部隊)の督を委任されて。しかし惜しいことに230年に死去した。恐らく30半ばであったと思われる。

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陳就(ちんしゅう)

黄祖の配下で、孫権が攻めて来ると都督であった陳就に命じて水軍を動かし孫呉軍を迎撃させた。

しかし董襲が、かかんに黄祖軍の船に攻め込み、体勢が崩れたところ陳就は呂蒙に船に乗り込まれ首を斬られてしまう。

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陳恂(ちんしゅん)

中書で句麗王への感謝の気持ちを伝える使者となった。

後に、陳恂も二宮の変に間接的に巻き込まれたようで、孫覇派である全琮親子の讒言を受け強制移住させられた。

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陳焦(ちんしょう)

安呉の平民であるが、死亡して埋葬してから6日後に生き返ったと言われている。

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陳象(ちんしょう)

二宮の変の結果、孫権は孫和の廃しようとしたが、それを陳象は陳正と共に晋の献公が太子の申生を殺した例えを出して何度も孫権を説得し諌めようとした。

しかし、結局は意固地になった孫権を止められず逆に逆鱗に触れた格好となり一族を皆殺しにされた。

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陳正(ちんせい)

二宮の変の結果、孫権は孫和の廃しようとしたが、それを陳象は陳象と共に晋の献公が太子の申生を殺した例えを出して何度も孫権を説得し諌めようとした。

しかし、結局は意固地になった孫権を止められず逆に逆鱗に触れた格好となり一族を皆殺しにされた。もしかしたら、陳正と陳象は血縁関係者なのかもしれない。

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陳声(ちんせい)

司市中郎将で、孫皓が特別に目をかけている臣下であったが、孫皓の寵愛を恃んで、孫皓の愛妾が市場にて人を使って強奪を働いたのでこれを処罰した。

すると愛妾はこのことを孫皓に訴えると、孫皓は激怒し別のことにかこつけて陳声の首を斬り落とし、死体を四望山のふもとに棄てさせた。

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陳遷(ちんせん)

黄門で孫和の妃である張氏に頼まれ建業に行って中宮に上疏させ諸葛恪にも挨拶させた。

その時、諸葛恪が陳遷に将来、孫和を中央にお迎えするという不用意な一言を言ってしまったため、孫和は後に自殺を命じられることになる。

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陳端(ちんたん)

字を子正(しせい)といい孫策時代のNo.4の位地にあった参謀であるが早世した。

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陳桃(ちんとう)

虞翻と同じ郡出身の役人。

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陳敗(ちんはい)

黄巾党の残党で朱治に敗れている。

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陳毖(ちんひ)

零陵にいた山越の不服住民で陸凱に斬られた。

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陳苗(ちんびょう)

太史郎で、陸凱が一度、孫皓の暗殺計画を練ったことがあるが、その時に曇りがちで雨が降らず、風邪がくるくる方向を転ずるのは、密かな企みが実行されようとしているからと助言した。

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陳表(ちんひょう)

字を文奥(ぶんおう)といい、陳武の妾の子である。若いときから名を知られ、諸葛恪、顧譚、張休らとともに太子孫登に侍御し、彼らは互いに信仰を結んだ。尚書の曁豔も陳表と親しかったが、曁豔が罪を獲ると、それまで親交があった者は、自分を守るためにその行いを非難した。しかし陳表だけはそんなことをしなかったため、人々から重んじられた。

兄の陳脩が亡くなると、陳表の母親は正妻である陳脩の母親に仕えることを承知しなかった。陳表は、私が兄に代わって家の事を取り仕切り、嫡母にお仕えせねばならぬことになりました。母上が私のために情を屈して嫡母に従ってくださることが、私のこの上ない願いです。お聞き入れいただけないなら、私は家を出て別居しなければなりません、と母を説いた。二人の母はこうした陳表に心動かされ、それからは仲睦まじくなった。

陳表は父が戦場で死んだので、その志を継ごうと自らを求めて武将になりたいと申し出て五百人の兵を授けられた。陳表は兵士に力を尽くさせたいと心を傾けてよく待遇したので、彼らは喜んで命令に従った。

このころ、無難軍の兵士施明が官有物を盗んだ疑いで逮捕されたが、勇猛な彼は厳しい拷問を受けても白状しない。孫権は陳表が常日頃、健児たちの心をよく掴んでいることから、施明を預けて事情を糾明させた。陳表は頭ごなしの態度をとらないで温情を持って接したので、施明は罪を認め、一味の名も告げた。

孫権は大いに喜び、陳表が騙したことにならないよう考えて、特別に施明を助命し、一味の者達を誅殺した。陳表の態度に感じて行いを改め、後には将軍にまで昇進した。

234年、丹楊郡の山越の討伐に諸葛恪が向かうと、陳表は新安都尉として、これを助けた。都尉の官にあった三年間、陳表は広く反抗者たちの帰順を受け入れ、兵士一万人余人を得た。反抗者たちを平定し、任地を離れないようとしたとき、鄱陽郡の民の呉遽が反乱を起こし、郡の属県にまで不穏な空気が漲り始めた。陳表は取って返し、たちまち呉遽を降伏させた。陸遜の推薦によって偏将軍を授かり、都郷侯に爵位を進められた。

陳表もまた三十四歳の若さで亡くなった。家財はことごとく士を養うために費やされ、妻子は路頭に迷う有様であった。太子孫登は憐れんで住居を建ててやったという。

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陳奉(ちんほう)

校尉で句麗王に使者で行った際、既に魏から呉の使者を捕らえて殺害するように命令されている情報を得て、来た道を引き返し、逆に句麗王の手下を捕まえ、句麗王に謝罪させた。

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陳宝(ちんほう)

孫策の配下で孫策が劉繇を破って曲阿に入ると、孫策の母親と弟を迎えに行った。

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陳僕(ちんぼく)

黟の頭目で祖山と二万戸を集めて林歴山に立てこもり賀斉に対峙した。険阻な地形を利用して賀斉軍を近づけなかったが賀斉軍に険しい壁をよじ登られ、軍が混乱したところで一気に破られてしまった。

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陳融(ちんゆう)

陳国出身で後ろ盾もなく貧しい境遇にあったが陸瑁に助けられた。

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陳留王(ちんりゅうおう)

孫皓の息子で273年に王に封じられた。因みに息子は全部で11名いる。

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丁晏(ていあん)

都督の劉宝に告発されたので告発しかえしたので、孫和にちょっとした気持ちの行き違いで相手を疎んじたり傷つけて意味があるのか?と諭された。

後に中書丞にまで出世すると、孫綝が権力を得た際に滕胤の武昌までの護衛を任じられる。だが、逆に滕胤に軟禁されることになり最後は滕胤に殺害されたと思われる。

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丁固(ていこ)

丁覧の息子で字を子賤(しせん)といい、元々の名を丁密といったが、滕密との名が同じになるのを避けて丁固に改名している。丁固は若い頃から必ず出世するであろうと、闞沢や虞翻に期待されていた。

257年、鍾離牧と共に鄱陽と新都の反乱を討伐しに行った。

262年、廷尉から御史大夫に昇進する。

265年、建業から武昌に遷都されると、丁固は諸葛靚と共に建業に留まり守りにあたった。

266年、施丹らが孫謙を担ぎ出して反乱を起こすと丁固は諸葛?と共にこの反乱軍を撃破して鎮圧した。又、この年、実は丁密は陸凱と丁奉らと共に孫皓を暗殺することを考えていたのだが、事が漏れそうになったため計画は実行しなかった。

268年、司徒に昇進する。丁固は尚書であったころ、松の木が腹の上に生えるのを夢に見て、人に、松の字は十八公からなる。十八年あと私は三公となるであろう、と言ってそれを実現させた。

273年に国家の行方を心配して齢七十六で死去した。陸機の弁亡論にも登場しており、伝を立てられても不思議ではない人物だと思われるのだが・・・。

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丁諝(ていしょ)

銭唐出身の兵卒で顧邵に抜擢され典軍中郎まで出世した。

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丁忠(ていちゅう)

五官中郎将で晋の文帝の死を弔う使者となった。そして帰国後、孫皓に北方には武具の備えがされていないので今こそ不意をついて攻めるべきだと上表したが、実行されずさたやみとなった。

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丁蕃(ていはん)

松陽県の長で建安、漢興、南平の地で反乱が起きた際に賀斉に敵の動きに備えるように命じられたが賀斉とは同輩であり、配下の如く命令を聞くのは恥だとして指図を受けなかったが。その為、賀斉はやむえず丁蕃を斬った。

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丁孚(ていふ)

太史令で孫権に命じられて呉書の編纂をしたが、内容的にはあまり価値の無いものであったらしい。

この呉書は後に韋昭等に引き継がれている。

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丁封(ていふう)

丁奉の弟で後将軍の官にまで昇進したが、丁奉より先に死んだ。

東関の戦役では全緒と共に献策をして魏の軍を打ち破っている。263年には孫異と漢水流域へと軍を進め、魏を牽制して蜀を援護しようとしたが、結局蜀は降伏してしまう。他にも色々と戦歴はあると思うが、残念ながら正史三国志には書かれていない。

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丁覧(ていらん)

字を考廉(こうれん)といい、丁固の父親である。

八歳の時に父親を失うと、有力な後ろ盾も無い家柄であったが清廉に身を持して行いに気をつけ、つねに熟考の後に行動を取った。

財産を従兄弟に譲ったことから、道義を守って財を貪らぬと称賛された。郡の役所に出仕して功曹にまで昇進し、始平県の長の任にあてられた。

彼は細かい気配りができる人間で、清潔な性格であり、その家につまらぬ人物が客としてくることはなかった。

孫権は丁覧を丁重に遇したが、まだ抜擢して官に用いずにいるうちに丁覧は病気のために死去した。孫権はそれをひどく痛惜し、その一族の者たちに特別な待遇を与えた。

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程咨(ていし)

程普の息子で孫権が皇帝になると程普の生前の功績を評価して亭侯に封じられた。

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程秉(ていへい)

字を徳枢(とくすう)といい、汝南郡南頓の人である。

古文径学と今文径学の統合を目指した大儒鄭玄に直接教えを乞い後に交州に来ていた劉煕と物の道理の根幹は何かを論じ、広く五経に通じるようになった。交州は遠く中原から離れ、交趾太守士燮は自信、左氏春秋の注釈を書くくらいの学者でもあったので劉煕を初め多くの学者や士人が彼を頼って中原から身を寄せた。

士燮は程秉を長史に任命した。孫権は彼が名儒だと聞いて手厚い礼で招聘し、太子太傅とした。

225年、孫権は太子孫登のために周瑜の娘を娶らせることにし、程秉を太常に任命して呉に向かわせた。帰国後、程秉は孫登に、婚姻は人倫の始めをなすものであり、王者の教化の基となるものでございます、と説いた。孫登は笑って、美しいことを行い、悪いことを正す、それを太傅に期待しているのだ、と答えた。

程秉は在官のまま病死した。没年は記されていない。著述には周易摘、尚書駁、論語弼などおよそ三万余字の作品が遺された。

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鄭嫗(ていう)

江南の八絶の一人で、孤城の人。人相判断に巧みであった。

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鄭札(ていさつ)

鄭冑の父親で才能と学問があり万事に通じていた。孫権が驃騎将軍となると、鄭札は従事中郎に任じられ、張昭、孫邵と共に朝廷の儀礼制度を定めた。

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鄭泉(ていせん)

字を文淵(ぶんえん)といい、陳郡の人である。

博学で人と異なる志を持っており、孫権は見所があると思って議郎に任じた。かつて孫権は彼に、君は衆中で面と向かって諌めることを好むが、礼と敬を失しているのではないか。どうして主君の逆鱗に触れるのを畏れないのか、と訊いたことがある。すると鄭泉は、主君の広い仁愛を心強く思っておりますゆえ、逆鱗を畏れません、と答えた。

ある日、孫権は鄭泉を怖がらせようとして宴会から引きずり出して役人の手に渡した。その時、鄭泉は何度も孫権の方を振り返った。孫権は彼を呼び戻して笑いながら、逆鱗を畏れぬといいながら、何故何度も振り返るのか、と問うた。すると鄭泉は、御仁愛と御庇護を信じておりましたので死罪にならないと信じていました。しかし主君の御威霊に心打たれ、思わず振り返りました、と答えた。

222年、劉備は陸遜の火攻めによって大敗すると白帝城に逃げ帰った。孫権が太子孫登を人質として送ってこないため、魏は九月に呉に出兵する。十一月、孫権は二国を相手にしては不利だと思い、蜀との外交関係を修復しようと考えた。そこで使者とした発ったのが鄭泉である。

劉備は鄭泉に、呉王はなぜ私の手紙に答えないのか。私が大義名分を正して帝位に即いたのがよくないと考えているからか?と詰問した。劉備の手紙とは、221年に皇帝を称した時、それを孫権に報じたものを指す。

鄭泉は、曹操父子が漢の王室を踏み躙り、ついには帝位を奪い取りました。殿下は漢の宗室でありながら、王室を守ろうとはせず、勝手に帝号を称されました。これは天下の輿論と合致しないものです。それゆえ、わが主君もまだ御返事を書かないのです、と応じた。これを聞いて劉備はひどく恥じ入った。

鄭泉は皇帝を称するに劉備に対して陛下とは呼ばず、殿下と言っている。これは劉備を王並みにしか見ていないことを示し、呉王孫権と同格として扱っている。この辺に鄭泉の、呉を代表する使者として毅然たる態度が窺える。

鄭泉は酒が好きで堂々こう言っていた。五百石の船一杯に美酒を満たし、四季のうまい物を酒の肴として用意する。船の中でばちゃばちゃしたり潜ったりして酒を飲み、疲れたら肴を食べる。酒がちょっとでも減ったらすぐに注ぎ足す。こんなことがやれたら愉快ではないか!

鄭泉は死に臨んで友人達に、私を必ず陶器作りの家の側に葬ってくれ。百年後、私の遺骸は化して土となり、うまくすればその土が使われて酒壺になれるやも知れぬ。そうなればしめたものだ。と遺言した。

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鄭冑(ていちゅう)

字を敬先(けいせん)といい、沛国の人で鄭札の末息子である。

文武の資質と才略をそなえ、若い頃からその名を知られていた。賢良に推挙され、やがて建安太守に昇進をする。

後に呂壱の食客が建安郡で法を犯したときに鄭冑はこれを逮捕して獄に入れて、その罪を厳しく取り調べて殺した。すると呂壱はこれを恨みに思い、のちに鄭冑を密かに讒言すると孫権はその讒言を聞いて大いに腹を立て、鄭冑を召還して処刑しようとしたが、潘濬と陳表がそろって彼のために命乞いをしたので無事釈放された。

後に宜信校尉に任ぜられ公孫淵の救援に向かったが、結局に魏に破れ帰還した後、執金吾の任にうつった。

その後、鄭冑は鍾離牧と共に鄱陽と新都の反乱鎮圧に向かって制圧している。

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鄭長(ていちょう)

呂蒙が義兄である鄧当のもとにいた役人に侮辱されたので怒って殺した際、鄭長の家に逃げ込んでいる。

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鄭宝(ていほう)

巣湖の賊で一万余りの衆を擁していた。

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鄭豊(ていほう)

字を曼季(まんき)といい、鄭冑の息子。

文学的素養があって素行が正しく陸雲と親密で、陸雲と詩の応酬をした。司空の張華が彼を自分の幕府に招いたが、出仕せぬうちに死去した。

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鄭礼(ていれい)

孫邵、張昭、滕胤らと共同して周代や漢代の礼制から採って朝廷における儀礼制度を制定した

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翟素(てきそ)

永寧出身で、盗賊にせまられたとき、自殺をして身を汚すことはなかった。

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翟丹(てきたん)

もともと呉の武将であったが228年に魏に降った。

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杜徳(ととく)

秦旦らと公孫淵の使者となり、捕縛されたあと大脱出をした一人。杜徳は張羣が足を怪我して動けなくなると、山に残り張羣のために山菜や木の実を採って助けを待った。

この逃亡劇の詳細は秦旦の欄を参照して欲しい。

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東平王(とうへいおう)

孫皓の息子で269年に東平王となる。後に斉王に改封される。

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唐固(とうこ)

字を子正(しせい)といい、闞沢の同郷の先輩。

身を修め学問をつんで、真の学者だとの評判をとった。国語、公羊伝、穀梁伝の注釈を著し、その学問を受ける学生が常に数十人をくだらなかった。

孫権が呉王となると、唐固を議郎に任じ、陸遜、張温、駱統といった人々も皆、彼に丁重な礼をとった。225年に尚書僕射となり70余で死去した。

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唐咨(とうし)

元々は魏にいた武将で、利城郡の兵士である蔡方らが郡をこぞって反乱を起こすと、太守である徐質を殺害し、そして唐咨を擁立し反乱軍の指導者とした。しかし王凌と呂虔に破れ海上に逃れ語に亡命した。

235年、呂岱と共に廬陵郡の賊徒の李桓と路合、会稽郡東冶の賊徒の髄張る、南海郡の賊徒の羅厲らを全て打ち平らげ、さらには239年に再び呂岱と共に数万人にも昇る廖式の反乱軍を一年余りで全て打ち破った。

252年、丁奉と共に東興の戦いにて魏軍を大いに破る。

256年には前将軍にまで昇進し、孫峻が死去して孫綝が跡を継ぐと呂拠、文欽らと共に滕胤を丞相にするように推薦したが孫綝に阻まれた。そして、それどころか、それに腹を立てた呂拠を捕らえろと孫綝に命令された。

257年、諸葛誕が反乱を起こすと文欽、全端らと共に三万の兵を率いて寿春に入る。だが、魏と熾烈な戦いを繰り広げ最期には敗北し魏に降ってしまう。

魏に下った唐咨であるが、処刑されずに逆に安遠将軍に任じられ、呉も唐咨の家族を処罰することは無かった。唐咨は帰順後、魏の国政に参与していたとのことである。

魏から呉に降り、更に魏に戻った唐咨は珍しい人物である。しかし、呉では内乱の平定、魏との戦いでその実力を発揮した彼を処罰しなかった司馬昭はやはり傑物と言えるだろう。

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唐盛(とうせい)

監軍使者で、鍾離徇が宜城と信陵に城を築くべきだと意見した際、それを取り上げなかった。それから半年後、晋軍は信陵に城を築き呉は衰退していった。

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陶璜(とうこう)

蒼梧太守で269年に交趾に遠征に行くが恐らくこの年の遠征は李勖が軍を帰還させたときに一緒に帰還したと思われる。

271年には再び交趾を攻め、晋が置いた武将たちを打ち破った。漢晋春秋には交趾の守りをした晋将に対して晋は100日にならないうちに降伏したら一家眷属を誅殺されることになっていた。すると、敵が100日経たない内に降伏してきたので陶璜は許さず食料を送って城の守りを続けさせた。

味方は陶璜に食料を送ることを諌めたが、陶璜は義ある行動を取るべきだと言い、100日後に晋将の降伏を認め、身柄を保護した。

恐らくこの功績で陶璜は交州の牧にまで昇進しており、279年に郭馬が反乱した際、郭馬を攻撃している。

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陶濬(とうしゅん)

徐陵の督で郭馬が反乱を起こした際、七千人の兵を率いているが、武昌に来たところで魏軍が大挙しておしよせてきたと聞き、武昌に軍を留めて広州には向かわなかった。

しかし、呉は張悌らを失い滅亡寸前となってしまう。そこで陶濬は武昌から帰還して孫皓に引見して二万の兵を率いて大船で戦えば晋を打ち破れると献策する。しかし、翌日出発しようとしたとき、その前の夜に全ての兵卒は逃亡してしまった。

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董嗣(とうし)

不服住民の頭目で険阻な地に根城をおいて強盗略奪を働き豫章と臨川の二郡に被害を与えていた。

吾粲と唐咨が三千の兵で攻めてきたが董嗣はこれを何ヶ月も防ぎ戦った。すると周魴が軍事行動をやめさせるべく上表して、その後、間諜を送って策を授けると、董嗣は誘いに乗って殺害された。

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董岑(とうしん)

幼いときから周魴の家で育ち、周魴には身内、我が子の如く信頼されている。

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董朝(とうちょう)

中書郎で孫亮が廃されると、使者となって孫休を帝位につけるべく迎えに行った。孫休が帝位につくと、わざわざ迎えに来てくれた董朝を郷侯に封じると詔を下していった。

孫皓が帝位につくと、中書令となり彼の名は病気になった陸凱と孫皓の間の使者となってみられる。276年には兼司徒にまで昇進している。

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董桃(とうとう)

孫権の使者として曹操のもとに訪れている。

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董奉(とうほう)

字を君異(くんい)といい、侯官の人である。

葛洪の神仙伝には仙人として登場し、死んだ士燮の口の中に丸薬を水と一緒に含ませると頭を持って士燮を揺り動かし丸薬を飲み込ませた。

すると士燮は目を開き手を動かして顔色もだんだんと回復して半日もすると立ったり座ったりできるようになり、四日でまた言葉がしゃべれるようになり元の体に戻った。

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董和(とうわ)

呉の廬江参軍と人物索引には出ているが、正史を見ると呉の捕虜になったような文章である・・・。もともと魏の将で捕虜となった後は呉に仕えたのだろうか?

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僮芝(とうし)

孫策時代の丹楊出身の人物で廬陵で勝手なふるまいをし、詔書を受けて太守になったと詐称していた。

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滕脩(とうしゅう)

南陽出身で孫権時代には広州の刺史となっている。

陸凱が孫皓に死に際に上表した際、才あるものとして姚信、楼玄、賀邵、張悌らと名前を並べられている。

呉の滅亡の一年前、執金吾から司空に任ぜられることになったが、その任命が行われないうちに鎮南将軍に職を改め一万人を率いて郭馬討伐に向かった。しかし、始興で王族の軍と遭遇して先に進めずにいる間に郭馬の反乱は激しくなった。

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滕耽(とうたん)

滕胤の伯父で孫権が車騎将軍となったとき、滕耽は右司馬の任を授かり寛容で篤い心を持っていることで評判が高かったが、若くして死去し、跡継ぎがいなかった。

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滕冑(とうちゅう)

滕胤の父で立派な文章を書く人物で知られており、孫権は滕冑を賓客として礼遇し、国事や軍政に関する文書類はいつも滕冑に命じて添削と潤色を加えさせた。

しかし滕冑は若くして死去してしまう。

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滕夫人(とうふじん)

孫皓の滕夫人は太常の故滕胤の一族の滕牧の娘である。滕胤は族滅の憂き目に遭ってしまったが、滕牧は縁戚だったので地方に流されただけで済んだ。孫休が即位すると大赦があって五官中郎に任じられた。この年、孫皓は鳥程侯に封じられ、滕牧の娘を娶って妃とした。

孫皓が即位すると滕夫人は皇后に立てられた。しかし、後に孫皓の寵愛も薄れその地位を廃されかけるが、孫皓の母親である何姫が口ぞえをしたことと、太史の役人らが暦の運勢からいって皇后を替えてはならないと助言したため、巫女達の巫術を信じる孫皓は言葉に従って滕皇后を廃位しなかった。その為、滕夫人は何姫へのご機嫌うかがいを欠かすことがなかった。

呉が滅びると滕夫人は孫皓に従って洛陽に移った。

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滕牧(とうぼく)

滕夫人の父親で元々は滕密といったが、丁密の名を避けて牧と改名した。

滕胤とは親戚関係が遠いということで、滕胤が孫?に征伐された際は死罪を免れたが辺境の地に強制移住させられた。しかし、孫休が帝位につくと大赦が行われ都に戻ることが出来、五官中郎に任ぜられた。その後、滕牧の娘は孫皓に嫁いだ。するとその孫皓は孫休が死去すると帝位に即くこととなり滕牧は高密侯に封じられ、衛将軍、録尚書事の官を授かった。

後に孫皓が武昌から建業に遷都をすると滕牧は武昌に留まって守りに当たった。

孫皓の暴政がひどくなると、朝廷にあるものたちは滕牧が皇帝の外戚であることから幾度も滕牧をおしあてて孫皓に諌めの意見を言上させた。その為に滕牧は宮廷を追われて蒼梧郡に移住することを命じられ、島流しの刑にあった。そのため、蒼梧郡に行く途中に滕牧は心の憂いのあまり死亡した。

孫皓政権の中で滕牧という人物は王蕃を助けようとしたこともあり、誠実で常識のある人間だったと思われる。だが、誠実な人物が故、他の人物同様に幸せな人生を送れなかった。

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鄧凱(とうがい)

秭帰の豪族で異民族の兵士数千人を指揮下に収め、蜀と気脈を通じていた。しかし、謝旌を率いた陸遜に打ち破られると蜀に逃亡したが、後に陸遜が人を遣わせて呉に帰順させた。

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鄧玄之(とうげんし)

郝普とはふるなじみで呂蒙が荊州を攻略した際、鄧玄之に郝普を降伏させるように勧めさせ鄧玄之は説得に成功した。

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鄧当(とうとう)

呂蒙の義兄で孫策の武将であった。孫策の武将として山越の征伐にも出ており、その際、若き日の呂蒙は隠れて従軍している。

後に鄧当が死去すると、その軍は呂蒙に引き継がれた。

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鄧龍(とうりゅう)

黄祖の配下で、数千人を率いて柴桑に侵攻したが、逆に周瑜に敗れ生け捕りにされて呉へ送られた。

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