全呉将紹介
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ガケイ
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カンソウ
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グキン
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ゴキョ
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ゴコウ
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ゴサン
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ゴサン
吾粲
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コユウ
顧裕②
コヨウ
顧雍
コレイ
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公仇称
コウソウントウ
公孫滕
コウキュウ
弘璆
コウシ
弘咨
コウシン
洪進
コウメイ
洪明
コウショウ
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コウジュ
高寿
コウショウ
高尚
コウショウ
高承
コウタイ
高岱
コウツウ
高通
コウエン
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黄蓋①
コウガイ
黄蓋②
コウキョウ
黄彊
コウゴ
黄呉
コウコウ
黄耇
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黄龍羅
コウシュン
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何姫(かき)

何氏は丹陽郡句容の出身で、父は孫呉軍の騎兵隊の一員であった。ある日、孫権が軍営を巡回した際に、群衆の中から何姫を望見し、並みの女性ではないと思い息子の孫和に賜った。そして、何姫は後の皇帝となる孫皓を産む。

その後、孫和は太子を廃されて長沙に移されるが、最後には自殺を迫られ孫和は妃の張氏とともに自殺をした。

何姫は“皆が殉死してしまえば、残された子は誰が育てるのですか?”と言い生き残ることを決意して、孫皓と三人の弟を養育した。264年、孫皓が即位すると母である何姫を昭献皇后とした後、位を進めて皇太后とした。

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何洪(かこう)

孫皓の三人いる舅(母方のおじ)の一人で永平侯に封ぜられる。孫皓の母である何姫の実弟。

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何蔣(かしょう)

孫皓の三人いる舅(母方のおじ)の一人で溧陽侯に封ぜられる。孫皓の母である何姫の実弟。

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何植(かしょく)

孫皓の三人いる舅(母方のおじ)の一人で溧陽侯に封ぜられる。

274年、奚煕が兵を挙げて反乱を起こすと、三郡督として奚煕を捕らえるために出陣する。奚煕は子飼の兵の裏切りによって殺され反乱は平定された。


279年、軍師の張悌が丞相になると牛渚都督だった何植は司徒に任じられる。

江表伝には孫皓が晋に降伏する前に何植に書いた、自分の愚かさを嘆いた長い手紙が紹介されている。何植は、何氏の中では一番信頼され、唯一功績を挙げた人物であった。

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何遂(かすい)

孫和の配偶者である何姫の父で元々、孫呉軍の騎兵であった。

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何定(かてい)

汝南の人でもともとは孫権の側仕えの者であったが、後に宮中の仕事をやめさせられ小役人になる。何定はおべんちゃらを使って上の者に自分は先帝のもとで使われていたものだと上表して宮中に戻る。

孫皓は何定を楼下都尉に任じた。何定は権力をかさに好き放題に振舞ったが孫皓は何定を信頼し、多くの事柄をその裁量に任せた。

呉が交趾郡を晋から取り返すべく監軍の李勖と徐存を送ったが、李勖は建安経由の道程が難渋することから、道案内をした武将の馮斐を殺し軍を纏めて返した。その後、殿中列将になった何定は李勖と徐存はみだりに馮斐を殺害した上に軍を勝手に引き返したと上言し、李勖と徐存の一族は全て誅殺される。

これには背景があり、過去に何定は息子のために李勖の娘を嫁に迎えたいと話を持ち出したが李勖に承諾されること無くこれを恨みに思っていたようである。

その後、何定は兵士五千人を率いて長江を遡り、夏口で巻き狩りを行った。夏口の防衛をしていた孫秀は孫皓に命を狙われていた可能性もあり、遠方まで巻き狩りにきた何定を怪しみ孫秀は晋に逃亡する。

また、何定は武将たちに命じて犬を買い集めさせ、兵士に1人に一匹の犬が配られ、犬を繋ぐために紐の値段は高騰し、犬の餌のために兎は乱獲され、呉国の人々は全て何定のせいであると恨んだが、何定は孫皓に忠勤に励むものだと列侯の爵位を賜る。

何定の存在に関しては、呉の要人である陸凱、陸抗、賀卲も任用すべきではないと苦言を呈していたにもかかわらず、孫皓は聞き入れなかった。

しかし、後に悪事が発覚してしまったため誅殺される。孫皓は、その悪事は張布の場合と似ているということで、何定の名前を、その死後、何布と改めさせた。

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何典(かてん)

孫皓政権に対し反乱を起こした郭馬の私兵の中の武将の一人。郭馬が広州の督であった虞授を攻め殺すと、郭馬は勝手に都督交広二州諸軍事・安南将軍と号した後、何典は命により蒼梧郡に兵を進めた。

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何都(かと)

孫皓の甥で顔つきが孫皓と似ていた。孫皓が張夫人が亡くなったため悲しみの余り半年も外に出ないでいると死んだのでは無いかと言う噂が流れた。その際、顔の似ている何都があとをついで帝位についたと噂が流れた。

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何邈(かばく)

何姫の弟、何洪の息子で、何洪が死ぬと跡を継いで武陵の監軍となったが、晋に破れ殺された。

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何雄(かゆう)

孫策に反抗した張雅の娘婿。賀斉軍と対峙をしていたが、張雅と何雄が勢力争いを起こしてしまい、更に賀斉の策により内部抗争が起きてしまい賀斉に打ち破られる。

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夏侯承(かこうしょう)

歩騭が孫登に送った手紙の中に荊州領域で仕事に手腕をあらわしている者11名の中の一人として紹介されている。因みに他の人物には諸葛瑾、陸遜、程普などの大物が紹介されており、夏侯承という人物も相当な人物であったのかもしれない。

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華覈(かかく)

字を永先といい、呉郡武進の人。

華覈は孫皓のしたで、時務の方策を論議し、賢能の人物を推薦し、犯罪者を取り調べるなど彼の百通を超える上表は全て政事のために行った。そして、幸いにもそれは孫皓に目をつけられることもなかった。それどころか、孫皓は華覈が年老いているのを哀れんで上書は草稿のままで提出をすることを許したのだが、華覈は律儀なまでにそれを断ると、孫皓は侍臣をつかわして立ったまま草稿が出来上がるのを待たせ、草稿のまま持ち帰らせようとした。

華覈は初めは会稽郡上虞県の尉となり、また典農都尉を務めた。彼の書く文章や学術の才能により中央政府に入り、中書丞まで昇進する。孫皓が即位すると徐陵亭侯に封じられた。

孫皓が都を建業から武昌にうつし、その後、また建業に移すと華覈は、大皇帝(孫権)が亡くなった後、権臣たちが国家の安泰を図らずに軍役を起こしたため呉は疲労しております。蜀も一朝にして滅び呉は危機に立たされております。わが国の南にある交州諸郡のうち交趾、九真は既に失われており、他の地域もどうなるか分かりませぬ。加えて東海では海賊が毎日のように略奪を行っています。このような状態あるわが王朝は、まずは宮殿造営の労役を中止し、土地を開墾して飢饉を救う手立てを考えなければ、このままでは張良や陳平のような名臣が現れても、この難局は乗り越えられないかと思われますと上書した。

しかし孫皓はこの意見を用いなかった。

後に華覈は東観の右国史に任じられたが華覈は辞退した。しかし孫皓は華覈に東観の役所は文学六藝を検討して、疑義に決着をつけるのが任務とされている。漢代では名儒碩学でなければこの任に就けなかった。私もそれに習って賢人を登用したいのだから謙遜して辞退するなと言って諭した。

華覈は官の倉庫に備蓄がないにも関わらず垂れ流し状態で使われているのを危惧し孫皓に、民が主君のために力を尽くし、命をかけているにも関わらず、君主が民に何もしなければ怨嗟が起きます。今の状態はそのような状態です。どうか、無益なことに労力を費やすことをやめて、農耕に力を注いで官庫の備蓄を十分なものになさいますようにと上書した。

257年、華覈は些細なことで譴責されて免官となり、数年後になくなった。しかし、晩年に官を免じられたとはいえ、韋昭王蕃賀邵等に比べると孫皓が華覈に終始しめした温情と寛大さは不思議である。

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華錡(かき)

諸葛恪が孫奮を諌める手紙に登場した人物で、元々は孫権の側近で真心があり正しい人物であったが、孫奮が恨みを持ち捕縛していると言う風聞があると書いてある。

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華諝(かしょ)

華融の長男で黄門朗であったが、父親と一緒に滕胤に殺されてしまう。

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華譚(かたん)

華融の次男で弁論に巧みなことで名声があった。呉が滅びた後は、晋の秘書監となった。

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華当(かとう)

会稽郡の不服従民の首領の一人で漢興に本営をおき、一万戸を指揮していた。しかし、同じ不服従民首領の洪明が戦闘中に賀斉に斬られると降伏をした。

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華融(かゆう)

字を徳蕤(とくすい)といい、広陵郡の江都の人である。

張温が皇象のもとで学問を習おうとしたとき、どこか適当に住める場所がないかと探していると、ある人物に蕊山に華徳蕤という立派な志をもった若者がいるので、彼の元に住むと良いでしょうと告げられた。

こうして、張温は華融の家に滞在することになり、朝夕、華融と論談をかわした。そのうち、張温が選部尚書の任にあたると、華融を抜擢して太子庶子に任じた。

華融は孫登の遺言にも名前が出ており、勇敢で断固とした節操を持ち、国史の風がある人物と評されている。

孫峻が死んだ後、孫綝が実権を握ると、これに不満を持った呂拠が反乱を起こし、滕胤もこれに巻き込まれる。このとき華融は左将軍まで出世していたが、孫綝の命により滕胤のもとに行き武昌まで連れて行こうとしたが、逆に滕胤に軟禁されてしまう。

最後は残念ながら偽の詔を滕胤に書くことを命じられ、それに反対して殺されてしまった。

華融はそれなりの人物であったと思われる。その人物が悲劇の死に方をした呉の運命を背負うべき人物であった滕胤に殺されてしまったのは残念でならない。

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賀恵(がけい)

賀卲(ちくま学芸文庫正史三国志には賀劭となっているが間違っていると思われる)の弟で宛陵県令であった。しかし奚煕に讒言される。最後は捕らえられ司法官に引き渡される。しかし、恩赦があって罪を免れた。

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賀景(がけい)

賀斉の次男。滅賊校尉に任ぜられ、配下を厳格に、しかし思いやりをもって指揮した。彼の部隊は兵器が完全に整備されている点で、当時は並ぶものが無かったと書かれている。優れた武将であったが残念ながら早世している。

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賀質(がしつ)

賀達の息子で虎牙将軍の位まで昇る。

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賀循(がじゅん)

字は彦先(げんせん)といい、賀邵の息子である。その父が流刑に処されると一家は海辺に配流され、呉が晋に平定された後、ようやく故郷に帰ることが出来た。

賀循は高く厳しい節操を持ち、幼いころから他の子供たちとは違い、言葉も立ち振る舞いも礼儀正しかった。学問を好み広い知識を身につけ、特に三礼(儀礼、周礼、礼記)には詳しかったという。

その為、晋では推挙され陽羨と武康の県令に任ぜられた。後に、顧栄、陸機、陸雲が“命をかけて”上表し賀循を推挙する。恐らく、晋での呉の武将の扱いは相当ひどかったのであろう。この上表により賀循は中央に召しだされ大使舎人となる。

後に孫呉政権の再来を目指して陳敏が反乱を起こすが賀循は誘われてもこれに加わることをせず、後に東晋にて宗廟の祭祀の決まりを全て決め、朝廷在野を問わず種々の事柄について賀循の意見が求められ、学者の元締めとして仰がれた。

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賀卲(がしょう)

字を興伯といい、会稽郡の山陰の人である。

賀卲は偉大なる祖父、賀斉が亡くなった年に生まれた。孫休が即位をすると中朗から散騎中常侍となり、地方に出て呉郡太守となった。孫皓が即位すると中央政府に戻り、中書令に昇進し太子太傅を兼任した。

孫皓の暴虐が日増しにひどくなり、政治の乱れは収拾がつかなくなると賀卲はたまりかねて、孫皓に以下のように上書し日ごろの行いを諌めようとする。

“朝臣の秩序はここ数年来乱れきっており、人物の真偽がつかないほどになっております。朝廷には主君の過ちを正せない役立たずが我が物顔にふるまい、忠臣は口を噤んで何も言えない状態です。古の君主とは自らの過ちを言われると反省し、また言われることを望んでいたものですが、荒乱の君主とは褒められ煽てられることを喜びます。

先に陛下は才ある王蕃を酔わせてその間に殺害されました。また先帝以来の旧臣であった葛奚の言葉尻を捉えて大量の酒を飲ませて中毒死させました。そして使い走りの何定を寵愛して権限を与えているため日増しに怨嗟の声は強くなっております。

今、晋はわが国の侵略の時期を窺っていて、長江という境界も当てにはなりませぬ。蜀は堅固な地形に守られておりましたが賢者を任じなかったために一朝にして滅びてしまいました。陛下はこれを戒めとして道理を踏んで行動していただきたい。”

孫皓にとって見ればこの上書ほど不愉快なものは無かった。そして、賀卲の正論は孫皓の機嫌を取って生きている取り巻きたちには煙たがられていて。そんな取り巻きたちはこの上書を機会に賀卲と樓元は国事を誹謗していると讒言した。そのため、二人とも問責を受けることとなり、樓元は広州に流された。

賀卲はいったん許されて原職に復帰したが、中風にかかって言葉が話せなくなってしまうため退職する。すると、孫皓は病気を理由に勝手に引退したかと疑い、捕らえて酒蔵に押し込め、さまざまな拷問を与えた。賀卲はついに一言も発せずに殺害されてしまった。

呉の末期が如何に異常な状態であったか、王蕃葛奚韋昭、賀卲の死を考えれば分かる。

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賀達(がたつ)

賀斉の長子で立派な評判があり、優れた武将であったと書かれている。しかし、自分の気持ちのままに振舞うことがあり、しばしば掟に背くこともあったようである。そのため、軍征の間に手柄をたてても爵位を与えられることはなかった。しかし、物惜しみすることなく意気に感じて行動し、決断力をそなえ果敢に事を行うことでは人々にぬきんでていたとも書かれている。

その後、孫権に任じられ遼東の公孫淵の使者となり一万の兵と財宝珍貨と九錫の賜り物をたずさえ海路を取って遼東に向かった。しかし、公孫淵に斬られてしまい、その首は魏に送られた。

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賀輔(がほ)

賀斉の父親で永寧県の長を務めている。

元々、賀氏は慶氏という姓であった。賀斉の伯父にあたる慶純は漢の安帝の時代に侍中や江夏の太守を務めたことがあり一度退職した。しかし、朝廷に召されて復職した際、安帝の父親の考徳皇の諱をさけて姓を賀氏に改めた。

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賈原(かげん)

張温が失脚した際、理由の一つとして勝手に人事したことがあげられ、その中の一つに賈原を御史にすると約束していたらしい。

しかし、駱統は張温を弁護し、張温は決して賈原に恩を売っていたことは無く、逆に賈原が職務に励まず、事を処理する能力がなかったとき、しばしば面と向かって下げずみの表情を見せたと言う。

早い話、賈原自身は能力があまりない人物であったと思われる。

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介象(かいしょう)

葛洪の神仙伝に登場する仙人で字を元則といい、会稽郡の人である。

介象は様々な方術に通じており、孫権が介象の噂を聞くと武昌に招きよせ鄭重に待遇し、その内容は屋敷を建てたり千金にもなる贈り物をした。

孫権は介象から隠術を習うと、それを実践する。すると後宮に戻ると誰もその姿を見て取ることが出来なかった。(裸の王様状態だったのでしょうか・・・)

ある日、孫権が介象に魚の刺身では何が一番美味か尋ねると、介象は鯔魚(ぼら)が最上だと答え、その後、庭に穴を掘らせて真水を入れさせて、そこで釣りをすると、何と鯔魚を釣り、刺身にして孫権に献上しようとした。すると、孫権は蜀の薑(みょうが)と一緒に食べたかったと悔やむと、介象は使いの者に薑代を渡し、お札を一枚書いて青竹の杖の中に仕込むと、使いの者に目を閉じて杖にまたがり、杖の止まったところで薑を買い、その後眼を瞑ってもう一度杖に跨れと命じた。

その通りにすると、使いの者はいつの間にか成都についていた。丁度、その頃、張温は使者として成都に来ていたのだが、その使者に会ってびっくりすると、使いの者に手紙を渡し家に持って行ってくれと頼んだ。使いの者は薑を買い、杖に跨って眼を瞑ると今度はあっという間に呉に帰り着いた。

正史三国志には所々、神仙伝が出てくる。

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懐叙(かいじょ)

呂壱の悪事が発覚して捕まったとき、懐叙は尚書朗であった。冷静に呂壱に対して事件に対する申し開きをさせる顧雍に対し、懐叙は呂壱を罵倒して辱めたが、顧雍は我々は法律に基づいて裁くのであって、そんなことはしてはならないと、懐叙を咎めた。

しかし、徐衆の三国評では懐叙はもともと呂壱に私怨があるわけではなく、他への配慮も必要が無かったことを考えれば、呂壱を罵り辱めたのは純粋に悪を憎む気持ちからであって、これは仁の行動であると述べている。しかし、冷静に法に基づいて処理しようとした顧雍の方が正しい行動であると感じてしまうのは今の時代に生きているからだろうか・・・。

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郝普(かくふ)

字を子太(したい)といい、義陽郡の人である。

元々は劉備の配下で零陵太守に任じられていた。孫権が劉備が益州を手に入れたことを知ると、荊州の返還を要求した。しかし、劉備は孫権に待つように頼むと、孫権は力ずくで奪うべく呂蒙に荊州三郡の攻略を命じ、魯粛には関羽と対峙させた。

呂蒙は一気に長沙、桂陽を落としたが零陵の郝普だけは降伏しなかった。そのうち、孫権から劉備が援軍として到着したため至急引き返して魯粛に協力せよと手紙が届いた。しかし、呂蒙はこの手紙を秘したまま、鄧玄之を呼び、郝普は忠義者かもしれない、しかし時宜を心得ていないと見える。劉備は漢中にあって夏侯淵に包囲されており、関羽は南郡にあって今は我が君と対峙している。近くでは樊の本営は破られ、彼の立場は風前の灯であるのに頑なに守りを固めて無意味に援軍を待とうとしている。申し訳ないが郝普に会って利害を説明してやってくれないか、と頼んだ。 

鄧玄之が郝普に会ってつぶさに呂蒙の考えを伝えると、郝普は篭城を諦めた。城から出てきた郝普の手を取り呂蒙は一緒に船に乗った。そして郝普と話し合いを終えた後、孫権からの書状を取り出して彼に見せ、手を叩いて大笑いをした。郝普はその書状を見て、劉備が公安に、関羽が益陽に来ていることを知って悔しさの余り倒れた。 

後に郝普は呉で廷尉となった。魏帝曹叡に命じられて呉に降った隠蕃は君臣の離間を図る。この策は成功し、全琮朱績、潘翥らは隠蕃に傾倒した。郝普は朱績と共に隠蕃には王佐の才があると賞賛し、彼の低い待遇は不当だと不満を漏らしていた。後に隠蕃の謀略が発覚して誅殺されると郝普は孫権に問責されて、ついには自殺をしてしまう。

零陵城明け渡し、隠蕃事件と郝普は軽率な人間であったと思われる。

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郭石(かくせき)

区星の乱に呼応して、民衆を率いて零陵郡・桂陽郡にて反乱を起こしたが孫堅に討伐される。

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郭逴(かくたく)

陸凱が孫皓に上書して何定奚煕のような人物を任用せずに、清廉に身を処しつつ忠勤に励み、あるいは天賦の才能を豊かに備えた社稷の根幹となる良き補佐者となる者を任用するようにと助言した際に数名の候補者を挙げたが、その中に郭逴も含まれている。

散騎中常侍にも任命されており、中々の人物であったと思われる。

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郭誕(かくたん)

会稽太守で、会稽にて孫奮が天子になろうとしているという妖言が流行ったとき、時を同じくして奚煕が郭誕に国政を非難する書簡を送ってきた。

郭誕は奚煕の書簡の事を上奏したが、妖言があることを上奏しなかったため、孫皓の怒りを買い死罪とされかけるが、功曹を努めていた忠臣の邵疇が命を捨てて郭誕を死罪から免れさせた。郭誕は建安に造船の労役に従うことになった。

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郭馬(かくば)

郭馬は合浦太守の脩允配下の私兵の隊長であった。脩允が桂林太守に転任する際、病気になった為、広州に留まる。そして先に郭馬を桂林に行かせその地の異民族の安撫にあたらせた。

脩允が死去すると兵士は分割されて別々の場所に配属されることになったが、郭馬は祖父以来一つの軍団をなしてきていたので、これを不服とした。

丁度、その頃、孫皓は広州の戸籍を調べ課税をしようとしていた。恐らく、戸籍を持たない者が多くいたのだろう。郭馬はそういう者たちの不安を煽り、動揺させると、人数を集めて広州の虞授を攻め殺して反乱を起こした。郭馬は自らを都督交広二州諸軍事・安南将軍と号した。

その後、滕循が一万人の兵を率いて東の道から討伐に来たが、始興にて王族が進攻を阻止していると、郭馬は南海太守の劉略を殺し、広州刺史の徐旗を追い払った。

すると孫皓は陶濬を派遣し七千人の軍を西の道から攻め込ませ、交州の陶璜には、その配下および合浦や鬱林などの郡の兵を纏めて東西の道から攻め込ませ、両軍共同して郭馬に攻撃をかけさせようとした。しかし、晋が大軍を率いて押し寄せて来た為、陶濬は武昌に軍を留めて広州には向かわなかった。

その後、郭馬の乱がどうなったか分からないが、郭馬が討伐される前に呉は滅んでしまったのではないだろうか?

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葛奚(かつけい)

酔った勢いで孫皓に逆らう発言をしてしまい、怒り狂った孫皓は濃い酒を無理やり飲ませアルコール中毒死させる。

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葛光(かつこう)

凌統死後、孫権の命により、二人の息子である凌烈と凌封に書物を教えた人物。

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葛衡(かつこう)

葛衜(かつどう)とも言うらしく、字は思真(ししん)である。

天文に明るく、また機械作りに巧みであった。葛衡は渾天儀を作ったが、それは機械仕掛けで動き、天球が回転すると、大地が静止したままであっても実際の天体の運行と一致したと書かれている。

どの様な物かいまいち想像がつかないが、こんな時代に天球儀の機械仕掛けを作るということが凄いことだと思われる。


彼の名前は蒼天航路にも登場しており、曹操が使者で来た諸葛瑾に江南の八絶と葛衡をよこせ!と言われている。台詞からは葛衡も八絶のような印象を与えるが葛衡は八絶ではない。

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葛仙公(かつせんこう)

抱朴子に登場する仙人。酒を飲んで酔っ払うと他人のいえの池の中で寝る癖があり、いつも日が暮れるとやっと外に出てくる。

ある日、孫権のお供をして烈州に行ったが、途中で暴風雨に会い葛仙公の乗っていた船が沈む。孫権は大いに悲しみ次の日、人々を動員して船を捜させると、葛仙公が水の上を歩いているのが見えた。葛仙公の衣服や履物は全く濡れておらず、しかも酒気を帯びていた。

御前に出ると、葛仙公は冥界に言って伍子胥と呑んでいたと報告した。

当時の人々はこの手の仙人の話が好きだったのであろう。

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甘瓌(かんかい)

甘寧の息子。罪を犯したため、会稽に強制移住させられ、ほどなく死んだ。

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甘醴(かんれい)

士徽の部下で、士徽が呂岱に斬刑にされると役人や民衆を引き連れて呂岱に攻撃をかけた。しかし、呂岱の反撃にあい、打ち破られた。

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桓彝(かんい)

魏の尚書令の桓階の弟で、孫綝が孫亮から印璽を取り上げ、罪状を各地に告げたが、尚書であった桓彝はその文書に署名することを拒絶したため孫綝に殺される。

呉録では、晋の武帝が薛瑩に呉にはどのような名臣がいたか尋ねたとき、薛瑩は名臣を列挙し、桓彝は忠義のもので節操があったと賞賛したと書かれている。

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桓治(かんち)

士徽に弟の桓鄰を殺された為、配下の部族兵を糾合して士徽に攻撃をかけるが、士徽は門を閉ざし防戦につとめた為に数ヶ月も攻めきれず最後は和約を結び、双方が兵を引き上げた。

その後、士徽が呂岱に殺されると甘醴と共に呂岱を攻撃するが反撃にあって打ち破られた。

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桓発(かんはつ)

桓鄰の息子で、桓治と共に配下の部族兵を糾合して士徽に攻撃をかけるが、士徽は門を閉ざし防戦につとめた為に数ヶ月も攻めきれず最後は和約を結び、双方が兵を引き上げた。

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桓慮(かんりょ)

孫和が無実の罪で自殺に追いやられると、一般の民まで怒りと悲しみの心を抱いた。前司馬だった桓慮はそうした人々の気持ちに乗じて武将や官吏たちを糾合して、共謀して孫英をたてて孫峻を暗殺しようと企てた。

しかし、事が発覚してしまい関係者は皆殺しにされてしまった。

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桓鄰(かんりん)

士徽が取り立てた役人。呂岱が別の武将を交趾太守として送り込んだとき、士徽は配下の部族兵を動かして着任を阻止しようとした。その際、桓鄰は叩頭してそれを迎え入れるように諌めたが、士徽はそれに腹を立て鞭を打って桓鄰を殺した。

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管篤(かんとく)

校尉で使者として遼東に行った。

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韓晏(かんあん)

永寧県の長で孫策に南部都尉の職務を与えられる。そして兵を指揮して反乱を起こした商升の討伐に向かうが打ち破られた。

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韓宗(かんそう)

張鉱の大学の師で博士。江東、江南の人ではないが、呉書に出ているので紹介をする。

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韓綜(かんそう)

韓当の息子で侯の爵位と兵を継いだ。

その年、孫権が石陽に軍を進めると、韓綜は父親の喪に服しているということで、武昌に留まって守りにあたった。しかし、韓綜はその間、勝手気ままに無法をふるまっていた。孫権は父親に免じてそれを咎めなかったが、韓綜は内心、恐れを抱き、父親の棺を車に乗せると一族をと部曲など一千人を引き連れて魏に逃亡した。

一方、呉書には韓綜は呉に叛こうとして業と勝手気ままな行動を配下に振舞わせ、その後、配下に裁判にかけられると脅し、皆で呉から逃亡したと書かれている。

魏の将軍になると韓綜はたびたび呉の辺境に攻め入り住民を殺害したりした。孫権はいつもそれを口惜しがっていた。

後に孫亮が即位すると東興に魏軍が攻めてくる。韓綜は魏軍の先鋒になったが、諸葛恪に破れ戦死する。諸葛恪は韓綜の首を斬り都に送り、孫権の廟にそのことを報告した。

しかし、韓綜は何故、呉に叛こうとしたのか・・・それも父親の死の後すぐである。父親の存命中からそう考えていたのか?魏では東興の戦いで前軍督で攻めてきており、それなりに能力のある人物であったと思われるのだが・・・。

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韓扁(かんへん)

陸遜に信任されており、236年の合肥の戦いで陸遜の命により孫権に上表文を持って戦況報告しに行ったが、その帰途、沔中において敵と遭遇して捕らえられてしまう。

そのため、敵に内情を知られてしまった可能性のある陸遜は兵を引き上げさせた。

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顔連(がんれん)

無錫出身で孫瑜に居巣県の長に任じられる。そして廬江付近の郡を呉に帰属させることに成功する。

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闞沢(かんたく)

字は徳潤で会稽郡山陰の人。

闞沢は単家出身(卑い家)で、代々農夫の家に生まれた。経済力が無かったため、学問をする余裕は無かったが、傭書(書物の書き写し)を行うことで、紙筆の元手を稼いだが、それと同時に書き写す間に内容を覚え、全て暗誦できたと書かれている。

その才能から闞沢は更に多くの書物にも目を通し、暦数にも通じるようになりその名が知られるようになる。そして、考廉に推挙されて銭唐県の長となり、その後、桂陽郡の郴県の令となった。

219年、孫権が驃騎将軍になると、闞沢は中央に招かれて西曹掾となった。229年、孫権は皇帝を称すると、闞沢は尚書に出世する。そして、中書令となり242年には太子太傅となり孫和の教育係を務めた。

闞沢は経書や注釈を、諸家の説を斟酌しながら簡略化し、孫和、孫覇に教授した。また乾象暦注を著して季節や日付が暦に合致するようにした。そして都郷侯に封じられる。

闞沢の容貌は学問がありそうな感じではなかったが、その見聞の広さは相当のものであった。孫権に、経書とその解釈や、散文、韻文の中では何が優れているか?と聞かれると、闞沢は国家の治世の理を孫権に理解してもらいたく過秦論を読むように勧めた。

243年、闞沢は死去した。孫権は悲しみのあまり、数日間、食事が喉を通らなかったと闞沢伝には記されている。

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祁庚(きこう)

会稽の人で父親に代わって死罪になった人物。朱育が濮陽興に才ある人物の名を挙げたときに祁庚の名を挙げている。

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紀瞻(きせん)

字を思遠といい紀陟の息子。呉が滅びると晋の王朝に仕えて驃騎将軍となる。

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紀陟(きちょく)

字を子上(しじょう)と言い、丹陽郡の人。

孫峻が朝廷を牛耳ると、中書朗であった紀陟に命じて孫和に詰問させけじめをつけさせようとした。しかし、孫和を哀れに思った紀陟は密かに孫和に指示を与え、自らを弁護できるようにした。このため孫峻の怒りを買ってしまい、それを怖れた紀陟は門を閉ざして家に籠る。

しかし孫峻が死に、その後、孫休が皇帝になると紀陟は中書令に昇進する。

264年、司馬昭は徐紹、孫彧に命じて孫皓に降伏を勧告させた。これに対し、孫皓は降伏をするとは言わずに和親の意思を伝える返書を紀陟と弘璆に携えさせて洛陽に行かせた。

寿春の武将王布は紀陟と弘璆に騎射をやって見せた後、呉に馬に乗って弓を使えるものはいるのかね?と尋ねると、紀陟は、これは軍人や騎士が職務として行うことであり、士大夫、君子の間ではこのようなことは行いませんと答えると、王布は深く恥じた。

魏主曹奐が接待役を通じて、こちらに来るとき、呉王の様子はどうだったか?と問うと、紀陟は、皇帝は軒までお出ましになられ、百官がお側に控え、お食事もよく召し上がりましたと答えた。曹奐が呉王と呼んだのに対し、紀陟は皇帝と呼んで一歩も譲らなかった。

司馬昭が催した宴会の席上で司馬昭は劉禅と匈奴の單于が臣下の座に座っていることを紀陟に伝えると、領土を失った劉禅殿を礼遇し、單于殿を懐けさせ、まことに威恩が遠くに顕れた証でございますと、そつなく答えた。

司馬昭が呉の防備はどのうであるかと問うと、紀陟は西陵から江都まで五千七百里ございますと答える。すると広範な防備は難しかろうと言われると、その間の必争の地は四箇所のみでここさえ守れば問題はありませぬと決して屈しなかった。司馬昭は感心して厚く礼遇した。

呉には多くの優秀な外交官が存在した。紀陟は伝の立てられていない人物であるが、呉の末期では最高の外交官であったと言えるだろう。

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紀孚(きふ)

孫皓が諸父(おじ)たちの中で孫和とつながりのあったものを、東冶に強制移住させたとき、紀陟だけは孫和を救ったこともあり、特別に息子である紀孚が都亭侯に封ぜられた。

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紀亮(きりょう)

紀陟の父親で尚書令であった。紀陟が中書令となったため、朝会ごとに、詔によって紀亮と紀陟の間に屏風がへだてとして置かれたと書かれている。共に重職であるがためだと思われる。

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嬀覧(きらん)

盛憲によって考廉に推挙された人物であったが、盛憲が孫権に殺害されると載員と共に山中に隠れ潜んだ。

後に、孫翊が丹陽太守となると、二人を招き寄せ、嬀覧には大都督として兵士の指揮を任せた。しかし、辺洪と親しく交わっていたため、しばしば孫翊がそのことで叱責すると、二人は反逆の心を抱き始めた。そして、辺洪を使い孫翊を殺害させると、その罪を全て辺洪に擦り付けた。

孫翊が殺害されると孫河は嬀覧と載員が職務を十分に果たさないためにこのような事が起きたと二人を責めた。

すると、孫河の言葉により孫権に罰せられることを怖れた二人は孫河を殺害し、使者を送って、劉馥を迎えて暦陽に留まって牽制してもらい、自分たちは反乱を起こして内応したいと申し入れた。しかし反乱を起こす前に孫翊の妻である徐氏が孫翊の旗本と共謀して二人を殺害した。


実はこの孫翊と嬀覧に関しては呉歴と呉書では少し違い、上の説明は強引に二つの書を結びつけている・・・。

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曁豔(きえん)

字を子休といい、呉郡の人である。

張温に目をかけられたらしく、選曹朗を経てやがて尚書にまで昇進をする。自尊心の強い人物で人物批評を好んで行ったため、役所にいる者たちの大多数が不適任な人材であることを見ると、人物の良否にはっきりした区別をつけ相当厳しい人事を行った。この人事の対象に初代の丞相である孫邵すら含まれていた。

そのような厳しい人事に対し、陸瑁、朱拠、陸遜は口を揃えて、王業の基礎が置かれたばかりの時期にそのような人事は無謀であると忠告をしていた。

だが曁豔はそのような忠告を聞き入れず、彼の処置に対し怨嗟の声が高まりはじめた。最終的に曁豔と徐彪は自分の気持ちに任せて専断を行い、他人に与える恩恵と処罰は公平な道理にもとづいていないと言う話が出始め、曁豔と徐彪はともにこの件で罪を問われて自殺をした。

当然、張温はこの件に対しても罪を問われた。

曁豔親子はもともと反逆の一味に加わったことがあったが、孫権はそれを罰せず、その後、曁豔は朱治に起用され、多くの人の推挙を受け、最終的に張温と親交を結んだようである。

反逆の一味でありながら、その罪を問われなかったことを考えると曁豔自体はそれなりの人物であったようには思う。しかし、あまりにも良と否をはっきりと分けさせることに固執し、柔軟性のある考えを持っていなかったのであろう。

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魏遷(ぎせん)

上虞出身で虞忠に無名であった頃から高く評価され、のちに才能を大きく伸ばして評判の高い人物となった。

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魏滕(ぎとう)

字は周林という。祖父は河内太守であった魏朗で八俊の一人に数えられた。八俊とは後漢末の清流派の八人の頭目のことである。魏滕は一本気な性格で、世間と適当に調子を合わせたような行動はとらず、たとえ切羽詰った事態になっても自らの生き方を曲げるような人物ではなかった。こういう性格のため、彼は孫策の機嫌を損ね命を落としかける。

会稽典録には孫策の功曹であった魏滕は、孫策に逆らったため譴責を受けて処刑されようとした。周りにいる人間も魏滕を救うことを諦めていた。しかし、孫策の母親である呉夫人が孫策を呼び出し、大きな井戸の縁に身を寄せて孫策に“江南の経営を始めたばかりのお前は賢者や非凡な人物を礼遇するべきであり、魏功曹殿のように職務に全力を尽くしているものを殺せば、明日には誰もお前にはついてくる人がいなくなるでしょう。その前にこの井戸に身を投げましょう”と言うと、慌てて魏滕を釈放した。

呉夫人に命を助けられた魏滕ではあるが、その後、孫権の怒りをかい死罪を言い渡される。しかし、親友であった呉範は命がけで孫権に上言し魏滕の命を助ける。魏滕は呉範に自分の両親は生んで育ててくれたが、私を死から逃れさせなかった、しかし、あなたは私を死から救ってくれ、男同士の付き合いにはあなたのような人物が一人いるだけで十分で、役に立たない人間が何人もいても意味がないことであると感謝の気持ちを言った。

しかし、孫策、孫権の怒りをかって二度も命を落としそうになるとは・・・・。だが、その時、命をかけて救ってくれた人物がいたということは、魏滕の行動に間違ったことはなかったということであろう。

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魏邈(ぎばく)

将軍で孫休に孫綝は地方に出れば必ず変事が起こるであろうと助言し、孫休に孫綝誅殺を決意させるきっかけを作った。

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許晏(きょあん)

執金吾で賀達らと共に海路をとって遼東にむかい公孫淵に会いに行くが、公孫淵に斬られてしまい、その首は魏に送られた。

駱統が張温を庇う上言をしたとき、張温が編成しようとした山賊軍のを許晏の兵と比べている。つまり、許晏という人物じたいはそこそこの立場にあったと理解していいだろう。

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許貢(きょこう)

許貢は呉郡都尉であったが、後に呉郡太守である盛憲を追い出して自ら呉郡太守を名乗った。だが、許貢は後に江東に進出してきた孫策軍と対峙し朱治に破れ厳白虎のもとに身を寄せる。

許貢は、孫策の勢いを止めようと朝廷に使者を送って、孫策の驍勇ぶりは秦の末期に劉封と転化を争った項羽のようなもので、高い恩寵を与えて朝廷に召し返さずこのまま外に放置をすると、必ず世の禍となりますと伝えた。恐らく、これが小覇王の由来ではないだろうか?

だが、この使者は朝廷にたどり着く前に孫策に捕まってしまう。そして、後に孫策が厳白虎を打ち破ると許貢も捕らえ、この使者の件に関して厳しく責めたるが、許貢は白をきって認めなかった。それに態度に対し怒った孫策はその場で部下に命じて許貢を絞殺した。

三国時代での許貢の存在は本来は大したことがない。しかし、彼の名前がこれだけ知れ渡るようになるのは、彼の元にいた食客が孫策を暗殺した人物であるからである。許貢は間接的にその後の歴史に大きな影響を与えているのである。

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許昌(きょしょう)

会稽の妖賊(宗教的な反乱者)で、句章で反乱を起こし、自らを陽明皇帝と名乗り、父親を越王の位につけ、息子の許昭とともにあたりの県を煽動してその反乱軍は何万という数にのぼった。

しかし、この反乱軍は孫堅に打ち破られる。

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許昭(きょしょう)

句章で反乱を起こした許昌の息子。

後に厳白虎が孫策に敗れた後、許昭を頼って逃げている。その際、程普が許昭を討ちたいと願い出たが、孫策は許昭は主君である盛憲が許貢に攻撃されたとき彼を助けたことがある忠義者であるので攻撃をすることはないと言って攻撃を差し控えさせた。

一つ気になるのは、許昌の息子は許韶と書かれており、許昭と同一人物ではないような気がするが、ちくま学芸文庫の正史三国志では同一人物として扱っているので、とりあえずここでは一緒に書いている。

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匡琦(きょうき)

孫権が合肥に遠征にしたときに張昭に命じて討たせた山賊。恐らくであるが、その後、豫章に攻めているので江東のどこかの山賊ではないかと思う。

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橋公(きょうこう)

大喬、小喬姉妹の父親。ちくま学芸文庫の正史三国志では橋公と書かれているので、そのまま引用したが、喬公でも正しいであろう。

最後に氏をつけるのは女性で、公が男性であろうかと思われる。

因みに正史三国志では橋公という書き方のみであるが、三国志演義では喬玄、喬国老とも書かれている。

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金奇(きんき)

歙の不服住民の頭目で一万戸の配下を率いて安勒山に立てこもったが、賀斉に征伐されてしまう。

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虞欽(ぐきん)

無難督で馬茂の孫権暗殺計画に加わる。しかし、事が露見して関係者は全て一族皆殺しになった。それから考えると虞翻の一族の人物ではないと思われる。

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虞歆(ぐきん)

虞翻の父親で日南の太守であった。虞鳳から学問を受け継ぎ、古い書物を多く所持していた。虞家は代々、易径の研究をしていたらしい。

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虞察(ぐさつ)

虞聳の一族の後輩で、後に虞聳が晋王朝に入ったとき、王朝は間違えた人事をしていると嘆いた手紙を虞察に送っている。

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虞汜(ぐし)

字を世洪(せいこう)といい、南海郡で生まれた。虞汜は虞翻の四番目の息子で、虞翻の十一名いる息子の中では一番名が知られている。

虞汜のエピソードの中で一番知られているのが、孫綝が孫亮を廃して孫休を即位させようとしたとき、孫休がまだ宮殿に到着する前に孫綝は宮中に入ろうとした。恐らくこの行為は自分が皇帝の座に付こうとしているパフォーマンスだと思われる。

そんな孫綝の行為を見た虞汜は、あなたは伊尹や周公にあたられるかたで、宰相の位にいる方です。そのような立場のあなたが自ら宮中に入ろうとしていますが、そうしたことをされれば、臣下たちの心は動揺し、あらぬ評判も広がりましょう。末永く忠孝をまっとうされ、後世に高い名声を伝えることができなくなりまするぞと忠告した。

孫綝は不愉快そうであったが、結局、孫休を即位させた。孫休が即位すると、虞汜は散騎中常侍に任ぜられ、駙馬都尉を加官された。

269年、虞汜は交阯に攻撃をかけるべく出発した。この交阯遠征軍は虞汜、薛珝、陶璜らが陸路をとって荊州から、李勖、徐存らは海路を取り、両者が合浦で終結して交阯に攻撃をかける予定であった。しかし、海路を取った李勖らは途中で帰還してしまう。だが、虞汜は一年以上をかけて交阯を陥落し、九真と日南はふたたび呉に属することになった。

その後、虞汜は扶厳を討伐し交州刺史に任ぜられ、冠軍将軍、余姚侯となったが、それから間もなく死去した。

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虞授(ぐじゅ)

広州の督であったが、郭馬が反乱を起こした際、攻め殺された。

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虞俊(ぐしゅん)

余姚の人で張温の人物像は才は豊かだが智に欠け、華はあるが実が伴わず、やがて人の恨みを集めて禍を被る事になるだろうと唱えた。虞俊の意見どおり、後に張温が失脚すると諸葛亮は虞俊に先見の明があったことを賞賛した。

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虞翔(ぐしょう)

章安の人。朱育が有能な人材を紹介した際、文章の士の一人として紹介されており、檄文を著して天下にまわし、その文章は春の花のようであったと評されている。

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虞聳(ぐしょう)

字を世龍(せいりょう)といい、虞翻の六番目の息子である。淡白で物事に執着がなく行動は礼にかたっていたという。呉の朝廷では清官を歴任し、越騎校尉から昇進を重ね、廷尉、湘東や宜都太守となり、晋の王朝に入った後は河間国の相に任ぜられた。

虞聳は人を登用するさい、後ろ盾のない身分の低いものを積極的に取り立てるが、彼のこうした行為は、名もない人の中に有能なものがいるはずがないと非難された。これに関して恐らく虞聳は声を大にして反論をしなかったのであろう。ただ一族の後輩にあたる虞察にこのような兆候は残念であると手紙を送っている。

虞聳は人々が祭礼と祭祀を派手に行っていることを不快に思っており、彼の弟が死去したとき、虞聳は羊と豚の肉を捧げ物とし、酒とご飯を出しただけであった。彼の一族は皆このやり方を守った。

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虞忠(ぐちゅう)

字を世方(せいほう)といい、虞翻の五番目の息子。

節操を守ると共に実行力があり人物を見分ける能力があったと呉書では書かれている。彼が目をつけた人物には、子供のうちから陸機の非凡さを見出し、無名であったときから魏遷のことを高く評価し、この二人はその才能を伸ばして評判高い人物となった。

王岐は官界にしかるべきバックのない家柄であったが、虞忠はその彼と親しく交わると、王岐はとんとん拍子で出世し宜都太守となった。虞忠は王岐の後を継いで宜都太守となる。

晋が呉を攻めたとき、虞忠は夷道監の陸晏と弟の陸景と共に宜都城に立てこもって降伏をしなかったが、最後に城を落とされ殺害された。

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虞翻(ぐはん)

字は仲翔(ちゅうしょう)といい、会稽郡餘姚の人。

初めに王朗に使え、後に孫策が王朗を倒すと孫策に使えて功曹に任じられ、孫策は友人として礼遇した。孫策は思いに屈すると山野を馬で駆け巡って狩りをしたが、虞翻はその軽率さを常に諌めていた。

韋昭の呉書にいう、孫策は山越を討伐してその首領を斬り、側近たち全員に賊を追わせて自分は一人で馬を休めていた。虞翻は山中で孫策に出会い、草深いところは危険だと注意して馬から下ろし、自分は矛を使えるからと言って辺りに気を配りながら先頭に立った。平地にに出ると孫策に馬に乗るように勧めて、虞翻は徒歩で従うと言った。心配する孫策に虞翻は、私は一日に二百里(十五キロ)を行けます。征伐に参加して以来、軍吏の中で私に匹敵する者はおりませんと答えた。

孫策が本当に馬から降りて虞翻についていったかどうか怪しく感じるが、恐らく虞翻は学者でありながらも、それなりに武術に長け、体力があったのかもしれない。

孫策が死去し、孫権が後を継ぐと、虞翻は騎都尉に任じられたがしばしば諌奏をしたために孫権から煙たがられ、それに加えて協調性を欠いていると人々から非難をされていた為、丹陽郡の涇県に移されてしまった。呂蒙はこれを哀れんで、虞翻は医術に詳しいことから自分の側に置くように取りはからった。

虞翻の厳しい性格を現すエピソードとして于禁と糜芳の話がある。

于禁は関羽が樊城を攻撃した際、捕虜となり江陵の獄に繋がれた。後に孫権が関羽を討伐すると于禁は釈放された。そんな于禁が孫権と馬首を並べているのを見た虞翻は、降虜!何で我が君と馬首を並べるか!!と怒り鞭を揮おうとすると孫権は叱りつけて止めさせた。

また別の日、孫権の酒宴に参加した于禁は音楽を聴いて涙を流すと、それを見た虞翻は、汝はそんなふりをして許してもらおうとしてるのか?と罵った。孫権はこの様子を見て不機嫌な様子であった。

韋昭の呉書には魏との講和がまとまると、孫権は于禁を曹丕のもとに送り返そうとした。すると虞翻は、于禁は数万の軍勢を失いながら身は降虜となりました。全軍の前で彼を斬り、人臣にして二心を抱くものの見せしめにしましょうと説得したが、孫権は于禁を魏に帰すことにした。虞翻はそんな于禁に、汝は呉に人無しと思うなよ。たまたま私の意見が用いられなかっただけだと最後まで毒づいた。

糜芳も関羽討伐戦の際に呉に降った武将である。虞翻が江を進んで行くと、糜芳の船と出合った。糜芳の部下が将軍の船を避けよと叫ぶと、虞翻は声を大にして、忠と信を失くして何をもって君に仕えようとするか!人の二城を傾けて将軍と称するのは物の道理に叶う事なのか!?と言うと糜芳は船窓を閉めて急いで逃げた。

後に虞翻は車に乗って糜芳の軍営の門に通りかかったが、軍吏が門を閉ざして通れなかった。すると虞翻は怒りだし、閉じるべき時に城門を開いて降伏し、開けるべき時に門を閉じるとは、そんな理屈は通りませぬぞ!と言った。これを聞いた糜芳は恥じる色があった。

虞翻は占いにも長けていたようであり、関羽が敗走を始めたと聞いて孫権が虞翻にこれからどうなるかを占わせると、虞翻は卦を見て二日以内に関羽の首は必ず断たれましょうと答えると、その通りになった。孫権はその占いの腕を賞賛したという。

また関羽討伐戦の際、糜芳が降伏すると、虞翻は呂蒙に城中に糜芳の考えに反抗するものもいるかもしれないのですぐに入城するべきですと進言をした。実際に城内では兵を潜めて不意を襲う計画があったが虞翻の進言により未遂に終わったという。

そんな虞翻は、ある日、孫権と張昭が語り合って神仙の話題をすると、虞翻は張昭を指差して、あんな者はみな死人だと言うのに、それを語るとは何事か!世の中にはどうして神仙などいるか!と言った。これが孫権を激怒させ、ついに交州に強制的に移住させられた。

虞翻は交州に移っても学問に励み、子弟はいつも数百人を数えた。233年、虞翻は70歳の人生を閉じた。

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虞丙(ぐへい)

虞丙の丙の字は上に日という字が付いているのだが、存在しないので取り合えず丙という字にしておく。

字を世文(せいぶん)といい、虞翻の八番目の息子である。

若いときから俗事にはまらぬ大きな気概を備えており、呉の王朝に出仕して黄門郎となり、主君の下問に的確に応答することでその才能を認められ、尚書侍郎に昇進した。

晋が攻めてきたとき、虞丙は武昌より上流地域の諸軍団の総指揮にあたるべく派遣された。呉軍が総崩れになると虞丙は旗印と蓋と印綬とを呉の朝廷に奉還した後、晋に帰順した。

呉が滅びた後、晋にて権力者たちの横暴をおさえ、弱いものの後ろ盾となり、虞丙の威風は人々の間に知れ渡った。

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虞鳳(ぐほう)

虞翻の祖父で易の研究家。

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虞褒(ぐほう)

交州刺史であった朱符の配下で、朱符の土地の長官となり、人々を侵害し虐待し、民衆に厳しい税金を課した。そのため、後に住民は反乱を起こした。

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屈幹(くつかん)

屈晃の弟で、屈晃が孫和を擁護しようとした人物であったため、孫皓が皇帝になると立義都尉に任じられた。

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屈恭(くつきょう)

屈晃の弟で、屈晃が孫和を擁護しようとした人物であったため、孫皓が皇帝になると兄の屈幹と同時に立義都尉に任じられた。

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屈晃(くつこう)

二宮の変の際、孫和擁護派に回った人物で、殿中にて孫権に謁見したとき、大使殿は仁愛にして聡明であることは誰もが知っており、太子を変えて人心に疑惑や動揺を与えてはなりませぬ。もし陛下がこの老臣の言葉を聞いていただけるのでしたら、私はいつ死んでも思い残すことはありませぬ、と叩頭して額から血を流し訴えた。

しかし、孫権は屈晃の言葉を聞きいれず、追放して郷里に帰らさせた。

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屈緒(くつしょ)

屈晃の息子で、屈晃が孫和を擁護しようとした人物であったため、孫皓が皇帝になると東陽亭侯に封じられ、後に尚書僕射にまで昇進した。

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邢氏(けいし)

孫壱が朱異に攻撃されようとして魏に逃亡をしたとき、曹芳の貴人であった邢氏を妻として与えられた。邢氏の容貌は非常に美しかったが、嫉妬深く、その下にいるものたちは酷使に耐えられず、孫壱と邢氏を共謀して殺害した。

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奚煕(けいき)

中書令だったころ、賀恵を讒言したことがあり、徐粲が使者として事実確認のために遣わされたが、奚煕は今度は徐粲が賀恵の肩を持っていると讒言し、徐粲は斬首された。

後に臨海太守となるが、孫皓が死んだと噂されると、奚煕は郭誕に書簡を送り国政を非難した後、兵を挙げて反乱を起こそうとした。だがその前に何植が攻めてくると兵を集め海路を遮断し守りを固めたが、部下に殺害され、彼の一族は皆殺された。

陸凱は奚煕を小役人と呼び、奚煕が計画を進めていた水田開発を許してはならないと孫皓に上言している。

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恵衢(けいく)

袁術の配下で、当時、揚州が劉繇が支配していたにも関わらず、袁術は勝手に恵衢を揚州刺史に任じた。

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景養(けいよう)

西湖の平民で、孫皓が鳥程侯に封じられて任国に行った際、孫皓の人相を占って必ずやとても高貴な身分になるだろうと言った。

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厳維(げんい)

孫和が太子に立てられた際、孫和の相手役の一人として選ばれた。

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厳凱(げんがい)

厳畯の息子で升平宮の少府にまで昇進した。

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厳圭(げんけい)

曹仁が濡須に攻めてきた際、常彫には五千の兵を率いらせ中洲を襲撃させた。朱桓が曹仁と曹泰相手に防戦をしている間に、将軍である厳圭は駱統と共に常彫を攻め破った。

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厳綱(げんこう)

臨賀太守で反乱を起こした廖式に殺害される。

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厳畯(げんしゅん)

字を曼才(まんさい)といい、彭城郡の人。

若い頃から学問に親しみ、詩経、書経に詳しく、また三礼に通じ説文解字を好んだ。乱を避けて江東に移り、諸葛瑾、歩隲と名声を等しくし、互いに親しく交わった。性格は実直かつ思いやり深く、これはと見込んだ人物がいると良い師匠となった。張昭は孫権に厳畯を推挙すると、騎都尉、従事中郎に任命された。

魯粛が死去すると、孫権は厳畯に一万の兵を与えて魯粛に代えて陸口を守らせようとした。しかし、厳畯は、私はとりえの無い書生で軍事に疎く、才も有りませぬのに、私が魯粛殿の後を継げば国は悔いを招くことになりますぞ、と涙を流して固辞した。そのため、孫権は呂蒙を魯粛の後任にした。この厳畯の行為を見て、人々は厳畯が自分をよくわきまえていると賞賛した。

239年、孫権が帝位につくと、厳畯は衛尉に任じられ蜀に使者として送られた。厳畯に会った、諸葛亮は厳畯のことを高く評価した。

厳畯の旧友の劉穎は病気を理由に孫権の招聘を断り続けてきたのだが、弟が零陵の任地で病死すると慌てて駆けつけてきた。それを知った孫権は仮病を使っていたのかと怒り、劉穎を収監しようとした。しかし、厳畯は友のために必死で命乞いをして劉穎を助けたが、厳畯は免職されてしまった。

この事件から大分たって、厳畯は復職して尚書令に任じられ、78歳で死去した。

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厳爽(げんそう)

厳畯の息子の一人

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厳白虎(げんはくこ)

呉の人で孫策が劉繇を打ち破った頃、厳白虎は一万人ぐらいの人数を率いる勢力であった為、呉景らは孫策に厳白虎を攻めてから会稽に軍を進めるべきだと進言していた。だが孫策はそれには賛同せず、厳白虎はただの群盗にすぎず、いつでも捕らえられるということで、まずは会稽から攻めた。

その後、孫策は自ら厳白虎の征伐に向かった。厳白虎は孫策が攻めてくることを知ると、すぐに砦を高くし守りを固めた。そして、その後、弟である厳輿を使者に出し和睦を求めた。しかし、孫策はそれを許さず厳輿を斬り捨てた。厳白虎陣営は厳輿が勇猛で武力があったことから、厳輿が死んだことを知るとおじけづき、孫策軍に攻められ打ち破られる。

その後、厳白虎は余抗に逃走し、許昭のもとに身を寄せた。

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厳武(げんぶ)

字を子卿(しけい)といい、衛尉であった厳畯の従兄弟にあたる。厳武は囲碁に巧みで並ぶものはいなかったと言われている。

彼のそういう卓越した才能は八絶の一人として称えられた。

蒼天航路にも諸葛瑾が曹操のもとに使者として訪れたとき、江南の八絶をよこせ!と言われている。才能ある人物収集が趣味であった曹操が厳武を欲しがったとしても何ら不思議ではない。

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厳密(げんみつ)

都尉で、丹陽で干拓事業を行うため、浦里塘にダムを築くことを建策した。その後、ダム工事は行われることになったが、人々を動員するための費用は莫大な額になり、多くの兵士は死亡し、自ら命を絶つものまで出て、人々はこの工事を恨んだ。

後に、陸凱が孫皓に上言したとき、厳密の浦里でのことを失敗例としてあげていることから、この厳密の事業は失敗したものと思われる。

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厳輿(げんよ)

厳白虎の弟で厳白虎軍の中では勇猛で武力があった。

孫策と和睦を結ぶため使者として孫策を訪れる。その時、孫策がいきなり抜刀したため、厳輿は身じろぎした。すると孫策が、あなたが即座に立ち上がりすぐに立ち回り出きると聞いたのでふざけたまでです、と笑いながら言うと、いや、刃物を見ると即座に飛んで交わす癖があるのですと負けずに言った。

すると、孫策は短剣を厳輿に投げつけると、厳輿はかわせずその場で死んだ。

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伍延(ごえん)

江陵の督で晋が攻めてきたとき、杜預に敗れて斬られた。

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呉安(ごあん)

呉景の孫で、二宮の変の際、魯王孫覇と結託して太子であった孫和の讒言を行った。その後、讒言の効果が出て孫和は太子の地位を廃されるが、孫覇も自殺を命じられ、孫覇の一味ということで呉安は誅殺される。

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呉祺(ごき)

呉景の息子(恐らく次男)で、呉安が誅殺されるとその後を継ぎ、都亭侯に封じられた。呉祺は張温や顧譚と仲がよく、孫権は彼を訴訟のとりさばきにあたらせた。

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呉巨(ごきょ)

劉表の部下で、蒼梧太守の史璜が死ぬと、勝手に呉巨を送り史璜の後任とした。交州は南海貿易が盛んな場所であり、劉表はその利権を欲していたものと思われる。

しかし、後に劉表が死去すると呉巨は動揺に劉表に送られて交州刺史を名乗っていた頼恭と中違いをし、兵を動かして頼恭を追い出した。恐らく、自ら交州刺史になろうとしたものと思われる。

後に孫権が赤壁で曹操軍に勝利すると歩隲を交州刺史として派遣した。呉巨は内心では密かに異心を抱き、表面的に呉の支配を受け入れるように見せかけていた。歩隲は丁重な礼をとって懐柔し、会見したいと誘うと、その席で呉巨を斬り捨てた。

後に呉巨は武人で勇猛一点張りの人物であったと薛綜は評している。

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呉遽(ごきょ)

鄱陽郡の平民で反乱を起こして、中郎将であった周祗を殺すと郡城も攻め落とす。そして、それに呼応するように周りの県も不穏な情勢となる。すると陳武の息子である陳表がすぐさま討伐の軍を進めてきた。呉遽は打ち破られ、降伏をした。

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呉景(ごけい)

孫堅の妻、呉夫人の弟。

呉景はいつも孫堅のもとにあって征伐に従い、功績を立てると騎都尉に任じられる。その後、孫堅が劉表に討ち取られると、呉景は孫賁に従って袁術の旗下に入る。その頃、孫策は呂範と孫河を連れて身を寄せている。

その後、袁術は上表して呉景を丹陽太守の職務につかせると、呉景はそれまでの丹陽太守であった周昕を討伐して、そのまま丹陽郡を乗っ取った。献帝春秋には、袁術は呉景をさしむけて周昕を攻撃させたが、中々呉景が攻め切れなかったので、住民に周昕の命令に従ったものは後に死刑にするとのふれを出した。すると周昕は私は不徳であるにしても住民には罪は無いと言って兵士を解散させて故郷に戻ったと書いてある。

しかしその後、劉繇が勢力を伸ばし呉景は丹陽を支えられなくなり北に戻って袁術のもとに身を寄せる。袁術は呉景を督軍中郎将に任じ、孫賁にも共同するように命じ劉繇を攻めさせたが幾年経っても打ち破れなかった。その後、孫策が袁術から兵を返してもらうと援軍としてやってきて、呉景は孫策のもとで大いに活躍し孫策が劉繇を曲阿にて破ると呉景と孫賁を袁術のもとに返した。

呉景が袁術のもとに戻ってきたとき、袁術は丁度、劉備と対峙しており、すぐに呉景に命じ広陵太守に任じた。後に袁術が皇帝を僭称すると孫策は機を見て袁術との関係を断つことにする。すると呉景はただちに広陵郡太守の職務を放棄して孫策のもとに身を寄せる。孫策は呉景に丹陽太守を改めて任じた。

呉景の丹陽太守の職に関しては、義郎の王誧が南方の地を巡察し終えると、朝廷に上表して呉景を揚武将軍に任じ、正式に丹陽太守の職務を承認した。因みに呉景は袁術旗下にいるころ丹陽にておもいやりのある当地を行って人望もあったようで、再度、太守として戻ってくると住民から歓迎されたようである。

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呉五(ごご)

不服住民の大将で六千戸を率いて大潭に本営を置き、余汗まで兵を進めた。後に賀斉が討伐に軍を向けてくると戦ったが敗北して降伏をした。

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呉網(ごこう)

諸葛誕の部下で、諸葛誕が寿春で反乱を起こす際、人質として呉に、息子である諸葛靚と共にやってきた。

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呉粲(ごさん)

吾粲の間違いでは無いかと思われるが、ネット等で調べる限りは怪しいとされている程度なので、取り合えず呉粲が出てくるところを紹介する。因みに吾粲の間違いではないかと思われる理由として、呉粲は顧邵に抜擢されていると出ているが、歩隲伝では顧邵は吾粲を抜擢したと書かれている。

鳥程出身の人で、微賤しな身分の出身であったが顧邵に抜擢され友人として礼遇され高い評判を得た。呉粲は後に太子少傅となった。

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呉簒(ごさん)

呉景の孫で呉祺の後を継いだ。しかし、呉簒の妻は滕胤の娘であったため、滕胤が反乱を起こして捕らえられ誅殺されると、一族であった呉簒も殺されてしまう。

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呉述(ごじゅつ)

孫皓政権に対し反乱を起こした郭馬の私兵の中の武将の一人。郭馬が広州の督であった虞授を攻め殺すと、郭馬は勝手に都督交広二州諸軍事・安南将軍と号し、呉述は南海太守になった。

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呉穣(ごじょう)

孫皓時代、広陵に城を築かせた際、将軍であった呉穣を広陵太守として任じた。

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呉碩(ごせき)

孫皎の部下で広陵の人。孫皎には軍事を任され親身になって待遇されたので全力をあげて職務にあたった。孫皎が死去すると、その部隊は孫奐に引き継がれ、226年に石陽を攻めたとき孫奐、張梁等と共に五千の兵で高城を攻め落とし三人の敵将を捕らえる活躍をした。

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呉碭(ごとう)

安成県の長で関羽と密かに通じて反乱を起こし、攸県に立てこもった。その後、孫権は魯粛を送って攸県を攻めさせると、呉碭は魯粛の軍の鉾先を突き破って逃亡した。

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呉奮(ごふん)

呉景の息子で呉景が死ぬとその兵を引き継ぎ新亭侯に封ぜられた。孫権が荊州の討伐に向かうに際して、呉奮を呉郡都督に任じて東方の鎮めにあたらせた。

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呉平(ごへい)

工匠と書かれているので大工だと思われる。

その呉平の家に珍しい植物が生えると、役人がそれを調べた。そしてその植物を平虜草だとした。すると呉平は平虜郎に任ぜられ銀印青綬を賜った。

全く意味が分からない。ただ恐らく縁起の良い植物がたまたま生え、当時の呉は晋に対し風前の灯火であったため何とかこんな小さな運にでもすがろうとしたのではないだろうか?

しかし、呉平はついている・・・。彼の名前は180年の時を越えても知られているのだから・・・。

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呉免(ごめん)

不服住民の一人で一万戸を指揮して反乱を起こし漢興に本営を他の反乱者とつらねて置いた。しかし反乱を起こしたうちの一人である洪明が賀斉に斬られると降伏をした。

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吾彦(ごげん)

吾彦が正史三国志に登場するのは僅か二箇所。

1.歩闡が反乱を起こすと陸抗は吾彦、左奕、蔡貢に命じて西陵に行かせた。
2.王濬が蜀で船を建造しているとその木屑が流れてきた。吾彦はそれを孫皓に差出し、晋が呉の進攻を目論んでいるに違いないと助言をするが、孫皓はそれを聞き入れなかった。

たった、これだけの記述であるのだが、なんとなく気になった。というのは私は吾彦は伝が立てられるほどメジャーな武将だと思っていたからだ。それにしては記述が少なすぎる。そこで、ネットで調べると吾彦は晋書に伝を立てられそちらの方に詳しく書かれていた。

以下、晋書からの記述である。

字は士則(しそく)で呉郡、呉の人。

吾彦は貧しく賤しい家柄の出身で、文武両面に才能があった。身の丈は八尺あり、素手で猛獣をねじ伏せるほど人並み外れた強力の持ち主であったという。最初は呉に仕えて通江吏になると、そのころ将軍薛珝が南征に向かっていたが、その行軍の様子が見事であったため、吾彦はそれを眺めると、ため息を吐いた。しかし、人相見の劉札は、貴君の人相からすると、後年、あれくらいにはなれますよ。憧れるほどでもないと言った

初めは小将となって陸抗の下にいたが、陸抗は吾彦の武勇胆略に目をつけ、抜擢するつもりでいたが周りが納得しないことを心配した。そこで諸将を宴会に招き、こっそりとある人に言い含め、気違いのふりをして刀を抜き、飛びかかって来させると、座中の諸将はみな恐怖して逃げ出した。しかし、そこを、吾彦だけは動揺せず、机を使って防ぐと人々はその勇気に感服した。すると吾彦は見事に抜擢される。

その後、上にあるように歩闡が反乱を起こすと陸抗は吾彦、左奕、蔡貢に命じて西陵に行かせる。この歩闡の反乱は呉帝国にとっては最大の危機であったが、陸抗や吾彦の活躍により歩闡を討ち取ることができた。

次の吾彦の活躍は王濬が呉を討伐しようと、蜀で軍船を建造していた。すると吾彦は流れてきた木屑を拾い上げて孫皓に人数を増強し晋に備えるべきと上言するが、孫晧は聞き入れなかった。だが吾彦だけはすぐさま鉄製の鎖を作り、長江の道筋に張り巡らせた。晋が国境に迫ると、長江沿いの諸城は報告を受けただけで降服をするか、攻撃を受けてすぐに陥落したが、吾彦だけは堅守し、大軍が攻めかけても落とされなかった。そこで晋軍は三十里を退いて、吾彦に敬意を表した。

呉の滅亡と共に吾彦は降服した。司馬炎は彼を金城太守に任命する。その司馬炎が吾彦に孫皓が国を滅ぼした理由を聞くと、吾彦は呉主は英俊であられ、宰相も賢明でございましたと答えた。司馬炎はそれを聞き笑いながら、君臣ともに賢明なら、どうして国が亡ぶものか?と言うと、吾彦は、天運には限りがあるもので、そのため陛下の擒になったのでございます。これは天命であり、人知の及ぶところではございません!と堂々と答えた。そういう吾彦を司馬炎は評価した。

吾彦は晋で順調に出世をした数少ない呉将である。

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吾粲(ごさん)

字は孔休(こうきゅう)といい、呉郡鳥程の人。当時、鳥程の県長は孫河で、吾粲は孫河の下役を務めて非凡さを認められた。後に孫河が将軍になり自分で地方官を選べるようになると、上表して吾粲を曲阿の丞にした。後に吾粲は昇進して長史になり、その治績を高く評価された。もともと、吾粲は後ろ盾も名も無い卑い身分の出身だったが、陸遜やト靜(ぼくせい)らと肩を並べて名声を等しくした。

209年、孫権が車騎将軍になると、吾粲はその主簿となり地方に出て山陰県の令となり再び戻ってくると参軍校尉となる。

222年、劉備の東征軍を破ると、その9月に魏が進攻してくる。孫権は呂範、賀斉、吾粲らに命じて水軍によって曹休たちの進出を食い止めさせ、諸葛瑾、潘璋、陽粲に南郡の救援に向かわせ、朱桓を濡須の督に任じて曹仁を防がせた。その戦いで洞口は暴風雨となったため、呉の水軍の船の多くが転覆し多くの兵士が水中に投げ出された。それらの兵士は転覆を逃れた船に取りすがったが、船内のものは沈むのを怖れて矛で突いて登らせようとしなかった。

しかし、吾粲と黄淵は水夫に命じて、水中の兵士を助けあげた。左右の者は船が沈むと心配をしたが、吾粲は船が沈めば一緒に沈むだけのことだ。人々が困り果てているのを、どうしてそのままに出きるか!と言った。二人が助けた兵士の数は百余人を数えた。帰還した後、吾粲は会稽太守に昇進した。

235年、吾粲は志願兵を募って部隊を編成して昭義中郎将の官を授かり、呂岱とともに山越を討伐し、翌年、叛徒の李桓を捕らえた。中央に戻ると屯騎校尉、少府となり、太子太傅に昇進した。

242年、孫和が太子になり二宮の変が起きると、吾粲は孫和擁護派に回った。しかし、孫覇や楊竺に讒言、中傷されて獄に下されて誅殺された。

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胡玉(こぎょく)

海賊。

この胡玉がいた海賊の集団こそが孫堅伝のオープニングを飾っている。孫堅の名声はこの海賊を退治したことから始まるのである!

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胡伉(ここう)

臼陽県の長。

諸葛恪が山に逃げ込んだ不服住民(反乱勢力)に手を出してはならないと命令を出したが、胡伉は降伏してきた周遺を捕縛した。この周遺は古くからの不服住民で食料が無くなったため、苦し紛れに山を降りてきただけで、心中ではいつか反乱を企てようとしていたので胡伉は諸葛恪の役所に送った。

すると諸葛恪は胡伉が命令を破ったとし、胡伉を斬刑にした。その後、胡伉が人を捕縛したことで罪にされ処刑されたことを聞き、多くの老人や幼い者たちが手を引いて山地から出てきた。

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胡綜(こそう)

字は偉則(いそく)で汝南郡固始県の人。

胡綜は幼いときに父を失い、母は彼を連れて汝南から江東に移り住んだ。孫策が会稽太守となると胡綜はまだ十四であったが門下循行の官を与えられた。

200年、孫権が討虜将軍に任じられ兄の跡を継ぐと、胡綜は金曹従事に任じられ貨幣や塩鉄に関わる職務に当たらされた。胡綜は203年黄祖討伐に加わり、功によって鄂県の長となった。209年、孫権が行車騎将軍として京城に都を定めると胡綜を鄂県から呼び戻して車騎将軍書部とし、是儀、徐詳とともに軍事、国政の機密事項に与らせた。

221年、劉備は呉を征伐しよう四万の軍を率いて長江を下り、白帝城に達した。孫権は兵力の不足を憂えて、胡綜に命じて諸県から兵を徴収させると、胡綜はたちまち六千人の兵を集めた。これを解煩の兵と名づけて両部に分け、徐詳が左部、胡綜が右部を領した。この年、魏は孫権を呉王に封ずると胡綜は亭侯に封ぜられた。

223年、戯口を守っていた晋宗が魏に降ると、度々、呉の領土に侵入して暴れた。胡綜は賀斉と糜芳と少数の兵で奇襲をかけて晋宗を捕らえると建武中郎将の官を加えられた。

229年、孫権が帝位につくと、蜀は使者として陳震を派遣して、それまでの友好関係を再確認し、魏を倒したあとの領土の分配についても盟約を交わした。その盟約の文は胡綜によって作られている。この年、孫権は長江下流の建業に都を定めると胡綜は侍中に任じられ、郷侯に封じられ、左右の領軍将軍の職を兼ねた。

230年、隠蕃が曹丕に命じられ呉に降るふりをし、呉国内で君臣の離間を図ろうとした。隠蕃は上書して孫権に謁見すると孫権と論議し、孫権はその内容に感心した。孫権が陪席していた胡綜に意見を求めると、胡綜は、大言は東方朔に似ており、詭弁の巧みなところは禰衡に似ておりますが、才能は彼ら二人に全く及びませんと答え、孫権が隠蕃に何の職を与えるべきか尋ねると、胡綜は取り合えずお膝元の小職に就けて様子を見てはどうでしょうかと言った。胡綜は決して隠蕃の口先に惑わされずしっかりとその本質を見抜いたと思われる。後に隠蕃の謀反が発覚して隠蕃は殺された。

233年、孫権は遼東を討とうとすると、輔呉将軍張昭が猛反対した。胡綜は二人の間をうまくとりなし、亀裂に至らしめなかった。

胡綜は酒好きで、飲むと気ままに大声をあげて盃で左右の者を打ったりしたが、孫権も自身が酒好きのせいもあり、胡綜の蔡を愛し責める事はなかった。

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胡沖(こちゅう)

胡綜の息子で、胡綜が死去するとその爵位を引き継いだ。

胡沖は人柄が公正で穏やかで文才があり、277年には中書令に任じられる。280年、晋が進攻してきた際に、薛瑩と共に孫皓に書簡を送り降伏をするように勧めた。

呉が滅びると、胡沖は晋の王朝に出仕して尚書令、呉郡太守となった。

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顧栄(こえい)

字を彦先(げんせん)といい東南の地の名士で顧雍の孫である。

孫皓の側近で黄門郎となり、運良く孫皓に咎められることなく無事に過ごしている。孫皓はいつも顧栄と孫丞の二人に出来事の記録を担当させ、問題点について諮問し、それに答えさせた。顧栄と孫丞は孫皓に相当信頼されていたようであり、孫皓は詔を下して、今後、侍郎を任命するに際しては、今の皇族の孫丞や顧栄のごとき人物でなかればならないと賞賛されている。

呉が滅びると晋においても礼遇された。

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顧徽(こき)

字を子歎(したん)といい、顧雍の同母弟。

弁舌に優れていたことから孫権に召し寄せられ主簿の任についた。あるとき、顧徽が近所に外出するとある男が百銭の金を盗んだことで処罰されそうになった。顧徽は慌てて孫権の元にいき、今は曹操に抵抗すべく人材が必要なときです、この男は体格も良く盗んだ金も僅かです。願わくば許してやって頂きます様にと上言した。孫権はこの男を釈放するように命じた。

その後、顧徽は東曹掾の官に転じる。するとその頃、曹操が呉に兵を向けようとしていると噂があった。そこで孫権は顧徽に曹操に直接会い、曹操の腹の内を調べるように頼んだ。顧徽は輔義都尉の官を授けられると曹操に会いに行った。

曹操は顧徽に呉のことについて様々なことを聞いたが、顧徽はそれをそつなく答え、そのついでに江東の地は大豊作で反乱勢力も呉になびき、志願して兵になっていると伝えた。すると曹操は世と孫将軍とは婚姻関係を結んで家族同然の付き合いであるのに、どうしてあなたは世が聞いてないことまで話すのか?と尋ねると、顧徽は曹操様と磐石なごときの堅い関係を結ばれているからこそ江南の内情を知りたいと思い話したまでですと答えた。曹操は顧徽の才能を評価し手厚くもてなした。

その後、顧徽が呉に戻ると、孫権が顧徽に曹操について尋ねた。すると、顧徽は、敵同士の国の間では実情を見せたがりませんが、私が密かに得た情報では曹操は袁譚と戦いを交えている最中で他に心を向ける余裕はなさそうですと言った。使者としての大任を果たした顧徽は巴東太守に任ぜられた。

孫権は顧徽を重く用いようとした矢先、顧徽は死去した。これだけ才ある人物の早世は孫権にとって痛手であっただろう。

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顧向(こきょう)

顧悌の父親で四つの県の県令を歴任し、年を取ったあとは官職を退いたと書かれてあるので順風な人生を送ったと思われる。天寿を全うして死んだらしく、息子の顧悌にも相当愛されていた。

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顧禺(こぐう)

字は孟著(もうちょ)といい、顧栄の兄の子。若くして名望があり散騎侍郎となったが早世した。

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顧彦(こげん)

顧悌の四人の息子の一人。

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顧謙(こけん)

顧悌の四人の息子の一人。

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顧承(こしょう)

字は子直(しちょく)といい、顧邵の息子で顧譚の弟。

孫権に召しだされると、騎都尉の官を授かり、羽林兵の指揮に当たった。後に呉郡西部都尉に任ぜられると、諸葛恪と共に山越の平定にあたった。そして、その山越の中から屈強な者を選びぬき、別に精鋭八千人を手に入れた。

山越平定の作戦から戻ると章阬に軍営を留め、昭義中郎将を授かり、宮中に入って侍中となった。

顧承は張休とともに寿春を攻め、芍陂にて王凌と戦った。しかし。呉軍は劣勢で秦晃の軍は壊滅され窮地にたたされたが張休と顧承が奮戦したため魏の軍を押しとめることができた。その功績により奮威将軍を授けられ、宮廷を離れて京下の督の任にあたった。

しかしその後、二宮の変の際、全家を始めとする孫覇一味の讒言を受け、顧譚、張休とともに芍陂の役の論考賞を行ったおりに張休と顧承は典軍の陳シュンと示し合わせて、勝手にその功績を増したのだと訴えられ交州に強制移住させられ齢三十七の若さで死んだ。

因みに、陸遜は顧承や顧譚の叔父にあたることから、言いがかりをつけられ流罪にされている。


二宮の変には全家対顧家という図式が浮かび上がってきているが、これにより顧承や顧譚という未来の呉を背負って立つべき有能な人物を失うのは呉にとって損失であった。特に顧承は武にも優れていただけに、二宮の変で呉の力が衰弱したことは否めない。

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顧邵(こしょう)

字を孝則(こうそく)といい、顧雍の長男。

経書やその注釈書を読み、好んで人物評論をした。若い頃から叔父にあたる陸績と同様に称され、陸遜、張敦、ト静よりも名声が高かった。志を持つものや、ひとかどの人物たちは顧邵を訪れ面会し、ある者は議論をかわし、ある者は厚い交わりを結び、このようにして顧邵の評判は遠くまで伝わり賞賛された。そんな顧邵は孫権の取り計らいで孫策の娘と結婚をした。

顧邵は二十七のときに豫章太守となった。豫章太守となると、まずはその地の先賢の墓にもうで、その子孫に手厚い保護を与えると、淫祀や礼に背いた祭祀を禁止した。さらに、身分の低い役人の中に素質の良い人物がいると学問をさせ、その中でも進歩の著しいものは重要な職務につかせた。

顧邵は兵卒出身の丁諝、庶民生まれの張秉、微賤な身分だった呉粲、殷礼らを抜擢して友人として遇し、彼らのために良い評判をまねいてやった。彼らは全て昇進し、世の人々は顧邵には有能な人物を見抜く目があると絶賛した。しかし残念ながら32歳という若さで在官中に死去した。

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顧済(こせい)

顧雍の末の息子で顧雍が死ぬと騎都尉に任じられた。顧雍の長男である顧邵が既に死去しており、次男の顧祐は不治の病であったため、顧済が爵位を継いだ。だが、顧済には跡継ぎがいなかったため、その家筋は絶えた。

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顧譚(こたん)

字は子默といい、顧雍の長男である顧邵の子。二十歳で孫登の四友の一人となり、太子庶子から輔正都尉に転じ、赤鳥年間には諸葛恪に代わって左節度の役に就いた。

官の帳簿を検査するときも、算木を用いないで暗算で間違いを全て見つけ出したので下僚たちはすっかり心服した。やがて奉車都尉の加官された。

薛綜が選曹尚書に選ばれると、彼は自分の才能、徳望は到底、顧譚に及ばないと固辞し後に顧譚がこの職務に就いた。243年に祖父である顧雍が死去すると、その数ヵ月後、顧譚は太常に任じられ祖父を継いで平尚書事となった。

顧譚も二宮の変の犠牲者で孫和擁立派になると全家、歩隲と対立するようになる。孫権は顧承を全琮親子の讒言により捕らえたが、兄の顧譚のことも考慮しなかなか処分を決められなかった。そこで孫権は顧譚に謝罪させて顧承を釈放しようと考えた。朝臣が大勢集まった席上で孫権が顧承の件について尋ねると、顧譚は謝罪せずに堂々と、このようなことがまかり通れば、わが国は讒言が盛んになりますぞと言った。結局、顧譚は顧承と共に交州に流された。

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顧悌(こてい)

字は子通で顧雍の一族である。

孝悌、廉正によって郷里の人たちの間で有名だった。十五歳で郡吏となり、やがて朝廷に出て郎中に任じられ、後に偏将軍に昇進した。

二宮の変では顧悌は朱據と共に嫡庶の区別をはっきりさせないことがもたらす弊害についてしばしば上奏した。その言葉は遠慮をしらない厳しさで朝廷もこれを憚った。

さて、この顧悌という人物は当時の儒教的思想にがんじがらめになっていた人物である。そして、その彼のそういう行動が快事として呉書では取り上げられている。

妻に対しても顧悌は礼に叶った態度で接し、常に夜遅く閨房に入り、明け方には出て行ったため、妻は夫の顔を見るのはまれであった。あるとき、顧悌が重い病気にかかると、妻が奥の部屋から見舞いに来た。しかし、顧悌は頭巾をかぶり、衣服を羽織って対面をすると直ぐに部屋に戻ると促した。要は妻が人前に姿を見せないようにさせたらしい。

顧悌は父である雇向から手紙が来ると、まず辺りを掃いて清め、衣服を整え、机と席を用意してその上に手紙を広げてひざまづいて、一句ごとに“はい”と頷き読み終えると再拝した。父が病気だと知らされると涙を流し、嗚咽で言葉を詰まらせた。

その父の雇向が天寿を全うして亡くなると、顧悌は5日間、一滴も水を口にしなかった。父親の死をいつまでも悲しみ、家の壁に棺の画を書いて霊座を設けると、その前でいつも泣いた。そして父親の喪が明ける前に死去した。

現在の我々から見れば異常な生き方である。だが、当時の儒教的思想が強い中国ではこのような生き様が美徳とされていた。

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顧秘(こひ)

顧悌の息子で後に晋に仕えて交州刺史となる。

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顧奉(こほう)

字を季鴻(きこう)といい、顧雍の曾祖父で潁川太守であった。

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顧裕(こゆう)

字を季則(きそく)といい、顧徽の息子。若くして名を知られ鎮東将軍の位にまで昇った。

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顧裕(こゆう)

顧雍の次男で不治の病をもっていたため、顧雍が死んだ後、爵位を継がなかった。しかし爵位を引き継いだ顧済が死んで跡継ぎがいなく家筋が途絶えると、孫休が顧雍の呉に対する貢献を称えて、顧裕に爵位を継がせて、醴陵侯とし家筋を残した。

顧裕は一名を顧穆ともいい、宜都太守となっている。

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顧雍(こよう)

字を元歎(げんたん)といい、呉郡呉県の人で顧氏とは陸氏、朱氏、張氏と共に呉の四姓と言われる名門である。

顧雍は蔡邕に従って学んだことがある。蔡邕は顧雍の非凡さを高く評価して、君は必ず大成するに違いない。今、私の名前を君に与えたい、と言い顧雍に名前を代えさせた。(恐らく雍と邕の発音が一緒なのでは?)

顧雍は州郡から推挙され、二十歳で合肥の県長を務めたのを手始めに、各県で見るべき業績を挙げた。200年、孫権が会稽太守の職務に当たると孫権は顧雍を郡丞に任じ、太守の仕事を代行させた。顧雍は郡内の賊を平定し吏民の心服を得た。

221年、孫権が呉王になると、顧雍は大理奉常に昇進し、尚書令の職務にもあたり、陽遂郷侯に封じられた。生来、寡黙な人間で、自分が侯に封じられたことを家族には告げず、家族はそのことを他人から聞いて驚いた。

顧雍は酒をいっさい飲まず寡黙だったが行動は全て事宜に叶っていた。孫権は、顧君は物を言わぬが、言えば必ず的を射る、と言い、顧公が座にあると、人は酒を楽しめないとも言った。顧雍がいると、彼が酒を呑まないため、周りにいる人間は羽目を外せないためであった。

225年、醴陵侯に進封され、孫邵の後を継いで丞相、平尚書事となった。顧雍は文武の官を任用するとき、その能力が任務に適しているかどうかを判断の基準とし、自分の感情に左右されなかった。時宜に適した施策をひそかに上申し、それが用いられれば孫権の発案によるものだとし、用いられぬ場合はそれを他人に漏らさなかった。

顧雍は丞相の任に19年就いており243年、76歳で死去した。病が重くなる前、孫権は医者の趙泉に命じて顧雍を診察させ、後に彼の末子顧済を騎都尉に任命した。顧雍はそれを聞くと悲しみ、趙泉は助かる病気か、そうでないかをよく診るのに長けている。私に回復の見込みがないため、主君は私の生きているうちに済の任官を見させて下さったのだと言った。孫権は素服をつけて親しく弔問し、功臣の死を惜しんだ。

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顧礼(これい)

顧悌の4人の息子のうちの一人。

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公仇称(こうきゅうしょう)

孫堅軍の長史で魯陽城出陣の際、孫堅は公仇称に命じて荊州に帰らせて軍糧を督促させようとした。

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公孫滕(こうそんとう)

太史丞の立場にあり、若いときから趙達に師事し、必死になって長年仕えた。趙達もそんな公孫滕に自分の秘術を教えると約束はしたものの、中々教えなかった。

そんなある日、公孫滕は趙達にひざまずいて伝授を請うが、趙達は自分の家族には伝授するつもりはないが、公孫滕はこうした術に心を傾けておこたることがなかったので伝授しようと言って白絹の巻物を持ってきて数日後に渡すと約束した。

公孫滕が約束した日に行くと、趙達は書物を探している振りをして、びっくりしたような顔をしてそれが盗まれていると言った。そして、伝授の話は立ち消えとなった。

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弘璆(こうきゅう)

曲阿の人で五官中郎将の地位にあり弘咨の孫。

紀陟と共に和親の使者として孫皓の手紙を携えて晋に行った。しかし、洛陽に着いたとき、たまたま晋の文帝が崩御し、紀陟と共に魏から帰還した。

後に中書令、太子少傅の官まで昇進したと書かれているが、恐らくで晋の王朝に入ったあとだと思われる。

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弘咨(こうし)

諸葛瑾を推挙した人物で、孫権の姉の婿。ということは孫権の義兄ということです。

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洪進(こうしん)

会稽郡の不服従民の首領の一人で漢興に本営をおき、一万戸を指揮していた。しかし、同じ不服従民首領の洪明が戦闘中に賀斉に斬られると降伏をした。

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洪明(こうめい)

会稽郡の不服従民の首領の一人で漢興に本営をおき、一万戸を指揮していた。しかし、討伐に来た賀斉に斬られた。

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皇象(こうしょう)

字を休明(きゅうめい)といい、広陵郡の江都の人。

皇象は幼少の頃から書に通じていた。その当時、特に書に優れていた人物として張超、陳梁甫がいたが、張超は書が厳しすぎ、陳梁甫は奔放すぎるという欠点があった。

皇象はこの二人の違った書風の間をうまく取捨し、書法の奥妙をきわめて中原の書の達人も皇象に肩を並べられるようなものはいなかった。

皇象の才能は八絶として称えられた。

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高寿(こうじゅ)

225年、曹丕が広陵まで侵攻してきて長江の岸辺に十余万人の陣を張り威を示した。しかし、長江が凍りついたために船で対岸に攻め入ることの出来なかった曹丕は空しく帰還した。

その際、孫韶の部下の高寿は決死の五百名を率いて曹丕の通り道に待ち伏せをして夜襲をかけると、曹丕は大いに取り乱し敗走した。高寿は曹丕の副車と羽蓋を手に入れて帰還した。大殊勲である。

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高尚(こうしょう)

撫夷将軍で鍾離牧が異民族討伐を行おうとした際、蜀が既にいないリスクを考えそれを諌めようと助言をした。しかし、鍾離牧はその意見を聞かずに見事に異民族を討伐した。

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高承(こうしょう)

五官掾の位にあり、孫策の使者として上奏文をたずさえて許にゆき、朝廷に土地(江東、江南)の産物を献上した。

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高岱(こうたい)

字を孔文(こうぶん)といい、呉郡の人。生まれつき聡明達識で。財産を軽んじ信義を重んじた。まだ世間に名が知られていない人物を早くから見出し交流を深めた。

呉郡太守盛憲は高岱を上計吏に任じ、考廉に推挙した。後に許貢が呉で強引に自分を太守だと名乗ると、高岱は盛憲を守るために許昭の家に避難させ自分は陶謙のもとに赴いて救援を求めたが陶謙は行動を起こさなかった。高岱が心配のあまり憔悴しきると、陶謙はようやく出兵を承諾して盛憲あての書を与えた。

高岱がそれを持って呉郡に帰ると、許貢は高岱の母を人質としていた。行けば必ず殺されると友人に忠告されたが、高岱は許貢を訪れ陶謙の手紙を差し出し言葉巧みに自分の取った行動を釈明した。納得した許貢は高岱の母を釈放した。

高岱は許貢が必ず追手をかけると予想し、あらかじめ船を用意しており、道を変えながら逃走した。許貢は予想通り追手をかけたが高岱を捕まえることが出来なかった。

その後、高岱は隠居していたが孫策が高岱に出仕を命じた。孫策は高岱が春秋左氏伝に詳しいと聞き、議論をするつもりでいた。しかし、ある人物が孫策に、高岱は将軍(孫策)を武勇一辺倒の人と考え、学問の才をお持ちでないと心中軽んじております。もし左氏伝を共に論じ、彼が分からないと言ったならばそれは将軍を軽視して語るに足りないと見ている証でありますと告げ口をした。

その一方でその男は高岱に、孫将軍の性格は自分に勝る者を憎まれます。問われた事をすべてに分からないと答えれば気に入られましょう。議論などしたら必ず危ういめに会いますぞと忠告した。

果たして、高岱は聞かれたことを全て分かりませんと答え、孫策は激怒して投獄した。すると大勢の人が高岱の命乞いをしているのを知って、これほど人心を得ていたのかと危惧し、高岱を殺害した。

面白いのが、高岱と孫策を振り回した人物の名前が出ていない。孫策とも話し、高岱とも語れる人物。大物ではないかと思う。いずれにしても、高岱はその才能が故に、その名前が出ていない人物に疎まれ策にはまって殺されたと考える。

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高通(こうつう)

孫皓の宦官。小人物にすぎないにも関わらず、多分な権限と地位を与えられていると陸凱が孫皓に上疏している。

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黄淵(こうえん)

222年、魏軍が洞口に攻めてきた際、大嵐となってしまい多くの船がひっくり返り多くの兵士が水に落ちた。落ちた兵士は無事な船に乗ろうとしたが定員を超えて沈むのを怖れた兵士はそれを矛でついて登らせようとしなかった。

しかし、吾粲と黄淵だけは水夫に命じてそうした人々を救い上げさせた。

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黄蓋(こうがい)

南海の出身で日南の太守となる。だが、着任早々、もてなしが不十分だとして主簿の役人を殺し、それが原因で都から追い出されてしまった。

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黄彊(こうきょう)

公孫淵の使者として遼東を訪れたが黄彊は他の官吏兵士六十名と玄菟郡に拘留されてしまう。拘留されて40日が過ぎた頃、秦旦は脱出する話を持ちかけると黄彊らはそれに同意した。

8月19日の夜に脱出を決行することにしたが、張松の告発により城門が閉じられてしまう。それでも黄彊らは壁をよじ登り脱出した。しかし、負傷する仲間がいたりと苦難が続いたが黄彊らは何とか無事に呉に帰還をした。

彼らの行為を義ある行為として、みな校尉の官を授けられた。

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黄呉(こうご)

陸胤が南方の地に入り、反対勢力に帰順の勧誘に務めたとき、高涼の大頭目である黄呉は配下を含めて三千余りの家族と投降をした。

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黄耇(こうこう)

工匠と書かれているので大工だと思われるが、呉平と同様、庭先に鬼目菜という植物が生え東観の役人がそれを霊芝と判定したため、縁起が良いとされ侍芝郎に任じられ銀印青綬を賜った。

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黄射(こうしゃ)

黄祖の太子と書かれているので長男だと思われる。

孫策が劉勲を攻めた際、援軍として5千の水軍を率いて援軍に行くが劉勲が既に敗北していたため慌てて帰還した。

その後、孫権の代になると柴桑に攻撃をかけたが徐盛に徹底的に叩かれたため二度と侵攻をすることはなかった。

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黄祖(こうそ)

黄祖は劉表配下の一部将であるが、孫呉軍にとっては憎き相手であった。理由は、191年に孫堅を殺害したのが黄祖の部下であったからである。それ以来、黄祖は孫策にとっても、孫権にとっても親の敵となる。

199年、孫策は劉勲を撃破した後、一気に夏口の黄祖を攻撃して大勝した。呉録の孫策の上奏文にはその圧勝振りが書かれている。だが、国内の内乱などがあり、孫策は黄祖を追いきれなかった。

孫策が亡くなると、後を継いだ孫権は203年に第一次黄祖討伐軍をおこし黄祖を追い詰めるが、黄祖の殿を務めた甘寧の活躍により凌操という猛将を失う。その後、攻めきれないでいると、国内で反乱が起きたために軍を帰還させた。甘寧の活躍で救われた黄祖であったが甘寧を用いず、その甘寧は蘇飛の情けで孫呉軍に加わる。

208年の第三次黄祖討伐戦では呂蒙、董襲、凌統の活躍もあり黄祖は大敗して逃亡することになる。しかし、結局は逃げ切れず騎兵の馮則にその首を討ち取られてしまう。

確かに、孫呉軍は国内の反乱に泣かされはしたが、孫堅死後、17年も孫呉軍と戦い渡って来た黄祖も見事といえるだろう。

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黄柄(こうへい)

黄蓋の息子で、孫権が皇帝になると、黄蓋の生前の功績を評価して黄柄に関内侯の爵位を授けた。

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黄乱(こうらん)

反乱を起こした山越の頭目で鍾離牧に平定されると、自分の配下の兵士を鍾離牧に差し出した。

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黄龍羅(こうりゅうら)

山陰の賊徒で徒党一千人を集めていたが、孫策が討伐に来た際、董襲に首を斬られてしまう。

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項峻(こうしゅん)

韋昭が呉書の編纂を行う前、郎中の項竣と太史令の丁孚が一番最初に呉書の編纂を行っていたようだが、中身は薄かったようである。

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