全呉将紹介
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オウチョク
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オウトン
王惇
オウハン
王蕃
オウヒョウ
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王夫人
オウフジン
王夫人
オウブンヨウ
王文雍
オウヤク
王約
オウロキュウ
王盧九




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夷廖(いりょう)

薛綜伝の中に登場する武将である。交州刺史の張津の部下であった。張津が殺害された後も、しばらく交州にそれなりの勢力として残っていたようではあるが後に孫権が歩騭を交州刺史として送ったときにに討伐されてしまう。

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韋曜(昭) (いよう、いしょう)

字は弘嗣(こうし)。韋曜は若い時から学問好きで文才に恵まれ、太子中庶子として孫和に仕えていた。孫和が博打に人々が現を抜かす風潮を苦々しく思い韋曜に命じてそれがいかに無益なものかを論じた文を提出させた。

韋曜は今の世の人々は学問にいそしむことより、博打のほうを好み、仕事もやらず、寝食を忘れて没頭する。それによって得られるものは何も無い。博打に費やす精力を学問に注げば、顔回や閔子騫のような賢人の志を継げようし、それを智謀計略の上に用いれば、張良、陳平の思慮を具えられようと述べた。

二五二年、孫権が亡くなると、諸葛恪は上表して、韋曜を太史令の位につけ呉書の撰述を始めさせた。韋曜の呉書の断片は裴松之の注に多く引用されており、隋志によると本来五十五巻あったと言われる。

孫休が帝位に就くと、韋曜は中書朗、博士祭酒として多くの書物の校訂を担当した。政治に意欲があった孫休は韋曜や盛沖を招いて侍講させたいと思っていたが張布が自分の後ろ暗い行為を二人に指摘させることを恐れて反対したため実現しなかった。

孫皓が即位すると韋曜は高陵亭侯、侍中に昇進し、さらには左国史を兼任する。しかし、正論を吐く韋曜は結果的に孫皓の意に逆らうことが度々会った。

孫皓は父である孫和のために呉書の中に本紀(帝王の事業を記したもの)を立てたいと望んだが、韋曜は孫和は太子で終わっており伝とするべきだと主張して譲らなかった。

孫皓は韋曜を憎むようになり度々激しく叱責した。そうした状況で韋曜は老年多病を理由に侍中と左国史の二官を辞職して編集中の呉書に集中したいと願い出たが孫皓はこれを許さず任を決して解かなかった。

韋曜の孫皓に逆らっていたため、最終的には二七三年に投獄されてしまう。

韋曜は獄吏を通じて謝罪し、それまでに脱稿した官職訓、辯釈名の二書を献上したが許されなかった。また、右国史であった華覈も韋曜を救おうと何度も上訴したが結局は許されず韋曜は殺され、その家族は零陵に配流された。



韋隆(いりゅう)

韋曜の息子。文化的な方面に才能があったと書かれている。恐らく、父の韋曜が殺された後、零陵に配流されたと思われる。

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尹異(いんい)

呂岱配下の武将で211年に呂岱と共に2千の兵で西に向かい漢中の張魯を誘い出そうとした。しかし、張魯は怪しみ道を遮断したため諦めて呂岱は呉に帰還した。

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殷基(いんき)

殷礼の息子で「通語」を著した。「文士伝」には殷基は無難の督となり、その才能と学識とで名を知られ「通語」を著したと書かれている。父親の殷礼は零陵の太守で、殷基の息子も優秀な人材であったらしく殷家は意外と侮れない。



殷巨(いんきょ)

殷基の息子で字を元大(げんだい)と言い有能な人物であった。呉の偏将軍に任ぜられると、家の子郎党を引き連れて、夏口に城を築いて守りに当たり、呉が平定されたあとには、蒼梧太守に任ぜられた。

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殷興(いんこう)

孫皓時代に桂林で反乱を起こした郭馬の部下の一人。郭馬と共に広州の督の虞授を攻め殺し、その後、郭馬に広州刺史に任じられる。

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殷模(いんも)

校尉の位に就いていた人物で、理由は分からないが孫権の怒りをかってしまい処刑されそうになる。しかし、殷模の人柄が良かったのか、ただ単に孫権が理不尽であったためか分からないが、多くの群臣たちが彼のために取り成しをする。

特に諸葛瑾は孫権を上手い事説得し、彼のお陰により殷模は処刑されることから逃れられた。

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殷祐(いんゆう)

字を慶元(けいげん)と言う。殷基の三人の息子のうちの末息子であり呉郡太守となる。

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殷礼(いんれい)

字を徳嗣(とくし)と言う。雲陽(曲阿)の出身で吾粲と同様に微賤な身分から身を起こしたが、顧邵は二人を抜擢し友人として遇し、二人のために良い評判をまねいた。因みに顧邵とは呉の丞相の顧雍の息子である。

殷礼は若いときから弄れごとは好まず、人々にすぐれる深い見識を備えていた。若くして郡の役人となり、齢19のときに呉県の丞の職務を代行した。孫権が呉王となると、召されて朗中に任じられ、後に張温とともに蜀に使者として派遣されたが、諸葛亮は彼のことを賞賛した。いくつかの官を歴任し、零陵太守まで昇進して、在官のまま死去したと息子の殷基の著した通語に書かれている。

また、殷礼は占術にも長けていたらしい。張温伝では殷礼という人物は、もともと占候に巧みだということで召しだされた者であったが、張温は何度も願い出て彼を蜀に伴ってゆくと、外国において盛んに持ち上げ、かれのことを話題にしてやったと書かれており、趙達伝では殷礼や関沢が趙達を尋ね彼の占術を学ぼうとしたが趙達はそれを秘め隠したまま教えようとはしなかったと書かれている。

殷礼がいかに才のあった者であったかが分かるのが「漢晋春秋」に書かれている殷礼の孫権への上言である。彼は、零陵太守であったときに孫権に、現在、天はすでに曹氏を見捨てられて、魏を滅ぼそうとと徴がしばしば現れており、権力者たちが覇権を争う中で幼い主君が魏の国の統治にあたっております。陛下は軍を指揮され、滅びかかった魏に圧力をかけ、これを手中に収められますように。荊州、揚州、益州(蜀)を総動員し隴右に軍を進ませ、諸葛瑾朱然には大軍を授け襄陽に向かわせ、陸遜と朱桓とを別働隊として寿春に向かわせ、陛下は自ら淮水の北方に進出すれば、襄陽と寿春は攻撃を受けて手も足も出ず、長安より西は蜀軍に対抗することで一杯になり、許昌や洛陽の軍勢は必ずやばらばらになることでしょう。このように多方面から攻めれば魏は内部からも崩れ、一軍でも敗れれば魏全軍の統制が失われます。もし、全軍投入せずに、これまで通りに小規模な作戦を展開すれば、ジリ貧となり時間の経過と共に力は枯渇しますぞと言った。

中々壮大な計略である。残念ながら孫権はこの上言を退けたが、是非、陸遜あたりがどう思うのか知りたいところである。因みに恐らくこの計略は曹叡死後のことである。仮に曹叡死後1年の話であれば、呉も飢饉に見舞われており、総動員するほど国力が無かったのかもしれない。

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隠蕃(いんはん

青洲の人で口弁の才があったところから、魏の曹丕に命じられ偽って魏を裏切ったように見せて呉に行かせた。

隠蕃は投降すると“私は、紂王が無道を行ったとき微子が国を離れ、高祖が寛大な施策を行ったとき陳平が漢に身を寄せたと聞いております。私は弱い二十二ではございますが、自らの領地を棄て有道の主君のもとに命を託そうとしております。しかし、私の扱いは捕虜同然で私が単に捕らわれ人ではないことを理解してもらっておりません。そのため、こうして上書しお目通りを賜るようお願いする次第でございます。”と上書した。孫権はその後、隠蕃を呼び寄せ召しいれた。そこで隠蕃は孫権の質問に答えるとともに、当面の政治的課題について論じたが言葉も態度もなかなかであった。

そこで孫権は胡綜に意見を求めると、胡綜は“隠蕃の上書は誇大で巧妙な詭弁を述べている点では東方朔、〔示爾〕衡と共通しますが才能の点ではどちらにも及びません”と述べた。また、孫権がどの官職をつけるべきが聞くとお膝元の小さな官職で試してみるのが良いと助言した。

隠蕃は廷尉監に任じられると左将軍の朱拠と廷尉の郝普という有力者と親しく交わり、隠蕃の座敷は賓客であふれんばかりであった。しかし、事が発覚すると隠蕃は逃亡を試みたが捕らえられ、彼の陰謀に加わった者の名を挙げるように糾問された。

孫権が隠蕃を訪れ何故他人を庇い立てるのか聞くと、隠蕃は“孫君よ、大丈夫が事を成さんとするときは、共同して事を計る者がいないはずがない。しかし、烈士は死んでも他人を巻き添えにしたりはしない。”と言いついに口を割らぬまま死んだ。

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于吉(うきつ)

于吉は江表伝、志林、捜神記にてその存在を書かれている。

江表伝では于吉は琅邪出身の道士で道教信者の集まる寺を建て、香を焚き道教経典を通読し、御札や神聖な水を用いて病気の治療を行っていた。あるとき、孫策が宴を開いていると、于吉が来たことを聞いた武将や賓客は于吉を出迎えに行った。それを見た孫策は直ちに于吉を捕らえさせると、于吉を信仰するもとたちは妻女たちを孫策の母親のもとに行かせて命乞いをした。孫策は于吉が妖しげででたらめな行い、人々の心を巧みに幻惑しているとして、誰の上書を聞かず于吉を斬らせたと書かれている。

志林では邪琅の宮崇が宮廷に参内して順帝に于吉が手に入れた神書、太平青領道を献上したと書かれている。(実はこの太平青領道とは後に黄巾党の党首となる張角へと引き継がれている書であり、これが事実なら于吉は黄巾党の祖である)この事から考察すると于吉の年齢は百歳近くであり、高齢者に敬意を表し親しくいつくしむのが、聖王の政治教化であるにもかかわらず、誅殺した孫策の行為は名誉ではないと書かれている。

捜神記では孫策が長江を渡って許を襲撃しようとしたとき于吉を一緒につれて軍を進めていた。しかし日照りが酷く、孫策が陣頭に立って監督叱咤していると武将や軍吏たちが于吉のもとに集まっている。それに怒った孫策は于吉を捕らえ縛り、雨を降らせたら許すというと、その後大雨が降ってきた。将士たちは于吉はきっと許されるだろうと労いのために于吉のもとに集まると、孫策は于吉を殺してしまった。

さて、この3つの書から考えるに、于吉は道士であったのは間違いない。そして、それなりの影響を民衆に与えていたものとも考えられる。于吉が太平青領道を献上した人物とは考えにくいが、もしかしたらそれを売りにして人気を集めていた可能性もある。いずれにしても、孫策は狂信的な宗教を許さず、それらのものは全て殲滅した人物であるため、于吉の危険性を考え誅殺したのではないだろうか?

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于茲(うじ)

筰融の将。孫策の矢に当たって死亡したという偽計にはまり、敗走する孫策を追いかけるも伏兵にあい討ち取られる。

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于麋(うび

劉繇の将。劉繇の命により黄江津に駐屯し袁術の勢力拡大を阻止していた。しかし、孫策に牛渚を奪われると、軍勢を集め奪い返すものの、急遽引き返した孫策に敗れる。

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衛温(えいおん)

諸葛直と共に夷州(台湾)と亶州(日本)を、武装兵一万を率いて探しに行く。しかし、衛温たちは遥か遠方にあるこの土地を探し当てることができず夷州から数千人の住民を釣れて帰るのみに終わってしまう。衛温と諸葛直は、詔にそむいて成果を挙げなかったとのことで獄に下され、誅殺される。

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衛旌(えいせい)

字は子旗(しき)という。広陵出身で歩隲の友人。

二人とも困窮しており若いころは二人して瓜を植えて生活費を稼ぎ、昼は肉体労働に精を出し、夜は経書やその解釈を誦して勉強をする。当時、会稽郡で生計を計ろうと考えた二人はその土地の権力者の焦嬌に瓜を献上するが、扱いが悪く衛旌は耐え難い思いをするが、歩隲の忍耐力により無事に焦嬌に献上を済ませる。

後に歩隲が孫登より呉にいる人材について聞かれたとき、諸葛瑾、陸遜、朱然程普等の名前に並べて衛旌を紹介している。

衛旌は尚書まで昇進するが、潘濬との仲を裂こうとするものの計略に引っかかり、潘濬が蜀に密かに連絡をしていると孫権に報告し、その後、その件で孫権から官を免じられる。

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苑御(えんぎょ)

会稽郡の不服従民の首領の一人で漢興に本営をおき、一万戸を指揮していた。しかし、同じ不服従民首領の洪明が戦闘中に賀斉に斬られると降伏をした。

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袁綏(えんすい)

袁迪の父親で太傅掾となった人物。張超が董卓の討伐に向かったとき、袁綏は広陵の統治を任されている。

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袁迪(えんてき)

広陵出身で後ろ盾もなく貧しい境遇にあったが志だけはしっかりと守り、陸遜の弟である陸瑁に生活を助けられた。

張鉱と共に長江を渡り、孫策を頼ってきたようである。

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袁夫人(えんふじん)

袁術の娘で孫権の妻である。行いは正しかったが、残念ながら孫権との間に子供を授からなかった。孫権は妻妾の子供を彼女に預け教育させたが、その子供は育たなかった。

歩夫人が死去すると孫権は彼女を皇后に立てようとしたが、彼女は子供がいないという理由で自ら固辞して皇后の位を受けなかった。子供がいないにもかかわらず、孫権が皇后にしようとしたということは、孫権の寵愛を相当受けていたのは想像に難くない。

その美貌から藩夫人(孫亮の母)に嫉妬され、讒言されて殺された。

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袁雄(えんゆう)

呂蒙が義兄の鄧当軍に参加したとき同じ軍にいた官吏に侮辱されてカッとして斬り殺した。そのとき、袁雄が取り次ぎ出頭させ自首させた。

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袁龍(えんりょう)

安成県の中朗将で関羽と気脈を通じ醴陵にて反乱を起こした。しかし、呂岱に攻められ捕まり斬られた。

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袁礼(えんれい)

孫権が校事の呂壱を信任しすぎたために誰の諫言を聞くこともしなかった。後に呂壱の悪事が発覚すると孫権は呂壱を誅殺し袁礼を使者に立てて、それぞれの軍の総指揮官たちに陳謝の言葉を伝えさせるとともに、現在の施策に問題が無いか尋ねさせた。

皆、内心に恐れを懐き、不安を持っていたが誰一人となく本心を打ち明けることがなかった。これに関し、孫権は相当ショックを受けたようで長い、長い反省の言葉を言っている。

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閻浮(えんふ)

魏の武将で孫呉に寝返ろうとしたが、呼応が遅れたため事が発覚して殺されたようである。

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区景(おうけい)

交州刺史の張津の部下で後に張津を殺害する。

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区星(おうせい)

長沙で反乱を起こした将。自らを勝手に将軍と名乗り一万余りの人数を集めて町々を包囲し攻撃をしていたが、孫堅が正式に長沙太守に任ぜられると孫堅は自らさまざまな計略を用いて、一ヶ月もしないうちに区星を打ち破った。

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王延(おうえん)

王蕃の弟で孫皓に王蕃が殺されると、強制移住させられ広州の役所で監視下に置かれた。立派な才能を持っていたらしいが、郭馬が反乱を起こした際、郭馬のために働こうとしなかったため殺害された。

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王海(おうかい)

豫章東部の平民で立ち上がって反乱を起こす。反乱軍の数は一万人にも上ったが、賀斉に攻められ討ち平らげられる。

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王岐(おうき)

虞翻の五番目の息子である、虞忠に評価された人物である。虞忠は人物を見分ける能力があり、上虞出身の王岐は官界に後ろ盾のない家柄にもかかわらず、虞忠は王岐と親しい交わりを結ぶ。

すると、王岐の官位はとんとん拍子で昇進して、虞忠より先に宜都太守となる。

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王金(おうきん)

桂陽や湞陽一帯に根を張った叛徒で、南海郡の辺境地帯で人数を集めると、反乱を指揮して暴れる。しかし呂岱に討伐され、生け捕りにされ都まで送られてしまう。

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王氏(おうし)

孫皓の左夫人で死去したあと、孫皓は悲しみと思慕とに堪えられず、朝夕に棺のそばで哭し、数ヶ月の間その姿を見せなかった。

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王遂(おうすい)

ただの工人で朱拠の私兵から三万緡(びん)もの銭をだまして自分のものにしたため、後に朱拠が問題に巻き込まれる。

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王晟(おうせい)

嘉興の人で元々は合浦太守であったが、後に孫策に対し反乱を起こすが、孫策に破れ捕らわれの身となる。

しかし、孫策の母が王晟は孫堅とは親しい関係にあり、彼の親族はみんな斬首誅滅されて王晟という年寄りが一人だけ残っている。何をそんなに恐れるのでしょうか?と助けを求めたため王晟は見逃してもらった。

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王靖(おうせい)

広陵の太守という高い職務と結構な軍勢を持っていた人物であるが、宮廷にあって決して時世のことに心をくだくことなく、地方に出ても職務に励まない人物であったため、張温には下げずまれ弾刻されていた。

その後、自分の支配地の郡民が変事を起こしたことで譴責を受け、必死に弁解をしたものの、その弁解は認められなかった。

そのため、魏に奔り反乱を起こすことを決意したが、事が露見し一族皆殺しにされてしまった。

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王潜(おうせん)

魏から投降してきた将。

歩隲に魏は隊伍を整えて布の袋を大量に作って、それに砂を詰め込み長江を堰き止め大挙して荊州に攻め込む予定をしていると助言した。

当然、長江を堰き止められることなんかは無かったが、歩隲はそれを信じたようで孫権に助言をしている。当然、孫権はそれを信じなかった。

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王族(おうぞく)

孫皓政権に対し反乱を起こした郭馬の私兵の中の武将の一人。郭馬が広州の督であった虞授を攻め殺すと、郭馬は勝手に都督交広二州諸軍事・安南将軍と号し、王族はその後、始興郡へ兵を進める。そして、始興において滕循を食い止めた。

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王稚(おうち)

魏の武将であるが新附督(呉から魏に寝返った者たちで作った部隊の隊長)であることから元は呉出身の武将であると思われる。句章に侵入して財貨および男女二百余人を略奪したが孫越に攻撃され船一隻を拿捕され三十人余りを捕虜とされた。

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王著(おうちょ)

王蕃の弟で立派な才能を備えていた人物であったらしい。しかし郭馬が反乱を起こしたとき、郭馬のために働こうとしなかったため、殺害される。

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王直(おうちょく)

戯口の守備にあたっていた武将であるが、魏に寝返った同じく戯口の守備にあたっていた晋宗に殺される。

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王惇(おうとん)

呉主伝に孫権が関羽を討伐した際、曹操が朝廷に上表して南昌侯に封じられたが、その時に朝廷の献上物をささげる際に孫権は王惇に馬を買いに行かせている。

その後、王惇が正史に登場するのは孫慮(孫憲)と孫綝暗殺を企てるが事が先に発覚してしまい殺されてしまう。

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王蕃(おうはん)

字は永元といい、廬江郡の人である。王蕃は博学で天文にも明るかった。孫休が即位すると賀邵、薛瑩、虞汜らとともに散騎中常侍に任じられる。

王蕃が蜀への使者として蜀に訪れたとき、彼は蜀の人たちに大いに評価される。そして、その後、蜀より戻ると王蕃は夏口の監軍となる。

孫皓が即位すると、王蕃は中央政府に戻って常侍となり、萬彧と官を並べる。萬彧とは孫皓の古い知り合いで彼の画策により孫皓は即位する。萬彧は権力に物を言わせ他人を蔑ろにするような人物で、萬彧は常にそんな自分を王蕃は軽んじているのではないかと勘ぐっていた。

また、孫皓には陳聲という佞臣もおり、王蕃を貶めようと度々、孫皓に讒言をしていた。しかし、王蕃は誇り高い気質で、孫皓の顔色を伺って発言を差し控えるようなことはせず、逆に意向に逆らう意見を上陳した。これが度重なり王蕃は孫皓の機嫌を損じ嫌われるようになる。

後に、丁忠が司馬昭の弔問を終えて帰国すると、孫皓は群臣を集めて盛大な酒宴を催した。そこで、王蕃は酔って突っ伏すと孫皓はそれを酔ったふりをしているのかと疑い外に連れ出させた。しばらくして、王蕃が関に戻るが酔いは醒めていなかった。しかし、彼の元々の威厳のせいで傍目にはしっかりとしおり全く酔ったようには見えなかった。それを孫皓は欺かれたと激怒し、側近に命じて正殿の前庭で斬り捨てさせた。

後に丞相である陸凱は上疏して、王蕃は呉の社稷の重鎮であり夏の桀王の酒池肉林の遊びを諌めた関龍逢にも比すべき人物です。かつて景皇帝(孫休)にお仕えして抜群の働きをし、それを賞賛されました。しかるに陛下は彼の苦言に立腹され包み隠しのない応対を憎まれて殿上において斬首し、遺体を山野に遺棄なされました。国を挙げて心を痛め悲しんでおります、と王蕃の死を惜しんだ。

江表伝では王蕃の死は、孫皓が宴席の場で王蕃に“射の礼では、的に当てることを重視しない、それは人それぞれの能力が異なることだからと言われているが、これはどういう意味か?”と問うたところ、王蕃が考えている間に返答が遅いと怒って孫皓は即座に斬り殺し、その後、武昌城の南の来山に登って側近に命じて首を投げ落とさせた。さらに彼等に命じて虎や狼が餌を奪い合うような格好で首に噛み付かせると王蕃の頭は砕けてしまったと書かれている。

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王表(おうひょう)

王表は呉主伝(孫権伝)に出てくる人物である。

赤鳥の元号が大元に改められると、孫亮の母の潘氏が皇后に立てられる。これは神人が改元と立后を告げる書を授けたからだと言う。そしてこの神人こそ臨海郡羅陽の神で、自らを王表と称する。

王表は人間と同じように飲み、食べ、そしてしゃべったが、その姿は誰にも見えず、ただ紡績という巫女がそれに仕えていた。この噂は孫権にも届き、孫権はわざわざ中書朗の李崇を派遣し、その神である姿の見えない王表に輔国将軍、羅陽王の印綬を与えて都に迎えた。

秋に王表が李崇とともに都に着くと、孫権は都の東門の蒼龍門外に邸宅を建て、しばしば近臣を派遣し酒食を贈った。王表は水害や日照り等について予言し、しばしば的中させたと孫権には書かれている。

しかし、その翌月には大風が吹き、長江や海があふれ、孫堅の陵の松柏が根こそぎとなり孫権が病の床に就くと王表はどこかに逃亡した。

紡績という巫女の一人芝居だったのだろうか?それとも紡績の裏に誰かがいたのだろうか?非常に面白いのが李崇や他の県令が都に王表を連れてくる道中、王表と議論をしたようだが全て言い負かされていると書かれている。紡績の一人芝居であれば、紡績の知識は相当なものだと思われるが、恐らくその紡績を入れ知恵をしていた本物の王表が陰にいる気がしないことは無い。

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王夫人(おうふじん)-大懿皇后

王夫人は瑯邪郡の人で、孫和の母親である。孫登が死去すると孫和が太子となるが孫権は王夫人を皇后としなかった。その後、孫魯班との確執が起こり二宮の変を引き起こす。最後は孫魯班が王夫人の讒言を孫権にし、王夫人は孫権から責められ憂悶のうちに死去した。

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王夫人(おうふじん)-敬懐皇后

南陽郡の人で、孫休の母親である。孫和が太子となると、孫権の寵愛を受けた女性たちは皆、地方に住まわされた。王夫人は公安に出されその地で死去する。

孫休が即位すると、使者を送って追尊して敬懐皇后とし、敬陵に改葬した。

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王文雍(おうぶんよう)

敬懐皇后である王夫人の同母弟で、王氏に跡継ぎがいなかったため亭侯に封ぜられる。

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王約(おうやく)

孫皓が交州を晋から取り戻すべく侵攻し、楊稷と毛炅を攻めた。彼等が立てこもった城内の食料も尽き、死亡者が半数以上に達すると、王約が寝返りをうち呉軍は城内に攻め込むことに成功した。

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王慮九(おうろきゅう)

大懿皇后である王夫人の父親。

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